03.ポストの上で歌うアイドル
数時間後。
都内の小さな郵便局の台の上で、中村が手紙を書いていた。
「生前、ご主人にお借りしていたお金をお返しいたします、と」
編集長からもらった2万円のうち1万円を茶封筒に入れる。
そして、横で静かに立っている宮島の霊に話しかけた。
「わりぃな。これっぽっちで」
宮島は首を横に振った。
「一万円でも、家族の助けになるんならいいさ」
中村は黙ってうなずくと、「現金書留でお願いします」と窓口に封筒を差し出した。
その夜、中村は居酒屋のカウンターで一人、酒をあおっていた。テーブルにはすでに何本もの空き瓶。目の前の小鉢も手つかずのままだ。
「……人生、ロクなことがねえっつんだよな」
隣を見るが、誰もいない。
「あれ? アイツ、いなくなりやがって。ま、幽霊は飲めねーもんな……」
ひとりごちてから、また一口酒をあおる。喉を通るアルコールが、胸のどこにも届かない。
店を出た帰り道。
路地裏でゴミ箱のそばをふらふらと歩いていた中村に、いきなり怒号が飛んだ。
「てめー、酒飲んでるヒマがあったら金返せや!」
借金取りたちが中村を囲んでいた。
「はっ……!」
反応する間もなく、腹に蹴りが入る。中村は地面に崩れ落ち、胃液を吐いた。
「ゲボッ……」
「きったねーな」
吐瀉物のついた靴を、借金取りの男が中村の顔にこすりつける。
「あと五日しか待たねーぞ。返せなかったら……死ぬぞ」
男たちはそれだけ言い残して、去っていった。
夜風が冷たい。
中村はよろよろとアパートの階段を登っていった。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、中村の顔をじりじりと照らす。
頭痛が襲い、顔を歪めながらも、鳴り響く携帯を手探りで取った。編集長からだ。
仕事の依頼だろう。
「……もしもし……はい……え? 元アイドルの心霊写真?」
昼下がりの商店街。
私鉄の駅前ロータリーでは、バスが何台も行き交い、エンジンのアイドリング音と、乗客を呼ぶアナウンスが交互に響いていた。
駅前の喫茶店、テイクアウトのからあげ店、歯医者、時代から取り残されたような靴修理屋――。小さな商店がぎゅうぎゅうに肩を並べ、昔ながらのテント看板が日に焼けている。
駅から少し外れた角、バスの発着所の一角に、赤いポストがぽつんと立っている。
最近は誰も立ち止まらない場所になりつつあるが、それでも午前中は年配の人がちらほらと手紙を投函していく。
オシャレでもなんでもない、どこにでもある町の風景。
けれど、この街の“そこ”には、誰も気づいていない異物が存在していた――。
ポストの上で膝を抱えて座る、若い女。
白いブラウスにピンクのスカート、背中にはナイフが突き刺さったまま。
にもかかわらず、彼女は軽やかなメロディーを口ずさんでいた。
「君の背中は〜♪ とってもあったかかったよ〜♪」
……実に陽気である。
彼女の姿に、すれ違う人々は誰一人として気づかない。なぜなら――彼女は幽霊なのだ。
そんな彼女を向かいの喫茶店からジッと観察している男がいた。
薄汚れたコートに、疲れのにじんだ顔。中村正文、三十四歳。心霊写真家、そして現在借金まみれ。
彼の手元には、写真週刊誌がある。幽霊の女の子が生前、ステージで歌った写真が大きく載っていた。そして、表紙には……
「人気絶頂アイドル殺害事件! 沖田羽菜(21)、背後から刺され死亡。犯人は今も逃走中!」
中村は小さく息を吐き、雑誌とポストの上の幽霊を交互に見比べた。
「……こいつの写真なら、さすがの新山でも三百万出すって言ってたよな」
残り少ないビールを一気に飲み干し、カメラバッグを肩にかけると、ポストの方へと歩き出した。
「それ、君の歌?」
中村が声をかけると、ポストの上で歌っていた女――羽菜が、くるりと振り向いた。
「……おじさん、私のこと見えるの?」
「うん。声も聞こえる。君の背中にナイフが刺さってるのも、ばっちり見えてる」
「えー、マジで? うわ、やだ、見られてたんだ。……今の歌、どうだった?」
「うまかったよ。で、タイトルは?」
「『君の背中』っていうの。生きてる時は最高十二位だったんだけど、私が死んだら一位になったの。なんか皮肉〜」
「……ところで、死んでどれくらい経つ?」
「一ヶ月くらい。っていうか、おじさんナンパ? 私、幽霊なんだけど?」
「いや、ちが――」
言いかけた中村の言葉を遮って、羽菜はプイッとそっぽを向いた。
「ほっといてよ」
「僕は怪しいもんじゃないんだ」
「どうせそのコートの下、何も着てないとかそういうやつでしょ?」
「変態とかじゃなくて、俺こういう者で」
中村はポケットから名刺を取り出して差し出した。
「心霊写真家、中村正文?」
「君の写真を撮らせてほしいんだ」
「……心霊写真ってこと?」
「うん。そしたら雑誌に売れる。で、借金返せる」
「おじさん、めっちゃ正直だね」
「ダメ?」
「……いいよ」
「え? マジで?」
中村は思わず一歩前に出たが、羽菜はすっと指を立てて言った。
「でも条件付き」
「そりゃもちろん。伝えたいメッセージがあるとか? 家族にお金届ける?」
「そういうのいい。私、家族嫌いだから」
「……そっか」
羽菜はスカートのすそを揺らして、ちょっといたずらっぽく笑った。
「条件はね――私を殺した犯人、見つけるの」
その一言に、中村の動きが止まった。
「……なんだって?」
「私を殺した犯人。それを突き止めてほしいの。できたら写真、撮らせてあげる」
「えーっと、つまり俺に、探偵をやれと? そういうの警察に任せた方がよくないか?」
「警察の捜査は、ずっと観察してたんだけど、まったく頼りにならなそうだもん」
「僕も頼りにならんよ」
「そうだろうけど、おじさん、私としゃべれるじゃない。だから、どうにかなるよ」
「どうにかなるって、あなたね……」
「とにかくそれが条件! あ、ちなみに――」
羽菜はくるりと回って、背中をチラリと見せる。
「刺されたの、ここ。その時にね、私、抵抗したから、はずみでね、犯人が持ってたスマホのストラップがそこに落ちたんだ。でもね、警察はまだ見つけられてないんだ〜」
羽菜が指さしたのは下水溝。見るからに異臭を放っていそうだ。
「……ここかよ」中村はため息をついてうなだれた。
「よろしくね! お、じ、さん」羽菜はアイドルらしい爽やかスマイルを見せてやった。せめてものサービスと言わんばかりに。
こうして、幽霊アイドルと心霊カメラマンの、妙なバディが誕生したのだった。