第三章 祈りの継承
第三章 祈りの継承
夜のしじまに、縁里は布団の上でじっとしていられなかった。
母の言葉が胸の奥で柔らかく反芻される。
――あなたも、そうやって授かった子なのよ。
頬の内側がじんと熱を帯びる。考えるより先に体が動いていた。
スニーカーをつっかけ、玄関を抜ける。潮の匂いを含んだ夜風が肌を刺すが、足は止まらない。街灯の少ない道を月明かりがかろうじて縁取っていた。波の音が、ほのかに道案内のように続いている。
やがて、山肌の藪が切れた先に、小さな赤い屋根が闇に浮かんだ。
子授け地蔵――。
縁里は息を整え、膝をつくと、合掌した。
「どうか……どうか、あの人に授かりますように」
財布の小さなポケットから五円玉を取り出し、静かに置く。硬貨が石に触れて鳴らす微かな音は、思いの重さに比べ、驚くほど軽い。それでも「ご縁」が、確かにここに結ばれた気がした。
その瞬間、空気の層がわずかにずれて、視界の端がふっと揺らぐ。
蝋の匂い。赤い布の端。山肌側の路肩に寄り添う、風よけの小さな祠。
ひび割れた指先を合わせる若い女性の手。**潮風の夜も、しめやかな朝も、雨上がりの夕べも——**ただ黙って、何度も、何度でも。
(どうか、この命をお守りください。無事に産ませてください)
灯明が小さく瞬き、柔らかな風が頬を撫でる。掌はそっと下腹へ。内側からのかすかな合図。
「……ありがとうございます」――耳の奥で誰かの声がさざめき、気づけば縁里の唇も同じ形を作っていた。どこか遠い祈りの記憶が、輪廻の輪をそっと一巡して、いまここへ戻ってくるように。
ぱち、と光がはじけ、現在へ引き戻される。
合掌した自分の指に夜気が沁み、ととのった呼吸だけが胸の奥でやわらかく続いていた。
(今のは……何だったのだろう)
見知らぬ誰かの祈りが、まるで自分の記憶のように唇を動かした。名も姿も掴めないのに、掌にはたしかな温度だけが残っていた。
*
翌朝。
通学の路線バスの窓ガラスに、海が淡い青を返していた。縁里はいつものように、子授け地蔵の前を過ぎる瞬間、無意識に視線を探す――しかし、汐里の姿はもうどこにもない。
(安心して、帰れたのかな……。少しでも前を向けたなら、それでいい)
バスがカーブを切るたび、胸の奥に静かな決意が沈んでいく。
それからだ。縁里は、朝の通り雨のように一日のはじまりに祈ることを、当たり前の習慣にした。祈るという行為そのものが、自分の心をそっと支える柱になっていった。
*
翌年、縁里は高校三年になっていた。
夏休みを前にして、進路相談の日が近づいていた。
卒業したら札幌に行くって言い続けてきたはずの自分が、ふいに確信を失う。祠で手を合わせる朝や、バスの窓の海、マシロの体温――置いていくのは町か、わたしか。
それでも、あの丘でついた“嘘”の罪悪感は、胸の奥に小さな石のように残っている。つっかえは変わらずあの日のままだった。
初夏のある日の夕方、縁里はルピナスの丘に立っていた。海は傾いた陽を弾き、さざ波は無数の細い線になって遠くまで走っている。風が吹くたび、花の穂が一斉に首を振り、色とりどりの小さな鈴が、音もなく鳴るように揺れていた。
「そういえば、去年の今頃だったな…。汐里さんと出会ったの…。今頃どうしてるかな」
と、その時、花々たちの間を、ふわり――白いものが舞い上がる。
「……ケサランパサラン?」
縁里は自分の目を疑った。 陽光をまとった綿毛が、空気のさざめきに合わせてくるりと身を返す。こちらを待っていたかのように。嘘ではなかった。本物だ。胸の奥に、静かな震えがひらく。
風が一筋、丘を抜けた瞬間、視界がかすかに反転した。
遠いのに、どこか懐かしい光景がひらく。
潮の匂い。朝日にあたためられた草の香り。背に結わえた幼子の体温、肩に食い込む紐の重み。
薄紫の袖がさらりと鳴り、凪いだ海には帆影が点々と沖へ滑っていく――。
(どうか、夫を無事に返してください)
――その祈りの温度が、土にも風にも染みている。
縁里ははっきりと知った。
この丘もまた、ほんとうに祈りや願いの場所として重ねられてきたのだと。
日々の船出と帰りに添えられた祈りは、海へ送り出され、やがて丘へ還る——輪は静かに巡り続け、願いは届く。
縁里の胸にはその確かな感触が残った。
ぱち、と光が遠のき、現在へ引き戻される。
足元でルピナスが触れ合っていた。
白い綿毛はふわりと高度を上げた。
縁里はそれを、ぼんやりと目で追っていた。
そのとき――。
「こんにちは」
背後で、静かな呼び声がした。
縁里はゆっくり振り向く。そこに――一人の女性が立っていた。
汐里だった。
その目元には、もう前に会ったときの翳りはない。まなざしは柔らかい。
風が二人のあいだを通り過ぎ、ルピナスの匂いと潮の匂いが、やさしく混ざり合っていく。
やがて縁里の視線は、汐里のやわらかく膨らんだお腹へ吸い寄せられた。
胸の内に、言葉にならない安堵が静かに満ちていく。
(届いた……届いたんだ)
視界が柔らかくにじむ。
ずっと胸につっかえていた罪悪感は、潮風に溶ける薄い塩のように、少しずつ色を失っていった。
あのとき口をついて出た言葉に感じていたどこか懐かしい祈りの響き。
――その理由が、いまわかった。
遠い祈りの残響は、輪廻の輪を静かに一巡し、いま、ここへ戻てきたのだ。
頬を伝う細い一筋。少し遅れて、いくつもの雫がその軌跡に重なっていく。
えにしの白い綿毛は、風に乗って、ゆっくり、さらに小さくなり、
やがて青の高みへと溶けていった。
海から丘へ、
風がめぐるように――
祈りもまた、
静かにめぐりを続ける。




