第54話 王家の剣(王子視点) ~剣と誉~
殿下の剣と誉れの話を聞けば聞くほど、「あの砂投げ、本当にあれで良かったんだっけ」と胃のあたりがずっと重い。ホーンラビットには効くんだよ、あれ。
仕合の熱も、剣戟の余韻も、城壁を渡る風がすべて攫っていったように思えるのに、胸の奥だけはなおざわついていた。
勝敗を定めた一振りの記憶が、細い棘のように脈を打っている。
王太子府の回廊を抜け、自室へは戻らず、そのまま執務室へ向かう。
石畳を踏むたびに、金具の音が小さく響く。
仕合の直後に戻るこの部屋は、あの場よりも冷たく、あの場よりも遠い。
扉を押し開けると、紙の山と蝋燭の灯が出迎えた。
分厚い報告書が幾重にも積まれ、封蝋の赤がやけに鮮やかに見える。
鎧は脱いだはずなのに、肩だけがまだ重い。
木剣での仕合だったはずなのに、今も胸の奥では“真剣”が抜かれたままだ。
椅子に腰を下ろし、机の端を指でなぞる。
報告書に手を伸ばそうとして、止めた。
文字が霞んで読めない。
頭の奥で、さきほどの木剣がぶつかる音が何度も再生される。
一太刀の差。わずか一手の遅れ。
それだけのことで、己の剣は止められ、地を踏んだ。
それでも胸の奥に残るこのざらつきは、ただの敗北の痛みではない。
剣で劣ったというだけでは片づけられぬ、もっと深い何かが疼いていた。
控えめなノックの音が、そのざわめきを断ち切った。
「入れ」
「失礼いたします、殿下」
入ってきたのは側近のユリウス・カーネル。
幼い頃から共に剣を学び、幾度も仕合の場で肩を並べてきた、もっとも信頼する男だ。
整った礼を取るその姿は、試合の熱など初めからなかったかのように清潔で、塵ひとつ纏っていない。
「お戻りと伺いました。お疲れのご様子、お体にお変わりはございませんか」
「ああ。……座れ、ユリウス」
短く応じると、彼は恭しく腰を下ろした。
その姿勢は正しく、目はまっすぐこちらを見ている。
勝者を讃えるでも、敗者を慰めるでもない――ただ、王太子の言葉を待つ忠臣の眼差しだった。
沈黙が落ちたのち、俺は逡巡しながら問いを口にした。
「ユリウス。“王家の剣”とは何だ」
問い終えるより早く、答えが返ってくる。
「誉でございます、殿下。王の御名を掲げ、その威に恥じぬ勝利を献ずる――それが王の剣の本懐」
即答だった。迷いもためらいもない。
あまりにも整っていて、あまりにも正しい。
――ああ、かつての俺も、そうだった。
勝利は誉であり、誉は剣の糧。
剣は王家の冠を支える柱。
幼い頃からそう教え込まれ、それを疑うことなどなかった。
疑うことは弱さであり、迷いは剣を鈍らせると信じていた。
だが今、その答えは胸の奥で軋んだ。
“誉”という言葉が、あの一太刀の前で別の顔を見せたのだ。
敗北そのものよりも――「王の剣とは何か」という問いが、容赦なく俺を打ちのめした。
「ユリウスよ。それでは俺が負けた場合、誉は失われるのか」
「殿下は決して負けませぬ」
そうではないのだ、ユリウス。
誉とは、勝敗の上にだけあるものなのか。
剣を抜いても護れぬものがあり、誇りを掲げても届かぬ声がある。
「……誉、か」
自分の声がかすれていた。
それでも問わずにはいられなかった。
「誉とは、なんだ」
ユリウスは一瞬目を瞬かせたが、すぐに揺るがぬ声で言った。
「誉は誉でございます。栄であり、命であり、光でもありましょう」
その言葉は澄んでいた。
まるでこの世に疑問など存在しないかのような響きだった。
彼にとって誉は、考えるものではなく“在る”ものなのだ。
「……では、王家とは何だ」
俺の声は、自分でも驚くほど低かった。
ユリウスの眉がわずかに動く。
「剣とは、何だ。民とは、何だ。国とは、何だ。――我らは何のために剣を抜き、冠を戴くのだ?」
その問いは、もはや彼に向けたものではなかった。
自分自身に叩きつけていた。
問いの先にしか、もう進む道がないように思えた。
だがユリウスは、静かに首を振った。
「……殿下。そのような問いに、意味などございましょうか」
穏やかな声音。侮蔑ではない。純粋な信だった。
俺は息を呑んだ。その言葉に、また自分の過去が映っていた。
信があれば剣は迷わぬ――そう教えられ、そう信じてきた。
意味など考えなかった。考えるより先に剣を抜き、勝利を献げることだけが己の道だった。
胸が痛んだ。これは絶望だと悟る。音もなく沈む、静かな絶望だ。
問いに意味はあるのか。
俺はこれまで、その問いすら持たなかった。
「……すまぬ。疲れているのだろう」
ようやくそれだけ言った。退却の言葉。
ユリウスは深く頭を下げた。
「今宵はお休みください、殿下。起案や報告は私が整理しておきます」
「ああ、頼む」
「はっ」
扉が閉じ、静寂が戻る。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、影が長く伸びた。
俺は椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。
王城の天井には、古い戦の絵が描かれている。
凱旋する騎士、冠にひざまずく臣、掲げられる旗――それこそが誉。
あまりにも長い間、それがすべてだった。
問いは増え、輪郭は曖昧になっていく。
剣は王家の延長か。王家は剣の鞘か。
民は剣に何を託し、国は剣で何を護ってきたのか。
初陣の夜の言葉、母の静かな眼差し、稽古で勝ち続けた日々。
どれも誉で彩られていた。
誉は確かに背骨を与える。だが、栄は時に重さを隠す。
窓を開けると、夜風が流れ込んだ。
王都の灯が星のように散っている。遠くから、酒場の歌が聞こえる。
民――。
玉座に近づくほど、民の姿は遠ざかる。
あれほど近くにいたはずの顔が、声が、霞の向こうに滲んでいく。
名も痛みもない“数”へと変わり、ただ風のように通り過ぎていく。
風は泣かず、声を上げず、刃の向こうで何を思っているのかもわからない。
今日、宮廷の廊であの若者が口にした語が、鈍く頭をよぎった。
――秤。
口と意と身をもって道を量る者を、秤と呼ぶという。
王家の傍らに置かれるべきものとしての、秤。
ならば、その秤は、いったい何を量るのか。
言か、意か、身か。剣か、冠か、沈黙か――それとも、俺自身か。
ユリウスの言葉が耳に蘇る。――誉。
正しく、美しい。だが秤にのせたとき、針はどこに振れる。
誉だけで均衡が保てるほど、民は軽くない。国は軽くない。王家もまた、軽くあってはならない。
俺は机に視線を落とし、手元の紙片を引き寄せた。
思わず筆を取る。考えることを、形にしてみたかった。
五つの語を書く。
――「王家」「剣」「誉」「国」「民」
互いに引き合い、押し合う語たち。どれを中心に据えるかで、世界は姿を変える。
どの言葉も正しい。だからこそ、秤が要るのだ。
俺は最後にもう一語、静かに書き足した。
――秤。
そして悟る。
もう、この言葉の重みからは逃れられないのだと。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
「揺らぎ」と「忠」が交錯した夜、王家の秩序に微かな亀裂が走ります。
剣と冠、その意味を問い直す時が訪れようとしていました。
迷いと決意が交差する、次なる一歩をご期待ください。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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