103話 第一部補遺 王朝秘史演義②
――霞丘事件と「黙之雄弁」をゆるく読み解く外伝――
※本編は101話でひと区切りついています。この話は「霞丘楔砦って結局どう評価されたの?」を歴史読み物風に振り返る補講回です。本筋の重大ネタバレにはなりません。
――王朝秘史演義 第五巻 霞丘の三つの議(外伝版)――
【一.霞丘の議定】
王暦九百五十四年。
王子レオンの軍は野戦で賊軍の挟撃を受け、やむなく山中の小さな砦――霞丘楔砦へと退いた。
兵は少なく、糧も乏しい。
砦の石垣の上から谷を見下ろせば、敵軍の旗がその底を埋めている。
「このままでは持たぬ。自ら剣を取り、打って出るしかあるまい」
王子がそう言って立ち上がったとき、側に控えていた輔弼近衛アレンが、一歩進み出た。
「殿下。糧は五日分ございます。薄く配れば十日までは持ちましょう。そのあいだに援軍は必ず至ります」
レオンは眉をひそめる。
「十日待っても来なかったら、どうする?」
アレンは短く答えた。
「そのときは、黎明に軍を一つにまとめて東門から打って出ます。殿下は良馬を駆り、王都へお戻りください」
レオンの目に怒りが宿る。
「兵を捨てて自分だけ逃げろというのか。それが王の道か」
アレンは首を振った。
「この戦は、殿下が生きておられるかどうかで勝敗が決まります。身をもって殿下を守り死ぬのは兵の誉れ。一時の汚名を背負って社稷を存続させるのは、王族の誉れです」
その場にいた砦長ガルバは、腹の底から笑った。
「ははは。俺はついに死に場所を得たわけだ。末の一兵まで討ち死にを遂げ、殿下の誉れに花を添えよう」
こうして方針は定まる。
兵は砦に残り、王子は最後には都へ戻る道を取る。
後の世の史家は、この決断を「霞丘の議定」と名づけ、こう評した。
「兵の死に誉れあり。君の生に誉れあり。社稷ここに存す。ここにおいて秤は秤たり、君は君たり」と。
【二.残忠の議】
籠城は六日に及んだ。
敵の攻めは日ごとに激しくなり、七日目の朝には糧も矢も尽きかけていた。援軍の姿はいまだ見えない。
このとき、アレンは出撃を提案する。
「もはやこれまで。打って出て、殿下を脱出させるしかありません」
砦長ガルバは、黙ってうなずいた。
「馬を五頭だけ用意してある。おまえは王子を守って、この砦を抜けろ」
アレンは深く頭を下げ、静かに言った。
「兵に死を命じたのは、私の責任です。願わくは、諸兵と共にここで死にたい」
ガルバは目を見開いた。
「兵に死を命ずる権限は、この砦を預かる俺にある。おまえの仕事は、殿下を都へ送り返すことだ。さっさと行け」
アレンはなお食い下がる。
「私が生きて帰れば、『秤』の理が壊れてしまいます。だからここに残り、秤としての責任を全うしたい」
その言葉に、ガルバは思わず苦笑した。
「愚直なやつだ……。だが、その志は確かに仰ぐに足る」
最終的に、二人はそれぞれの役目を受け入れた。
兵を死地に立たせるのは砦長の責任。
君を生かして返す道筋をつくるのは秤の責任。
後の哲学者たちは、この場面を「霞丘残忠の議」と呼び、こう書き残している。
「兵は命を捨てて国をつなぎ、君は生を得て国を継ぐ。秤は秤たるがゆえに、理に命を奉ず」と。
【三.死中の生】
七日目の黎明。
アレンは王子の前に進み出て、最後の挨拶をした。
「灯は尽きかけています。我らは夜明けとともに東門から打って出ます。殿下はその混乱に紛れて、北東の細道から王都へお戻りください」
レオンは短く答えた。
「分かった」
暁の気配が城の隅を淡く染め始める。
合図とともに、兵たちは乱れず東門から飛び出した。
高く掲げられた旗が敵の目を引きつけ、その影で王子と護衛の数騎が北東の細道を駆け抜ける。
「今こそ死力を尽くし、少しでも時間を買うぞ!」
ガルバの声が響く。
兵たちは少数ながらも勇猛に戦い、策をめぐらして敵と互角に渡り合う。
しかし、やがて数の差はいかんともしがたくなり、陣は押し込まれ始めた。
そのとき、遠くから角笛の音が聞こえた。
