第60話 輔弼近衛は勉強する(レリア視点) ~湯気の役割~
出陣の段取りだけは見事に整ったのに、心だけは最後まで「行きたくない」の一行で埋め尽くされている。
夜番の鐘が二つ鳴るころ、王政庁の北廊は人の気配が薄くなる。
冬の石は冷えを蓄え、踏み鳴らす踵から膝へとゆっくり登ってくる。
――この刻に灯の消えぬ部屋は、宰相府、軍務省、そして図書室。
扉の隙間から紙の擦れる音。灯火は深い蜜色。
私は盆の布を正し、湯気の逃げ道を確かめる。冷めきる前に届く距離と時間を、頭の中で量る。
(……やはり。輔弼近衛殿は今夜も籠城中)
ノックは軽く二度。それ以上は急報だ――それが王宮のルールである。
「輔弼近衛様。――まだご在室ですか?」
扉の内側で、さらさらと走っていた筆の音がぴたりと止まる。短く「どうぞ」と返事が返ってきたのを聞き、私は取っ手に手をかけて扉を開けた。
灯に縁どられた横顔は、目だけが働きすぎて、他の筋肉が休んでいる。
「お疲れさまでございます。もう夜も更けております」
「ええ……少し、地図を見ておりまして」
その声に“策”の気配はない。
私は頷かず、盆を脇机に置く。布をめくると湯気が立ちのぼり、紙の匂いに小麦と牛乳の甘さが混ざる。
「温いものをお持ちしました。お手を止めて、少しお召し上がりを」
「……ありがとうございます」
匙が小さく鳴る。
地図の上を指が行き来するが、鉛筆は動かない。
(まだ、形にはなっていないようね――)
私は音を立てずに布を整え、灯の揺れを見守る。
助言はしない。秤の皿に指をかけることは、女官長の務めではない。
私の役目はただ、針が揺れすぎぬよう室の温度を保つこと。
湯気が薄まり、香りが落ち着く。
その頃には、彼の肩がわずかに下がっていた。
「……学校の試験を思い出します」
机に落とした視線のまま、アレンが独り言のようにこぼす。
「騎士学校の頃から、これほどお勉強をなさって?」
「落第したら、母に鍬で追われますので」
「……冗談がお上手で」
私は笑みだけで応じる。
言葉を重ねれば、思考を妨げる。
女官長とは、沈黙のあいだを整える職。声ではなく、温度で秩序を守る。
灯芯が小さく鳴り、紙がめくられる。
筆が一度だけ走り、止まる。――迷いの線。
けれど、その迷いを止めるのは彼自身の仕事だ。
匙の音がやみ、椀が卓に戻される。
「……ご馳走さまでした」
「少しは温まりましたか」
「ええ。頭の中が少しほぐれた気がします」
「それは重畳」
それ以上は問わない。
策を立てる人に、外から形を与えることはできない。
私はただ灯を整え、湯を替え、紙の端を乾かす。
そこに秩序があれば、秤は自ずと働く。
廊に出ると、石はまだ冷たい。
北の窓に霜が降りている。硝子越しに見上げれば、星がまばらに瞬く。
あの向こうに霜丘。旗が立ち、兵が歩き、誰かが退く。
退くは敗走にあらず。次に進むための“間”を選ぶこと。
王妃陛下の夜話を思い出す。
――秤は法の外に在り、ゆえに権の手はこれを縛ること能わず。されど秤は理の内に在り、ゆえに道の外に出ず。
秤が理に従うためには、周囲が静まっていなければならない。
だから私たちは灯を保ち、湯を運び、紙を整える。
その静けさこそ、秤の動ける空気。
(アルフォード殿。どうかその針を、凍らせませんように)
盆の底が手に馴染む。階を折り返すと、夜番の衛兵が礼をした。
私は微笑みで返し、厨房へ向かう。
明日の支度は、今夜のうちに半分まで片づける。
王城は静かだ。だが、その静けさは「何もない」からではない。
誰かが灯を見張り、湯を運び、人が休めるように沈黙を整えている。
そうして、この城は夜を越え、国もまた何事もなかった顔で朝を迎える。
鍋の蓋が鳴り、湯気が上がる。
新しい布を広げ、湯を注ぐ。
――明夜も、似た灯がひとつ点るだろう。
私の務めは、そこから逸れない。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回、机に貼りついていた近衛が、そのまま雪原に放り出されます。
「ちょっと地図見てただけなんですけど?」って顔のまま、出陣の列に混ざる羽目に。
霜丘は景色だけ詩的で、中身は冷凍庫なので、読者の方は毛布をご用意ください。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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