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第64話 輔弼近衛は算段を読む(王子視点) ~秤の評定~

同じ場面を殿下の目線で見直されると聞いて、「俺のあの一歩、やっぱり怪しく見えてたんだろうな」と今さら冷や汗をかいている。

雪原の音は、剣よりも残酷だと、その日ようやく思い知った。風が鳴りやむと、戦場は耳で測る場所になる。兵の呼吸、雪を踏む拍、槍と盾の間で鳴る金属音――それらが、戦況のすべてだった。


王太子旗が掲げられたとき、確かに空気は変わった。沈んでいた前線が、ぐっと持ち上がるのがわかる。歓声が雪を震わせ、押されていた列がじりじりと前へ出る。


(まだ戦える。まだ押し返せる。――ここで退く道理はない)


そう信じていた。信じていなければ、旗を掲げて前に出るなどできはしない。

そのときだ――

アレン――輔弼近衛が、少し下がった位置からこちらを見ていた。いつも通り、無礼にならぬぎりぎりのところで口を出す顔。だが、その視線は前ではなく、北東の林の方へ向けられていた。


「殿下」

呼ばれて振り向いた瞬間、胸の奥が冷えるのを感じた。あいつの声は、何かが崩れる前にだけ、妙に澄む。


「どうした」

「敵です」


戦場というものは、時に一語で形を変える。その一言で、歓声が遠のいた気がした。

アレンが示したのは、こちらが通ってきた林道の方角だった。

雪煙。黒い帯。槍。旗。

背中側から、金属の打ち合う音が響く。


「……後ろだと?」


副官の声が震えた。震えて当然だ。王族を中心に敷いた陣が、王族ごと挟まれる。

前線は囮、後方から本隊――教本には載っている。だが、自分がその中心に立つことになるとは考えたこともなかった。

(敵の策に落ちた。旗の下で、まんまと)

頬が熱くなった。恥と怒りで、冷気さえ焼けるようだった。


「全軍、抜剣して反転! 親衛隊、続け!」

 口が先に動いていた。王族が背を見せる前に、敵を討つ。挟撃されるなら、その片翼を叩き折る。そう教わってきたし、そうあるべきだと信じてもいた。


だが、アレンが馬を進め、こちらの手綱の前に割り込んだ。

「殿下、理が……いや、利がございません」


――利――


このときにその語を口にする胆力に、苛立ちより先に驚きが立った。

「この後に及んで理だの利だのと言っている場合か。我らが止めねば、前線の兵が全滅する」

本心だった。自分が旗を掲げて前へ出し、兵が息を吹き返した。その兵を捨てて、どうして自分だけ退くと言える。


(俺が逃げれば、「王家は背を向けた」と語られる)

それは、どれほど戦果を重ねても消えない汚点になる。負けるよりも、なお重い敗北だと感じていた。


「敵の策に嵌ったのは後で詫びれば済みます。今は御身こそが要です。旗が折れれば、兵は散ります」

あいつは平然と言う。

自分一人の命に価値があるのではなく、「旗」という記号の存続に価値がある、と。


「俺一人だけ逃げよと申すか!」

思わず怒鳴った。怒鳴りながら、どこかでわかってもいた。これは怒りだけではなく、恐怖だと。

自分だけが生き残ることへの、耐え難い恐怖。

(父上なら、どうしただろう。――いや、考えるな。今は俺だ)


「そうです、と言いたいところですが――お一人では危険です。親衛隊ごと退却なさいませ」

「退く道など、もう塞がれておる!」


視界の端で、林道の雪煙が濃くなっていく。正面の敵も、まだ死にきっていない。どこに退く道があるというのか。


アレンは、それでも首を振った。

「後ろが本隊なら、前面は囮。いま、我軍は押しております。

 ――正面に退却を」

正面に、退く。その瞬間、頭が真っ白になった。

(退却は、背に道があるからこそだろう。敵へ向かって退くとは何だ)


体が拒んだ。王家の剣として鍛えられてきた身体が、「前は攻める場所だ」と叫んでいた。


「殿下、万が一陛下がお倒れになれば、敵を滅ぼしてもこの戦は敗北です。秤として申し上げます――前線への退却を」


秤。

その役目を与えた詔の文言が、脳裏をかすめる。王族の傍らで利と理を量り、時に王族にさえ刃を向け得る存在。

(あれは、飾りではなかったのか)


沈黙が落ちた。風の音さえ聞こえなくなる瞬間がある。

選択を一つに絞るとき、世界はやけに静かだ。

「……そんな策、聞いたことがない」

そう言うのが精一杯だった。

「怖い」と口にするよりは、まだマシな言葉だった。


アレンの視線が、わずかに鋭くなる。次の瞬間、鞘走りの音がした。

銀の線が、視界を切り裂いた。

「ご無礼いたします。詔に曰く、『王族に直言して其の過を糺し、時に刃を抜きて其の暴を止むべし』。秤の本領、果たさせていただきます」


刃先が喉元で止まる。

冷たいはずの鉄が、焼けるように熱く感じられた。

(……刺せるのか、こいつは)


少し首を動かせば、皮膚が裂ける距離。

親衛隊の手が一斉に柄にかかる気配を感じたが、誰も抜かなかった。

秤が詔に従っている――それがわかるからだ。


恐怖と、妙な安堵が同時に胸に広がった。この男は、俺ではなく「王国の利」を見ている。ならば、この刃は俺個人への裏切りではない。


「俺にここまでするのだ。勝機はあるんだろうな」

自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。喉を刺すかどうかの決定権を相手に預けたまま、問うている。