三短一長――それは突撃の合図。
続いて聞こえたのは、二短二長――退却と再編成の角だ。
第二師団が敵軍の背後に現れたのである。
ガルバは即座に退却角を吹き、兵の列を乱さぬよう整える。
守り一本に徹していた陣形が、静かに形を変え始める。
そのとき、北東の細道から逃れていたはずの王子レオンが、馬を返して戦場へ戻ってきた。
アレンは目を見張る。
「殿下、なぜお戻りになったのです。命を軽んじてはなりません」
レオンは息を整えながら答えた。
「援軍の鬨の声を聞いた。あの音を背にしたまま逃げるなど、君の道ではない」
アレンは食い下がる。
「殿下が生きておられることこそ、我らの勝利です」
レオンは、少し前のアレンの言葉を思い出させるように言った。
「おまえはかつて言ったな。『王族の剣にも、振るうべき時がある』と。今がその時ではないか」
そこへガルバが口を挟む。
「指揮は俺がとる。殿下は、合図の印を賜ってくれればいい」
王子は剣先をほんの一寸左に傾ける。
旗が一拍遅れてそれに追随する――それが攻勢転換の号令だった。
兵たちは踵を返し、呼応して前へ詰め寄せる。
第二師団が背後から敵陣を割り、霞丘の兵が前から押し出す。
挟まれた敵は、前にも後ろにも退けなくなり、ついに崩れ始めた。
鎖をまとった鎧が乱れ、刃が雪に落ちる。
砦を取り巻いていた杭が折れ、影のように広がった地面の上に、白地に砦印と双獅子を染めた旗がなびく。
朝の光が旗の金具を照らし、まぶしくきらめいた。
こうして七日にわたる霞丘楔砦の籠城戦は、「死中に生を得る」勝利として終わった。
世はこれを「霞丘死中之生」と呼ぶ。
老兵の一人は、後にこう語ったという。
「援軍の角音が聞こえる少し前、空から一声の轟きを聞いた。天の許しだったのか、魂の叫びだったのかは分からん。だがそのとき、人の道が天に通じるのを見た気がした」と。
――王朝秘史演義 第六巻 霞丘役記辨偽抄――
霞丘楔砦の戦いから、いくつもの季節が過ぎたころのことだ。
一人の学者が、王都の書庫で古い巻物を広げていた。
名を記さないその男は、ただ自らを「臣某」と名乗り、史料を読み解くことを生涯の務めとしていた。
彼の前にあるのは『霞丘役記』という一巻である。
アレン・アルフォードと王子レオン、砦長ガルバらの活躍を、雄弁に、そして時に劇的に描いた軍記物だ。
――だが、この書は本当に「そのまま信じてよい史実」なのか。
臣某は、その一点が気になっていた。
まず、当時の実録――戦場で書かれた日々の記録――を取り寄せる。
さらに、将たちが残した私的な筆録や、軍務卿の報告書、後にまとめられた公式年表も照らし合わせる。
比べてみると、『霞丘役記』には多くの美点があった。
文章は美しく、場面の切り替えも巧みで、読めば胸が熱くなる。
だが同時に、「話として出来すぎている」箇所も目に付いた。
たとえば、砦長ガルバがアレンに脱出を勧め、アレンが何度も固辞する場面。
実録には、脱出を勧めた記録は一度きりしか残っていない。
アレンの固辞に関する詳細な問答も、どこにも見当たらない。
――ここは、後の語り手が「忠義」と「理」を際立たせるために、対話を膨らませたのではないか。
そう考えるのが自然だった。
また、巻末近くにはこんな伝承も記されている。
「援軍の角音が届く前に、空から一声の轟きが響いた。
それは天の許しであった、と人々は語り伝える」
臣某は首をかしげる。
「或いは天意なるか」と一度は言葉を立てながらも、最終的にはこう記す。
「しかし、戦場には常に鼓の音と将卒の叫びが満ちている。
そのいずれかを、後の人々が“天の声”と語り替えたと見るのが妥当であろう」
天の声を完全に否定するわけではない。
ただ、史を扱う者としては、「まず現実にありうる音から考えるべきだ」と、慎重な立場を取ったのである。
とはいえ、臣某は『霞丘役記』を全否定しているわけではない。
彼はこうも書き添える。
「『秤』という考え方――すなわちアレン公の唱えた『理によって社稷を守る』という義は、後の王家の統治理念の根本となった。
