プロローグ 嵐を超えて
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プロローグ 嵐を越えて
明治の終わり。開拓移住の波に押され、多くの人々が本州から北海道を目指していた。
健次郎と妻・育子もその一組だった。函館の港に降り立ち、次の船で日高・浦河へ向かう予定で、同じように新たに漁業で生計を立てようとする仲間たちと共に、待機していた。
港の一角で、役人が積荷の検査を行っていた。木箱が次々と開かれ、中身を改められる。
その中に――小さな石の地蔵がいくつも収められている箱があった。中には、赤子を抱いた水子地蔵の姿まで。
妊娠している育子は思わず足を止め、その像に目を留めた。
「……子どもを、守っているのね。……そうだわ」
彼女は所持していた赤い布を取り出し、ひとつの地蔵にそっと掛けてやった。
「どうか無事に辿りつきますように…」
健次郎は黙ってそれを見つめ、ただ頷いた。
──しかし、その夜、運命は大きく揺らぐ。
浦河へと向かう途中、船は日高沖で激しい嵐に襲われた。
甲板に叩きつける波。悲鳴。次々と投げ出される人々と積荷。
健次郎と育子は必死に手を取り合ったが、大波に呑まれ、闇の中で引き離された。
「育子! その木箱に捕まれ──!!」
最後に見たのは、彼女の脇に浮かんだあの木箱だった。
やがて意識を失い、夜は明けた。
――翌朝。
浜に打ち上げられた健次郎は、奇跡的に息を吹き返した。周囲には無惨に横たわる仲間たちの姿。だが、育子はいない。
彼は涙をこらえ、ただ必死に祈った。
どれだけ歩いたか覚えていない。
ふと空を見上げると、白い綿毛のようなものが風に舞っていた。
(……何だ?)
健次郎は無意識にそれを追った。
その先で――木箱にしがみつく人影を見つけた。
―― 育子だった。
「……育子!」
彼女はまだ生きていた。大切なお腹の子も、守られていた。
木箱には石の地蔵が収められていたが、内部の隙間が空気を抱え、浮力となっていたのだ。
蓋の裏には、波でにじんだ墨の走り書きが残っていた。
――「浦河 東栄 □□講中 御地蔵一体」。
二人はその文字を頼りに浜づたいに歩き、港はずれで人に道を聞いた。
「それならこの先だ。道の山側に祠を立てる手はずになってる」
教えられた先で、番屋前に集まる男たちが濡れた箱を受け取り、事情を黙ってのみ込んだ。
粗い板で組まれた祠の骨組みが、東栄の道端に立つ。
育子は箱からそっと地蔵を抱き上げ、かつて掛けた赤い布を整えた。
健次郎は柱を支え、釘を打ち、最後に皆で静かに頭を垂れた。
そして、二人は地蔵を東栄の道端に納めたのち、受け入れ先である潮見地区へ身を移した。
港のそばに粗末な仮小屋を借り、風の匂いと網の手触りを覚えながら、この土地で生きる覚悟を固める。
******
潮騒が絶えない浦河の海。
今では健次郎は小舟に網を積み、夜明けとともに沖へ漕ぎ出す日々を送っていた。
不慣れな漁も、先住の漁師たちに手ほどきを受けながら身につけていく。志半ばで逝った仲間の分まで――その想いを背負って。
海難の記憶はいまだ生々しい。だからこそ、丘に立つ育子は幼子を胸に抱き、毎日祈りを欠かさなかった。
「どうか、無事に返してください──」
丘の草花は風に応え、白い雲がゆっくり流れていく。
育子は、あの海難から生かされた命と、見知らぬ自分たちに手を差し伸べてくれた人々へ、ただ静かに頭を垂れた。
地蔵に生かされた生命への感謝と、この土地の先住者とのご縁を大切にする気持ち――その二つだけが、声にもならない芽吹きとしてここに残っていく。
名も形もまだないまま、やがて誰かの背をそっと押す“小さな祈りの地”として。




