第一章 優しい嘘
第一章 優しい嘘
〜100年後の浦河〜
朝の路線バスが、浦河の沿岸をゆっくりと抜けていく。
山肌は朝露をまとい、淡く光を返す。視線を下ろせば、太平洋が鏡のように揺らめき、青白い輝きを広げている。
潮風に混じって、港町の匂いがすっと車内へ忍び込む。
窓際に座る縁里は、制服のブレザーに目を落とした。
袖口や膝のあたりに、ふわふわと白い毛が散らばっている。
「……もう、マシロめ」
小さくぼやきながら、カバンからエチケットブラシを取り出し、シュッシュッと毛を取る。
几帳面な仕草なのに、どこか可笑しみがあって、自分で苦笑いするしかなかった。
「はぁ……相変わらず何もないド田舎」
ぽつりと漏らした声は、エンジン音にかき消される。
「町は単調な“ふんどし町”だし、遊ぶところもたいしてない。なんでこんな田舎に生まれたのか、トホホだよ……」
小さくつぶやき、スマホを握りしめる。
画面に流れるのは、メールの着信音に設定してある吉幾三のメロディ『オラこんな村嫌だ〜♪』。
「高校出たら、札幌で働こう。絶対」
そう心に決めている頭の中はいつもコミカルなフレーズが繰り返され、皮肉のように響く。
バスがカーブを描くたびに、通学中の縁里はいつも視線を送る場所があった。
それは小さな石の祠のような一角
── 子授け地蔵。
観光名所というほどではなく、地元の人でさえ気に留めないことも多い、ひっそりとした場所だ。
いつもなら何気なく視界をかすめているだけ。
けれど今朝、そこに一人の女性が立っているのが見えた。
潮風に揺れる髪。俯いた横顔には、祈りというより、切実さが刻まれているように見えた。
縁里は思わず眉をひそめた。
「……誰だろう」
次の日も、その次の日も。
通学バスの窓越しに、同じ場所に佇むその女性を見かけた。
「……また来てる」
心のどこかに、ふと小さな棘のような引っかかりが残る。
──なぜだろう。
ただの田舎道の光景なのに、目を逸らせない。
バスは再び走り出し、港町の匂いを背に遠ざかっていった。
数日後の午後。
放課後、縁里は友人と別れ、ひとり足を伸ばしてある場所へ向かった。
ルピナスの丘
紫や桃色の花々が風に揺れ、太平洋の青と混じり合う景色。小さな町に暮らす彼女にとって、ここは心を落ち着ける大切な場所だった。
そこで──見覚えのある人影を見つけた。
「あ……」
声を上げかけ、慌てて口をつぐむ。
地蔵の前で見た、あの女性だった。
ベンチに腰を下ろし、じっと海を見つめている。
縁里はためらった。
けれど、足が自然にそちらへ向かっていた。
「こんにちは……」
女性は少し驚いたように顔を上げた。
近くで見ると、年齢は二十代後半くらいだろうか。優しい眼差しの奥に、どこか翳りを残している。
「……こんにちは」
穏やかな声だった。
「……あなた、地元の子?」
「はい。この近くの学校にバスで通っているんです」
「えっと、この前……地蔵さんのところで」
「ああ……見られてたのね」
女性は小さく微笑んだ。その笑みは寂しげで、どこか壊れそうに見えた。
「私、汐里っていいます。少しの間だけ、この町に滞在してて……」
「私は……縁里です」
二人の名前に共通する「里」の字が、不思議な縁をほのかに示しているように思えた。
沈黙をやわらかく破ったのは、汐里だった。
指先をそっと重ね、視線を落としたまま、言葉を探すように息をつぐ。
「実は……子どもが欲しいんです。ずっと。
でも、なかなか授からなくて。
親も高齢で……初孫を早く見せてあげたいのに……」
そこで一度、言葉が途切れる。風がルピナスの葉を裏返し、かすかな音を立てる。
汐里は小さく首を振って、無理に微笑を作った。
「それで……どこかで聞いたの。この町に“子授け地蔵”があるって。
藁にもすがる思い、ってこういうことなんだなって……」
縁里の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
切実さに滲む、薄い諦めの影。そこへ、祈りという細い糸をどうにか結びつけようとする気丈さ。
(私は――何となくこの町で、何となく生きてきた)
そう思った途端、頬が熱くなる。自分の足元がたよりなく感じられ、指先が落ち着きを失う。
「……ごめんなさい。こんな話、初対面で」
「いえ」
縁里は首を振った。
胸の奥で何かが静かに軋む。恥ずかしさと、手を伸ばしたい衝動と。
(私にできることは、何だろう)
風がふたたび丘を渡り、二人の間に、言葉にならない祈りの気配だけが残った。
(何か、言わなきゃ……)
でも、出てきたのは、本当のことではなかった。
縁里は思わず、デタラメを口にしていた。
「え…っと、私、地元だから詳しいんです。もともと、この丘は漁業者の家族の祈りの場所だったんです…。
それが今では願いが届く場所とされるようになって
いつしかルピナスの花が咲くようになって、花言葉は…ちょっと忘れちゃったんですけど…
人々の願いが風にのって届くたび、毎年花が増えていくって言われてるんです。
だから……地蔵さまに託したその願いも、風にのって届くんです」
言い切った瞬間、自分でも驚くほど言葉が自然に出たことに気づいた。
「本当にそうだったら素敵ね」
汐里は遠くの空へ視線をやり、まぶしそうに目を細めた。
その隙に、縁里はブレザーの裾に散った家の白猫――マシロの毛を見つける。
エチケットブラシを慌てて走らせ、指先に集めると、そっと風へ放った。
白い綿毛のような小さな光が、ひらり、ひらりと空へ舞い上がっていく。
「見てください……あれ、ケサランパサランっていうんです。願いが届いた証なんですよ。きっと、あれ、汐里さんのだと思います」
放たれた白い毛は、風にくるりと身を返し、陽光を受けてきらりと瞬いた。
空気のゆらぎに引かれるように、綿毛は斜面をなぞり、青へ、さらに高みへ。
汐里の瞳がわずかに潤み、口元に静かな微笑が咲く。
「本当だわ……飛んでいる……初めて見るわ」
頬を伝う一筋の光が、ルピナスの彩りをひとしずく抱いて落ちた。
汐里は縁里の横顔を見つめ、そっと言葉を置いた。
「……あなたも、きっといろんな人に願われ、望まれてこの世に生まれてきたのね。だから、そんなに優しく育ったのね」
「ありがとう。少し、元気をもらえたわ」
その瞬間、縁里は胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
視線を海の方へ逸らす。優しくも無責任な嘘をついた罪悪感と、目の前の笑顔に救われた安堵――相反する感情が波のように押し寄せ、心は大きく揺れていた。
(私……何を言っているんだろう)
だが、言葉は自分のものなのに、どこか懐かしい祈りの響きを帯びていたような気もしていた……。




