01.比奈山トンネルの女
街灯ひとつない山間の夜道を、一台の軽ワゴンがうねるように進んでいた。カーステレオもつけず、ただタイヤがアスファルトをこする音だけが響く。
ハンドルを握る男は中村正文、三十四歳。ひげは剃り残し、目の下にはくっきりとした隈。運転しながら、携帯電話で話し込んでいた。
「……とりあえず二十万じゃダメですか? あー、やっぱダメっすよね。分かりました! 一週間。あと一週間だけ待ってください。逃げたりしませんから……はい、すんません。失礼します」
電話を切ると、深いため息。運転席に沈み込むようにもたれ、彼は携帯を助手席に放り投げた。カタン、と乾いた音が鳴る。その隣には、ボロボロになったオカルト雑誌やらコンビニ袋、空きかけのウイスキーの瓶が転がっている。
彼はウイスキーをつかむと、口をつけてラッパ飲みした。
「……クソ」
呟きながら、アクセルを軽く踏み込む。
やがて、山道の先に口を開けた黒いアーチが見えてきた。車を停める。エンジン音が止まり、闇が一層濃くなる。そこは、地元でも有名な心霊スポット――比奈山二号トンネルだった。
中村はドアを開けて車を降りた。山の空気はひんやりと肌を撫でるが、それ以上にこの場所には何か得体の知れない「気配」があった。
薄暗いトンネルの入り口に立ち、バッグから取り出した古びた雑誌をめくる。『都内から車で行ける心霊スポット特集』の見出しの下に、まさに今自分が目の前にしているトンネルの写真が載っていた。
「ここだ……間違いない、ここだ」
中村は頷くと、懐中電灯のスイッチを入れて歩き出した。
トンネル内部は、昼夜の概念が消えたかのような深い闇だった。コンクリートの壁は年季が入って黒ずみ、天井からはところどころ水滴が落ちている。
懐中電灯の細い光が、路面を細長く照らす。その先に、何かが蠢いた気がした。
ザッ、ザッ。
足音が反響し、風がトンネルの奥から流れてくる。その風が、まるで誰かの声のように耳元でささやいた。
「……あーあー」
「誰か……いますかー?」
中村は、ひとまず平然を装って声をかけた。
しかしその時。
不意に、何かが彼の足首に触れた。
「うおっ!?」
反射的に立ち止まり、足元を見る。懐中電灯の光が照らし出したのは、一人の若い女。トンネルの床にしゃがみ込み、中村の足にすがりついていた。
「あの……」
思わず声をかける。
女が顔を上げた。
その瞬間、冷たい何かが背筋を駆け抜ける。
――顔の半分が、潰れていた。
皮膚は裂け、目はつぶれ、血の気のない頬に亀裂が走っている。肉が剥き出しのようなその顔は、確実に生きた人間のものではなかった。
「おおおおお……」
女の霊がうめき声をあげると、床から立ち上がり、中村の体を這い上がってくる。
「おわっ、ちょっと、待って待って!」
中村は一歩後ずさると、急に咳払いしながら言った。
「……あなたが、このトンネルにおられる霊の方ですね?」
女の霊が戸惑うように、動きを止める。
中村は、胸ポケットから一枚の名刺を取り出して差し出した。
「僕、こういう者です」
名刺にはこう書かれていた。
「心霊写真家 中村正文」
女の霊は、それを見るなり目を見開き――そして、ふわりと後ろに下がった。
中村はにっこりと微笑んで、さらに一歩近づく。
「え?私、姿消してるはずなんですけど」女の霊がつぶやいた。
「ちゃんと僕には見えちゃってますよ」
「……っ!」
女の霊が突然、小さな悲鳴を上げて後ずさり、そのままトンネルの奥へと消えていった。
中村はそれを追いかけながら、カメラを片手に叫ぶ。
「ちょっとー! 写真撮らせてもらえませんかー! モザイクなしでー!」
夜のトンネルに、場違いな声が響きわたっていた。
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