09.路地裏の出来事
人気のない路地裏に、走ってきた中村の足音がこだまする。肩で息をしながら、あたりをキョロキョロと見まわす。
雑居ビルの裏手、さびたフェンスの向こうにはいくつものポリバケツが並び、ゴミの臭いが鼻をついた。
「ちっ……どこ行きやがった……」
一つ目のゴミ箱を開ける。中は空っぽだ。
もう一つのゴミ箱に手をかけて開けると——
「うおっ……!」
中から皮膚のただれた幽霊が、ギョロリと目をむいて中村を睨んでいた。中村はそっとフタを戻した。
「……失礼」
そして、もう一つ。今度のゴミ箱に手をかけた瞬間——
ガバッ!
中から吉田が飛び出した!
「わっ!」
驚きつつも反射的に腕を伸ばす中村。吉田の服をつかんで力任せに引き倒し、そのまま地面に押しつけるようにマウントを取る。
「……お前が殺したんだろ!」
息を荒くしながら怒鳴る。
「ち、ちがうってば!」
「じゃあ何で逃げた!」
「頼まれたんだよ……! お前らの様子を観察しろって……百万円もらったんだ……な? あんたにも分けてやるから、見逃してくれよ!」
吉田の声は震えていた。情けないほどに。
「……マジで?」
「本当だって! いくら欲しい?」
中村は、目を細めた。しばしの沈黙。
「50万かな——とか言うと思ったか、ボケッ!」
ゴンッと吉田の頭を軽く叩く。
「ひぃっ……」
「そんなんじゃ俺の心は動かねぇんだよ。……まあ、ちょっとだけ動いたけどな」
中村は鼻を鳴らすと、続けた。
「誰かに頼まれたんなら、証拠見せろよ。言葉だけじゃ信用できねえ」
「わ、わかったよ……今からそいつに電話する……ちょっと、どいてくれ……」
「嘘じゃねぇだろうな?」
「ああ、ほんとだって……」
中村は吉田の体から降り、やや距離をとった。吉田はうめくように体を起こし、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「俺、霊媒師なんだよ、本当は」
そう呟きながら、吉田は電話をかけ始めた——その瞬間。
背後から、どこか懐かしいような旋律が聞こえてきた。オルゴールのような音色で奏でられるのは、『君の背中』。
——着信音?
中村がゆっくりと振り返った先に、立っていた──笑顔のニコちゃんマークのお面。ダボついた黒い服を着ているから背格好はよくわからない。まるでホラー映画のシリアルキラーだ。そんな正体不明の男が、無言で金属バットを構えていた。
「お前……」
言葉を終える前に、バットが中村の背中を叩きつけた。
「ぐっ……あああああっ!」
悲鳴を上げて、地面に倒れ込む中村。
間髪入れず、暴漢は吉田に向き直り、バットを振り上げた。
「や、やめてくれ……頼むっ!」
吉田がすがりつく。その拍子に、暴漢のお面がずれた。
吉田の顔が真っ青になった。
「あんた……」
だが中村からは、暴漢の顔は見えない。
男はすぐにお面をかぶり直し、無言のまま金属バットを振り下ろした。
「ぎゃあああああああああっ!」
断末魔が闇にこだまする。
這いつくばるように逃げようとする中村。地面の冷たさが頬に伝わる。視界がかすみ、音が遠のいていく。
意識が薄れていく中——
誰かの怒鳴り声が聞こえた。
「なにやってんだ!」
その声に応じるように、暴漢の足音が遠ざかっていくのが見えた。
世界が、暗転する。
*
──遠くからサイレンの音が聞こえていた。
それは次第に大きくなり、やがて中村の意識を貫いた。
視界がゆっくりと明るくなる。まぶたをわずかに開くと、真っ白な天井が見えた。揺れている。赤と青の点滅が、淡く光を走らせている。
救急車の中だ。中村は担架の上で横たわっていた。
胸がきしむように痛む。背中も頭もずきずきと疼いていたが、それより何より、視界の隅に映る“あるもの”に、目を奪われた。
「……おいおい、マジかよ」
中村のすぐ隣にも、もう一台の担架があった。そこには吉田が乗っている。目を閉じ、顔面蒼白。何人もの救急隊員が慌ただしく動いている。
「脈なし!」
誰かが叫ぶ声と同時に、胸に向けて心臓マッサージが施される。バンッ、バンッという音が、救急車内に響き渡る。
そのとき——
吉田の身体から、ふわりと何かが抜け出た。
幽体だ。
全身が白く淡い光に包まれ、ふわふわと浮かぶ吉田。どこか眠たそうな顔で、光の方向へと向かっていく。
「うわ、マジかよ。死ぬのかよ……!」中村が目を見開いた。
「おい! おいおいおい! まて! 死んでもいいからまだ成仏すんなって!」
中村が叫ぶと、吉田の命を救おうと心臓マッサージをしていた救急隊員たちが驚いたように振り返った。
「いや、なんでもないす……。助かるといいですね」中村が言った。
と──
「もうダメだよ」と言いながら吉田がふわりとこっちに寄ってきた。
「あんまこの世に未練残しちゃったらさ、地縛霊になっちゃいそうだから、さっさと逝くことにするよ」
「お前、ずいぶん潔いいな」
「さっきも言ったろ? 俺、霊媒師なんだ。だから、こういう時、ベストの対応は知ってるつもりだ」
「なるほど、ただの小悪党じゃねえってことだな」
「俺さあ、本当に悪党じゃねえんだよ。真面目に霊媒師やってたんだ。霊感商法なんてのに手をだしたこともねえ。なあ中村さん、やっぱ俺、天国行けるよな?」
「あのお面の男の正体を言えば、天国に行けるさ。あいつは誰だ?」
「本当に知らねえんだよ。知ってたら言うよ。どうせあの世行き確定なんだし」
「……でも、顔見てなんか反応してたじゃねえか? 知り合いじゃねえの?」
吉田が空中であぐらをかいて考えこむ。
「……いや、どこかで見たことあるような気がしたような……」
「どんなやつだ?」
「え……だめだ、思い出せねえ。頭がボーッとしてきた。なんかふわふわしてる……ふわふわ……あれ? おれ誰だっけ?」
「しっかりしろ!お前は霊媒師だろ!」
「そうだっけ? 自分の輪郭が溶けていく感じだ……」
そのやり取りの最中、吉田の背後に、ぼんやりと神々しい光が差し込んできた。
「うわ、なんか来た! あれ、迎えのやつ!? うっわ、なんか思ったより優しそう……」
「おい! なんでもいいから、成仏する前にお前を殺した野郎のことを教えてくれ! どこで頼まれた? 若いやつか? おっさんか?」
「……ああ、そうだ、思い出した!」
「なんだ? 教えろ!?」
「俺のへそくり、洗濯機の裏だから! 誰にも見つからないようにしといた!」
「はぁ? 知らねぇよ!」
「じゃあなー! もし来世があったら、今度は猫になりたい!」
そう言って吉田は、手を振りながら光の中へと消えていった。
中村は、深いため息をついた。
「おいー……! いらねえ情報ばっかり俺に押し付けやがって」
中村は力なく、長いため息を吐いた。
「ったく、面倒な展開になってきたな……」
やがて瞼が重くなり、視界が再びゆっくりと閉じていった。