「敵の本隊と戦うよりは、まだ理があります」


即答。

この場で「必勝」とは言わない。言えないことをごまかさない。

その一点が、かろうじて信を繋いだ。


「言え」

「敵の前線の少し向こうに、国境に沿って砦まで続く道がございます。

 親衛隊を二列縦隊にして突破、殿下はその間を抜けてください」


前へ退く。敵の喉元をかすめて、さらに向こうへ逃げる。退却でありながら、動きは前進――退きながら進む。


言いようのない矛盾が喉に刺さる。

(これは退却か? 逃走か? それとも――)


アレンが一瞬だけ目を伏せた。

その表情に、罪悪感らしき影がちらりと走る。

(そうか。こいつも、これを汚いと知っている)

王族のために兵が死ぬ。それ自体は戦の常だ。だが、「退くため」に兵を前に差し出す――その形こそ、自分が最も忌んできたものだった。


「聞きたいことは色々あるが、今は聞かん。副長、聞いたな」

そう言いながら、胸の奥で何かがぐらりと揺れた。

ここで否と言えば、剣を押し出させることになる。

それは、王族としての自死に近い。


副長が応じる。

「親衛隊を二隊に分け、楔陣にて敵中央を突破いたします。

 殿下の前に四騎、殿に四騎。先導は輔弼近衛殿、貴殿が務めよ」


アレンの気配が、ほんの少しだけ固くなった。自らは残って戦うつもりでいた顔だ。

それを、こちらが連れ出す。

(お前だけに汚れを背負わせはしない。――そう思わせたのは、お前の剣だ)



号令が雪原を裂いた。親衛隊が前へ吶喊する。楔の先端が敵列に食い込み、狭い通路がひしゃげるように開いた。


「露払い、先行!」

四騎が前に飛び出す。一騎が矢を受け、落馬する。 もう一騎が槍に貫かれ、馬ごと倒れる。


(俺のために死ぬ。――いや、旗のために、か)

そう言い換えてみても、胸の重さは変わらなかった。むしろ、「旗」という抽象を持ち出した分だけ、言い訳じみて聞こえた。

残る二騎が道をこじ開け、その後ろをアレンが駆け、俺が続く。雪が脇へ跳ね、血が線を引く。

耳の中で、自分の鼓動だけがやけに大きくなっていた。

背後では、殿の四騎が敵を引きつけていた。二騎が落馬し、残る二騎が盾のように馬首を並べる。


(振り返るな。振り返れば、退進がただの逃げになる)

そう言い聞かせる。だが、胸のどこかで、「見ておけ」と囁く声もあった。

誰がどのように倒れ、どのように自分の逃げ道を作ったかを、目に刻めと。


結局、振り返ることはできなかった。前を見ていなければ、馬も心も折れるとわかっていたからだ。

丘を下り、林の影が迫る。雪の中に、かすかに踏み固められた筋が見え始める。


「この先です!」

アレンの声に、知らず安堵が漏れた。


本当に道があった。

もしなかったなら、これはただの無様な突撃で終わっていた。

枝が肩鎧を叩き、馬の吐息が白く絡む。雪が音を吸い込み、世界が狭くなる。

やがて、戦場の喧噪は丘の向こうへ沈んだ。旗も叫びも見えない。聞こえるのは、馬の蹄と自分たちの息だけだった。


「……本当に、離れたな」

思わず口をついた言葉は、安堵というより告白に近かった。戦場から離れたという事実を、まず自分自身に認めさせるための。

アレンが振り向く前に、先に言葉を出した。

「さきほどの剣――怖かったぞ」

本当に怖かった。刺されるかもしれない恐怖よりも、あの刃が「正しく」見えてしまった怖さが。


「恐れながら、私もです」

珍しく、率直な答えだった。その裏に、「それでもやる」と決めていた気配がある。

(退進。……そう呼ぶべきなのだろう)


背を向けて逃げるのではない。

前へ退く。

利を量り、理の内に退く。


その名を、いつか記録に残さねばならないだろう。丘を越えると、砦の塔が氷を光らせていた。あれを目指して退いたのだと思うと、わずかな救いのようにも感じる。


「もう少しだ――急げ!」

六騎が雪煙を上げて駆け抜ける。背後の空が赤く揺れた。遠くで、まだ戦線が燃えている。

あの炎の下に、まだ旗が立っているのか。兵は生きているのか。 確かめる術はない。

(理が生きているうちは、まだ負けではない――そう言ったのは、確かあいつだったか)


今日は、その理に従って退いた。王家の剣としてではなく、王国の利を量った秤の判断に。

そして、自分はそれを許した。喉元の刃を受け入れ、前への退却を命じた。

この退進が、いつか攻めの一手に変わるのか。それとも、ただの逃走として語り継がれるのか。

それを決めるのは、これから自分がどう戦うかだけだ。


砦の門が見えてきたとき、ようやく息を吐いた。まだ、剣を抜く機会は残されている。

退進は、終わりではない――そう言い聞かせながら、俺は馬の腹をもう一度だけ蹴った。



お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

次回は副長視点で、親衛隊のど真ん中からこの一連の騒ぎを覗いてもらいます。

第一印象が「胡散臭い近衛が来た」なのは、まあ否定できません。

ただ、胡散臭いなりに命の数え方だけは真面目にやっている、という話になる……はずです。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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