王子レオン殿下が『兵とともに死ぬべし』と語った気迫もまた、武の哀しみと誇りとして、代々の記録に深く刻まれている」
そして、『霞丘役記』に描かれたアレンとレオン、ガルバの問答が、後世の「秤義」と「忠節論」の議論に大きな影響を与えたことも認める。
つまり臣某は、『霞丘役記』に、史実としては脚色も多いという顔と、理念や象徴としては大きな力を持つという顔との、二つの相を見出していたのである。
最後に、彼はこう結ぶ。
「この書は、当年の実録と照らし合わせれば、物語的な脚色の多いこと明らかである。
ゆえに、史実を知ろうとする者は、必ず実録や他の典籍と合わせて読まねばならぬ。
しかし、秤と忠節の姿を後の世に伝えた“物語としての力”もまた、軽んじるべきではない」
こうして書かれたのが、『霞丘役記辨偽抄』である。
それは一冊の戦記を否定するための書ではなく、
「事実」と「物語」と「理念」の三つを切り分け、
それぞれの価値を見極めようとした、ひとりの史家の静かな仕事の記録であった。
――王朝秘史演義 第七巻 沈黙の辯――
冬の王都。
北の戦況と敗走の報が続いていたばかりの都には、戦火こそ及んではいないものの、人々の顔に疲れと不安の影が濃く残っていた。
その日、五卿会議の帷が静かに垂れた。
王族は帷の向こうにあり、姿は見えない。
廷前に立たされているのは、ただ一人――輔弼近衛アレン・アルフォード。王朝が「秤」と呼んだ男である。
罪名は「大逆」。
王子に刃を向けた行為が、そのまま「王に対する謀反」として問われようとしていた。
法務卿が口を開く。
「汝、何をしたか」
アレンはわずかに首を垂れ、こう答えた。
「量りたるのみ」
それきり、彼は口を閉ざした。
五卿も宰相も、場の温度が一段下がるのを肌で感じる。
袖口を直した若い卿の指先が、かすかに震えた。
法務卿は問いを重ねるが、アレンは一言も返さない。
「沈黙は肯と見なすぞ」
やがて法務卿は、裁きの場での定式を口にする。
それでもアレンは、何も言わなかった。
焦りを覚えた法務卿は、言葉を続ける。
「アレンが向けた刃は、人に向けられたものだ。行為にあらず、王族そのものに向けられた暴である。対象を誤れば、法による保護は及ばぬ。よって違法性阻却は成立せず、大逆と断じるべきだ」
そのとき、宰相が静かに一歩前に出た。
「しばし待たれよ」
老宰相の声は低いが、よく通る。
「古き詔には、こうある。『秤は理の内に在り』と」
宰相は続ける。
「これは、秤が法の外で勝手に遊ぶという意味ではない。理の規をもって律せられる者、ということです。
法は国の血。しかし血だけでは体は動きません。詔とは、本来、法の届かぬ隙を理でつなぎ止めるもの」
宰相は法務卿を見据える。
「今度の一件、もし制度の側に不備があったとすれば――秤を裁く前に、法と詔と理の順序そのものが誤っていたのではありませんか」
沈黙が広間を満たした。
法務卿は、かつて自ら読み上げた「輔弼近衛創設の詔」の一節を思い出す。
――秤は法の内にはあらず。ゆえに権の手はこれを縛り得ず。
されど秤は理の内に在り。ゆえに道はこれを量ることを止めず。
自分はいつからか、「法が秤を縛るべきだ」と考えるようになっていた。
秤を活かすために書かれたはずの詔が、いつの間にか自分の頭の中で「法の下に従わせるべき存在」にすり替わっていたのだ。
法務卿は、うなだれて小さくつぶやく。
「……余は敗れたり。順序を誤れり」
五卿は誰も言葉を発しなかった。
帷の向こうの王も、しばし沈黙したままだった。
その沈黙は、さきほどアレンが守った沈黙と響き合っていた。
これは逃避ではない。
秤・詔・法の順序を、場にいる全員が改めて量り直している時間だった。
宰相は最後にこう言葉を残す。
「沈黙は、事実を抜き出し、責を一身に引き受ける行いでもあります。今ここで、その意味を記録と手続きへ移さねばなりません」
この一件は後に「黙之雄弁」と呼ばれるようになる。
