第62話 輔弼近衛は出陣する(王子視点)~王家の旗は立つ~
嫌な予感というやつは、だいたい「こっちから見えちゃいけないもの」が先に目に入ったときに限って当たる。
夜明けの王都は、まだ眠っていた。
城壁の霜が白く光り、門兵の息がかすむ。
軋む音とともに、門が冬の空気を裂く。冷気が押し寄せ、頬の内側までじんと痺れた。
列が動き出す。
蹄、鎧、息――音がひとつに重なる。
兵たちの吐く白い息が、薄暗い空の下で揺れては消える。その中に紛れて、ひときわ律儀な足音があった。
(……来たか、アレン・アルフォード)
三列目。護衛としては遠いが、視界には入る距離。
“輔弼近衛”と呼ぶには、まだ静かすぎる背だ。威圧も誇示もない。剣士らしい気配より先に、計算高そうな沈黙だけが付きまとっている。
旗を見上げず、ただ歩く。
恐らく、地形と風と人の流れを測っているのだろう。
雪を踏む深さ、列の間隔、馬の歩度――そういうものを、黙って拾い集めている。
(言葉より先に考える男だ。それが利であり、同時に弱点でもある)
考えすぎる者は、一拍遅れる。
戦場でその一拍は、しばしば血の色をしている――そう教えられてきた。
だが同時に、
(俺の周りには、「先に言う者」ばかりが多すぎる)
父王をはじめ、元老の将たち。声高に方略を語る者、口で勇を上塗りする者。誰もが「王太子の前では、まず言葉」で立とうとする。
その中で、アレンの沈黙は逆に目立った。稽古場で剣を交えたときも、余計な前置きは一つもなかった。ただ打ち合い、ただ受け、ただ測る。そのくせ、こちらの剣にひびを入れてくる。
(言葉で飾らないぶん、誤魔化しも利かない。……さて、それが秤としてどう転ぶか)
霜丘――名は詩のようだが、実際は氷の砥石だ。
丘を登るたび、雪が靴底を削る。馬の脚も、兵の息も、じわじわと削られていく。
遠くから見たときは、ただ白い丘だった。
だが近づいてみれば、表面は固く凍り、風に磨かれて滑る。足を取られぬよう気を配るだけで、体力を削られる類の地形だ。
(見栄えだけの戦場ではない、ということか)
旗は、見える場所に立てるもの。
見えるということは、狙われるということでもある。
それでも掲げねばならぬ――それが王家の務めだ。
少年の頃、父王に連れられて初めて戦場を遠見した日を思い出す。
幼い目には、まず旗ばかりが映った。
敵味方の旗、色と紋、揺れ方。
「旗が倒れれば軍は折れる」と父は言った。
その言葉は、ひとつの物語のように美しかった。
今は、その物語の重さを知っている。
(覚悟を掲げるのが旗。理を支えるのが秤。……さて、どちらが先に折れるか)
旗は感情を煽る。
秤は感情を削る。
両者が並び立つとき、どちらがどちらを上書きするのか――それを確かめるために、アレンを連れてきたのかもしれない。
昼を過ぎ、風が強まった。
雪の粒が細かくなり、斜めに頬を叩く。
兵たちは黙して進む。掛け声ひとつ上げる余裕もなく、ただ決められた歩数を刻んでゆく。
三列目の歩調だけが、妙に一定だ。
崩れぬ歩き方というのは、訓練だけでは身につかない。
自分の足場と隣の足場と、その先にある「崩れた場合」を、一瞬で想定できる者だけが、ああいう歩き方をする。
(恐れを計算できる人間。だが、秤は心を測る道具ではない)
恐怖に鈴をつけて棚に並べるような男だ。
それは冷静とも呼べるし、冷淡とも呼べる。
兵たちが彼をどう見ているのか、レオンはまだ測りかねていた。
「信頼」という言葉を、安々と使いたくはない。
王家の名の下に「信頼する」と口にした瞬間から、それは王家の責任になる。
まだ、そこまでの重みをこの男に預けてよいのかどうか、判断がつかない。
(彼を連れてきたのは、信頼ゆえではない。――見極めるためだ)
自分の目で見なければならない。
稽古場の一太刀や、将校たちの評価だけでは足りない。
秤は、静かな部屋の中ではなく、揺れる場所でこそ本性を晒す。
