第二章 母の言葉
第二章 母の言葉
夜。
台所からは夕餉の匂いが漂っていたが、縁里の胸の奥は落ち着かないままだった。ルピナスの丘での会話が、何度も頭の中を巡る。
(あれでよかったのかな……デタラメを言って、少し元気を出してくれたけど……)
そのとき、足元に白い毛玉がすり寄ってきた。
「……マシロ」
自宅で飼っている白猫だ。柔らかな毛並みに指を滑らせながら、縁里の心に昼間の出来事がよみがえる。
丘での一幕。
エチケットブラシに溜まっていたマシロの毛を咄嗟にかき集め、風に放った瞬間──。
「見てください……あれがケセランパサラン」
そう言い切った自分の声が、耳の奥でこだまする。
(あれは……本当にただの毛。でも、あの人は信じて笑ってくれた……)
思い切って、母・澄恵に声をかけた。
「ねえ、お母さん……」
澄恵は手を止め、娘の顔を静かに見つめた。
「どうしたの?」
縁里は今日の出来事を、一気に話した。
子授け地蔵の前で見かけた女性のこと。丘で出会い、励ますつもりで嘘をついたこと。
そして、マシロの毛をケセランパサランに見せかけたこと。
「……私、あんなこと言ってよかったのかな。
もし間違ってたら、あの人を余計に傷つけたかもしれない」
澄恵は少し驚いたように目を見開いたあと、やさしく笑んだ。
「でめ、あなたは、その人のために心から祈ったんでしょう?」
縁里はハッとした。確かに、心の底では本当に願っていた。あの女性が子を授かりますように、と。
「それなら大丈夫。祈りはね、ちゃんと届くものよ」
そして澄恵は少し間をおき、声を落とした。
「だって、あなたも……そうやって授かった子なんだから」
縁里は目を見開いた。
「えっ……私も?」
「そうよ。お父さんと私は、なかなか子どもに恵まれなくてね。いろんな人とのご縁で浦河に来て、あのお地蔵さまの前で何度も祈ったの。
その後授かったのが、あなた」
澄恵の目が静かに潤む。
「だから縁里という名前にしたのよ。
“ご縁を大切に生きてほしい”っていう、私たちの願いを込めて」
母は湯呑を両手で包みながら続けた。
「実はね、あなたは知らないかもしれないけれど……お父さんとお母さん、今でも時々、いっしょにお地蔵さんのところへ行ってるのよ。授けていただいた感謝と、縁里が今日も元気で過ごしていることの報告をしに」
縁里は、吸い込む息の音さえ零れないほど黙り込んだ。
(私……こんなにも、大切に育てられてきたんだ)
じんわりと熱がこみ上げ、視界の輪郭がほどける。頬を伝うしずくに、マシロが小さく鳴いて額を押し当てた。膝の上で指を重ねると、母の手がそっと肩に添えられる。
「……優しい子に育ってくれて、ありがとう。縁里」
叱りも咎めもない、信じてくれる温度だけがある。
「……ありがとう、お母さん」
かすれた声が湯気の向こうへ消えていく。
胸の中のモヤは、罪悪感だけの色ではもうなかった。誰かのために祈ることを教えてくれた人たちへの感謝――そして、自分もまた祈りの中からこの世に呼ばれたという確かなぬくもり。
灯りを落とすと、家の中に深い静けさが満ちた。遠い潮騒が、胸の鼓動と同じ歩幅で行き来する。
母の言葉が、なお消えずにあたたかく残っていた。
――あなたも、そうやって授かった子なのよ。
その余韻だけを抱えたまま、夜は静かに深まっていった。




