04.地縛霊は1mしか動けない
翌日。
中村は作業着にゴム手袋、長靴という完全装備でやって来た。朝のラッシュを終えた商店街は、どこかぼんやりとした空気をまとっていた。
「……あー、くっせえ」
しゃがみこんだ下水溝から立ち上る異臭に、思わず鼻を押さえる。羽菜は例によって、ポストの上から無邪気にこちらを見下ろしていた。
「頑張ってねー! そのへんに落ちたはずなんだよね、ストラップ」
「ほんとに見つかんのかよ! 相当時間経ってるぜ……」
中村は長い鉄製のフックを使って、下水溝のフタをガコンと開ける。中から立ちこめる湯気のような臭気に顔をしかめた。
「これ、俺が潜って探すの?」
「まさか。手突っ込めばいいだけじゃん」
「おまえなぁ……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、中村はヘドロのたまった水底に手を突っ込んだ。ぬるぬるとした感触が皮膚にまとわりつき、胃の奥がふわりと浮く。
「なにやってんの、って感じだな……俺」
羽菜はスカートのすそを揺らしながら、すこし楽しそうに言った。
「でも、お願いね。私、この場所から動けないから」
「……地縛霊、ってやつか」
「うん。ポストを中心に半径1メートルくらいしか行けないの。ライブの時みたいにステージを動き回ったりできたら、もうちょっと楽しいのになあ」
「不便なシステムだな、霊界も」
「おじさんは、幽霊になったらどこに縛られたい?」
「……そりゃもう、キャバクラのボックス席だろ」
「最低」
ふたりの会話が続く中――
「……あった!」
中村は泥の中から、小さな物体をつかんで引き抜いた。汚泥まみれのそれに、ペットボトルの水をかけて泥を流す。
姿を現したのは――
「美少女フィギュア……」
「それそれ! それが犯人のストラップ!」
羽菜の声が跳ねた。中村は泥だらけの手の中のそれをしげしげと見つめる。
「……マジかよ。こんなモンで、捜査進むのか?」
「進めるの! 絶対、あのストラップがカギになるって思ってたんだ」
羽菜の目が、珍しく真剣だった。
「……わかった。じゃあ、この“証拠品”、洗って乾かしたら、秋葉原だな」
「へ?」
「こういうのは、オタクの本場で聞き込みすんだよ」
ポストの上から、羽菜が満面の笑みで両手を広げた。
「さすが、私が見込んだ探偵さん!」
そう言うと、羽菜がふと、表情を変えた。
「ねぇ……私、ちょっと思い出してきたかも」
羽菜の視界の中で商店街の喧騒がすっと遠ざかり、色褪せていく――フラッシュバックだ。
――豪雨。
真夜中の商店街。誰一人いないアーケードの下を、羽菜がひとり、真っ赤な傘をさして歩いていた。
赤いヒールが雨の路面を叩く音だけが、夜に響いている。
その背後。
不自然にゆっくりと、しかし確実に近づいてくる影。
けれど雨音にかき消され、羽菜は気づかない。
ポストの前にさしかかったところで突然、羽菜の身体が後ろに引き倒される。
「きゃっ……!?」
傘が宙を舞い、くるくると回転しながら地面に落ちる。
羽菜の視界に映ったのは、不気味な笑顔のニコちゃんマークのお面。その口元だけが、にやりと歪んでいた。
「や、やめて……!」
叫びながら、羽菜は抵抗する。暴漢の腕をひっかき、脚をばたつかせる。
そのとき、暴漢のズボンのポケットから、何かが飛び出した。
――携帯ストラップ。小さな美少女フィギュアがぶら下がっている。
羽菜は反射的に、それをつかんだ。
だが次の瞬間――
「――っ!!」
鋭い痛みが背中に走る。
ナイフが、深く羽菜の背中に突き立てられていた。
思わず開いた口から、悲鳴にならない吐息が漏れた。
羽菜の手からストラップが滑り落ち、コロリと転がって、足元の側溝へと吸い込まれていった。
羽菜はうつ伏せに倒れながら、血で染まる地面を這うように逃げた。
そして、ポストの前で、力尽きる──
「……あー、ヤな映像思い出しちゃった」
羽菜がふと、乾いた声で笑った。
中村はストラップをタオルで拭きながら、ちらと羽菜を見上げる。
「そのストラップ、やっぱ犯人のか?」
「うん。間違いない。あの時、私がつかんだやつ。……そのまま、私、殺されちゃった」
「マジかよ……俺、素手で拾っちまったぞ。指紋ついちゃってね?」
「ドロまみれなんだから、いまさらだよ」
中村はあきらめたように笑って、ゴム手袋を外した。
「霊視して写真撮って、ちょっと稼ごうってだけだったのに、まさかここから殺人事件に首つっこむとはな」
「やるって言ったじゃん、昨日」
「言ったっけ……?」
「うん。“よろしくね! お・じ・さん”って言ったら、いい返事してたよ」羽菜が再びサービススマイルをよこした。
「……酔ってたな、たぶん」中村は苦笑いするしかない。
ポストの上の羽菜が、ふわりと笑った。