エピローグ ルピナスの丘にて
エピローグ ルピナスの丘にて
あれから数年――。
朝の光が町の屋根を撫で、潮の匂いが細い路地まで満ちてくる。
白衣の袖を通した縁里は、勤務の前にいつもの場所へ寄り道をした。
――子授け地蔵。
山肌の路肩に寄り添う小さな祠の前で、掌を合わせる。
「今日もどうか、母と子が無事でありますように」
布包みのお守り――五円の“縁”にそっと触れると、呼吸が静かに整っていった。
高校を卒業する頃まで、彼女は札幌へ出るつもりでいた。
けれど、あの丘で見た“届く祈り”が、人生の向きをやわらかく変えた。
縁里は札幌行きをやめ、地元の紅心会看護専門学校へ進学し、いまは紅心会病院で助産師として働いている。
出産に臨む母の手を握り、産声が朝の色を変える瞬間に立ち会うたび、ここでの祈りを思い出す。
祠で手を合わせた後は、その足で潮見が丘にも立ち寄る。海風をひと口吸い込み、そこから職場へと向かう。
初夏の風にルピナスが揺れ、紫も桃も白も、光をすくい上げるように咲き誇っていた。
海は遠くでさざめき、風は山から海へ、海からまた山へ戻ってくる。祈りもまた、そうしてめぐるのだろう。
あの日ついた“嘘”は、誰かを傷つけるためのものではなかった。
たしかに未熟で、心細い嘘だったけれど、その奥に本物の願いが息づいていた。
―― 嘘が運ぶ、ほんとう。――
胸の内でそっと言葉にして、縁里は微笑む。
空を横切る白い綿毛がひとつ、光の粒子の中をゆっくりと昇っていった。
(私も、誰かの祈りで生まれてきた。だから今度は、私が誰かの祈りを支える番――)
縁里は腹の前で手を重ね、丘に向かって囁く。
「ご縁に、ありがとう」
ルピナスの花言葉は――感謝。
蒼の風が一度、丘を渡る。
その静かな音に導かれるように、彼女の一日は、今日もはじまっていく。
おわり