秤が秤たり得るか。この目で確かめねばならぬ。
同時に、もう一つ、言葉にしづらい棘が胸に残っている。
アレンの剣が自分の剣を止めた、あの一瞬から刺さり続けているもの。
敗北ではない。だが、完勝でもない。
王家の剣「であるはず」の自分の物語に、細い亀裂を入れた男だ。
(あの亀裂が、戦場でどう出るか。――それも、見てみたい)
丘陵地に入り、停止の号令をかける。
「ここを後方本陣とする!」
声を張ると、胸郭が少し熱くなった。
号令に応じて杭が打たれ、帆布が張られていく。
テントの配置、荷車の位置、焚き火の場所――それらが手際よく整っていくのを眺めていると、「動いている」という事実だけが妙に心を落ち着かせた。
動いていれば、考えなくて済むことがある。
だが指揮する者は、動きながら考えねばならない。
足を止めた瞬間に襲ってくる不安をごまかす相手が、もう身体の動きだけでは賄えない。
北東には森が連なり、雪の奥に細い影が走る。
枝と枝の隙間から覗く、わずかに暗い筋。
あれが道かどうか、この距離では判然としない。
ただ、嫌な「通り道」の形をしていると、勘が告げていた。
(……あの森。嫌な形をしている)
だからこそ命じる。
「副官」
「はっ」
「陣形を確認しろ。――輔弼近衛の判断を仰げ」
「承知いたしました」
副官が雪を蹴り、三列目へ向かう。
その背を、私は静かに見送った。
(……秤としての判断。さて、どんな顔を見せる)
彼が「危険」と言うなら、それはそれでよい。
王家は理を聞いたうえで、なお旗を掲げるという選択もできる。
彼が「大丈夫」と言うなら、そのときこそ秤を測る番だ。
いずれにせよ、彼の言葉はこの戦で「基準」になる。
王太子の側に置く秤とは、そういうものだ。
やがて副官が戻り、報告した。
「殿下、輔弼近衛殿、確認に入られました」
「そうか」
短く答え、視線を前へ戻す。
答えを聞くのは、そのあとだ。
先に、自分の胸の中を確かめる。
(俺は、どこまで秤に預けるつもりでいる?)
すべてを預けるのなら、それはもはや秤ではなく「代行」だ。
王家の旗が他人の判断に完全に従属することなど、あってはならない。
だが、まったく聞かぬのなら、秤を置いた意味がない。
(父上は、どうしただろうか)
幼い日、父王に尋ねたことがある。
「ご決断のとき、誰の意見を一番重く見ますか」と。
返ってきたのは、「最後に残った意見だ」という曖昧な答えだった。
すべて聞いて、すべて量って、それでも残る少数意見か、自分の直感か――。
その意味を、今になってようやく実感しつつある。
風が吹く。旗が鳴る。
その響きが、胸の奥の針を微かに揺らした。
針は、まだ定位置を見つけられずにいる。
(――恐れの中で針を立てられるなら、その時こそ秤だ)
その秤を、今、自分は手元に置いている。
彼が針を立てるのか、それとも自分のほうが先に折れるのか。
どちらの結末であれ、今日という一日は、王太子レオンにとっての「試験」になる。
(秤を試すつもりで連れてきた。――だが、試されているのは俺のほうかもしれんな)
小さく息を吐く。吐息が白くほどける。
その向こうに、三列目の影が揺れた気がした。
まだ報告は戻らない。
だが、胸の奥の針はもう、静かにはしてくれそうにない。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回、ようやく「雪の中で耳の仕事をする回」です。
前線のざわめきとは違う、ちょっと嫌な音が、どうにも耳の端に引っかかる。
戦場で「なんか変だな」が当たるときは、だいたいロクでもないときです。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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