言葉よりも沈黙が雄弁に順序を語った裁きとして。
――王朝秘史演義 第八巻 詔学記釈義――
ユリウス・コルネリウスの『詔学記』が世に出てから、しばらくの時が流れた。
書は評判を呼んだが、その評価は二つに割れた。
「深い」と称える者と、「難しすぎて読めぬ」と嘆く者である。
ある日、若い学者が学堂の片隅で『詔学記』を閉じ、大きく息を吐いた。
名をルキウス・サラディンという。
「言っていることは分かる。だが、これでは多くの者には届かない」
彼はそう感じていた。
秤。詔。沈黙。留白。沈黙条文。
どれも重要な概念だ。だが、ユリウスの文は凝縮されすぎていて、詔学を専門としない者には敷居が高い。
「ならば、自分が橋をかけよう」
ルキウスは決意し、『詔学記』に注を施す仕事に取りかかった。
こうして生まれたのが、『詔学記釈義』である。
*
彼はまず、『詔学記』の冒頭の一句を取り上げた。
――「本記は、詔と秤と沈黙との関係を記すものである」
釈義には、こう記す。
「詔とは、王の名において示された理と制度の宣言である。
秤とは、その理を量り、道をただすために置かれた輔弼近衛の官である。
沈黙とは、言葉を尽くさぬことによって、かえって責任を自ら引き受ける行為である」
次に、ルキウスは「留白」という言葉に注目した。
ユリウスは『詔学記』の中で沈黙を「留白の標」と呼んでいる。
そこで釈義には、こう書き添えた。
「留白とは、まだ条文になっていない余白をいう。
それは怠慢の結果ではない。
むしろ、あえて書き込まずに残しておくことで、後の理と秤にゆだねるための『余地』である」
*
五卿会議の場面にさしかかると、ルキウスはユリウスの抽象的な議論を、読者に分かりやすい問いに言い換える。
「なぜアレン・アルフォードは沈黙したのか。
なぜ宰相は、その沈黙を『事実の抽出と責の一身引受』と呼んだのか。
なぜ法務卿は、『順序を誤った』と悟ったのか」
釈義は、一つひとつ答えを用意する。
「アレンは、言葉で自分を守ろうとしなかった。
それは、秤として自分の判断を他の誰のものにもせず、最後まで自分の責任として抱え込むためである」
「宰相は、その沈黙を利用して、制度の側に残された欠陥――法と詔と理の順序の乱れ――を白日の下にさらした。
沈黙は、そのための『余白』でもあった」
「法務卿は、秤を法の下に置こうとしていた。
本来、詔が先にあり、法はそれに従い、秤はその理を量るはずだった。
彼はその順序を逆にしようとしていたことに気づき、『敗れたり』と認めたのである」
*
ルキウスはまた、「沈黙条文」の意味も噛み砕いて解説する。
――「該当せざるものは、理に従う」
釈義は言う。
「条文に当てはまらない事態が起きたとき、それを無理に既存の条に押し込めば、理から外れた決定が増えていく。
沈黙条文は、『書いていないものは、理と秤にゆだねる』という最低限の約束である」
「ここで重要なのは、『理』が単なる主観ではなく、秤という職を通じて具体化されている点だ。
誰でも勝手に『理』を名乗れるわけではない。
秤を執る者の節操と胆力が信じられている限りにおいて、沈黙条文は機能する」
*
『詔学記釈義』の終章で、ルキウスは自分の声を少しだけ前に出す。
「詔は、すべてを語り尽くすときに死ぬ。
留白なき条文は、やがて自らを重荷として潰れる。
書かれた言葉の外側に、秤と理の居場所を残しておくこと――
それが、『黙之雄弁』の教えであり、『詔学記』が我らに示した道であると信ずる」
そして、こう結ぶ。
「詔を学ぶ者よ、文字の多さに酔うな。
沈黙の多さにこそ、制度の度量があらわれる。
その沈黙を支える秤を忘れるとき、どれほど見事な法典も、ただの空文に堕するであろう」
この『詔学記釈義』によって、ユリウスの難解な議論は、多くの官吏や若い学徒にも届く言葉となった。
『詔学記』が「秤と沈黙の哲学書」だとすれば、
『詔学記釈義』は、それを人々の日常の思考へと降ろすための、実用の書でもあったのである。




