第一話 輔弼近衛は帰還する ~スープは涙の味~
お待たせえ致しました。
第二章 第二王子編です。
楽しんで頂ければ幸いです。
投稿は週2回(火・金)で行う予定です。
久しぶりに近衛詰所の食堂の扉をくぐった瞬間、胸のどこかがきしりと鳴った。
夕餉どきの広間は、いつも通りの喧噪に満ちていた。兵の笑い声。椀が触れ合う音。遠くで落ちた匙の乾いた響き。燭台の火が厚い石壁に跳ね返り、どの顔も少しだけ赤く見えた。
半月前まで、ここは「仕事帰りに腹を満たすだけの場所」だった。今は違う。雑多な音の一つひとつが妙に澄んで、鼓膜の奥へ刺さってくる。
厨房の前には列ができていた。順番が近づくほど、鍋の湯気が濃くなる。根菜を煮込んだ甘い匂い。肉を燻した香り。焼きたての黒パンのかすかな焦げ。
(……匂いだけで泣きそうって、どういうことだ)
自嘲してみたのに、盆を受け取る指先はどうしようもなく震えていた。
下働きの少年が、おずおずと大鍋を示した。大盛りでよいか――そう尋ねているのだと気づき、俺は慌てて笑みを作った。
「はい。大盛りでお願いいたします」
声が少し掠れていた。少年は気づいた様子もなく、真面目な顔で椀にスープをなみなみと注ぎ、肉の乗った皿と黒パンを盆に添えた。
見慣れすぎて何の感慨も湧かなかった配膳が、今は儀式のように重い。
隅の壁際の席へ行き、腰を下ろした。椀を両手で包むと、底からじわりと熱が掌に広がった。
一口、啜った。
舌に触れた瞬間、塩気と熱が押し寄せ、煮崩れた芋の甘味が追いかけてきた。
(……うまい)
思考より先に、目の奥が熱くなった。二口目で視界が滲み、三口目を飲み込むころには、頬を冷たいものが伝っていた。
――泣いている。
それを理解するのに、数拍かかった。
(落ち着け。近衛の食堂で、スープに感動して泣く大人は嫌だろ。せめて部屋でやれ)
袖口で目元を押さえた。けれど涙は頑固で、押さえつけるほど胸の奥から次が湧く。石の床の冷たさしかない地下室で、味の抜けた粥の色だけを眺めていた十数日が、湯気に混じって蘇った。
息が整わない。もう一口だけ――と匙を運ぼうとした、そのとき。
横合いから投げられた声が、思考を乱暴に引き戻した。
「――スープで泣く奴なんて、初めて見たぞ」
耳に馴染んだ調子。軽口と皮肉を混ぜる癖のある声。
顔を上げると、盆を片手にラースが立っていた。軍務卿付き近衛で、俺に宮廷の作法を叩き込んでくれた先輩だ。半笑いの形は変わらないが、目の奥だけが鋭い。こちらの様子を素早く値踏みする光が、そこに宿っていた。
「随分、帰ってくるのが遅かったな」
安堵した。だが同時に、見透かされたような気まずさが胸の奥に引っかかった。
「お久しぶりです、ラースさん」
俺はそう言って、椀から指を離した。ラースは何も言わずに向かいへ腰を下ろした。
(……来てくれた)
ラースの視線は、スープと俺の頬を行き来した。涙の跡に気づかないほど鈍感ではない。だが、そこを正面から抉るほど無神経でもない。代わりに、いつもの調子で矛先をずらしてきた。
「北は、そんなにひもじかったのか?」
問われて、俺は――口が先に動いてしまった。
「すみません。少々――」
言葉を濁そうとしたのに、口が勝手に続く。
「――大逆罪に問われちゃって」
何を言っているんだ、俺は。そう思った瞬間にはもう遅かった。この人に叩き込まれた報連相のせいで、口が先に動いた。
「ぶっ――!」
スープを口に含んだラースが、盛大に吹き出した。
近くの卓で、椀が卓に戻される乾いた音がした。笑い声が一瞬だけ細くなり、すぐまた広がった。
俺は反射的に椅子から立ち上がり、飛沫を避けた。
「行儀が悪いですよ、ラースさん」
「そんなこと言ってる場合かよ。大逆罪なんて、冗談にしてもほどがあるだろ」
(……冗談じゃないんだけどな)
「いいか、『大逆罪』なんて――」
ラースの声が、耳の奥で遠ざかった。南原の乱、謀反人、大罪――断片的な語が胸に刺さる。最後に「なんで北の前線に行ったお前が、そんなものに問われるんだよ」という呆れた声だけが、妙に鮮明に届いた。
(……宰相様は『何もなかったのだ』と言った。これ以上はまずい)
「ラースさん。ここでは、あまり具体的なことは申し上げられません」
「……俺を巻き込むなって言ったのは、覚えてるよな」
その声音が、針のように胸を刺した。
ラースさんは怒っている――いや、違う。これは警告だ。
喉の奥で言葉が硬く固まるのを感じながら、俺は椀から指を離し、卓板にそっと置いた。
そのまま指先に残る木目のざらつきだけを頼りに、呼吸を一拍ぶん伸ばした。
地下を出される直前、封緘の跡が残る薄い紙として回付された文面が、ふいに脳裏に浮かぶ。短く、そして容赦がなかった。
――本件に関する詳細は、王命により口外を禁ずる。噂の流布、これに順ずる一切の行為を、重罪として処断する。
(……思いきり口を滑らせた気がする)
文言を思い返すだけで、手首のあたりがうっすら冷えた。鎖の感触は、そう簡単には皮膚から抜けない。
ラースは眉をひそめたまま、声量を落とした。彼の務めは騒ぎを起こすことじゃない。騒ぎを起こさせないことだ。半ばはため息で、半ばは独り言のように、俺の戻りが遅すぎたこと、北からの報告書と帰還者の数が妙に合わなかったこと、「前線で何かがあったらしい」という断片だけが自分の耳にも漂っていたこと――それらを短く並べた。
そこに「大逆罪」という言葉は出てこない。出てくるはずがない。もしどこかでその語が紛れ込んでいたなら、今夜の食堂はもっと重い沈黙に沈んでいただろう。
「お前、前線で随分たちの悪い冗談を覚えてきやがったな。だが、俺以外にそんな軽口叩くなよ。冗談でも、言っていい言葉じゃねぇぞ」
呆れたように言い、ラースはスープを啜った。
「……そうですね。気をつけます」
(……泣くな。ここは食堂だ)
そっと目元を拭う。ラースは気づいていないだろうか。いや、あの人が気づかないはずがない。――気づかないふりをしてくれているのか。
俺は内心の葛藤を押し隠すように、懐かしいスープを口に運んだ。湯気が鼻先を撫で、塩気が舌に残る。温かい。ただ、それだけでよかった。
――涙の味は、もうほとんど消えていた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回は1/23(金)21:00頃の予定です。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【皆様へのお願い】
面白い/続きが気になると思っていただけたら、
『ブックマーク』、『☆☆☆☆☆』、『感想』、『誤字報告』をいただけると大変励みになります。
(ついでにとても喜びます)
皆さまの声援だけが心の支えです。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★




