はじまり(1)
「おじっ♪ さんっ♪」
「うおっ!?」
樂羅にあるFAハンガー、そこに格納されたジークフリートの足元でユーゼルに飛び着くマキナの姿があった。満面の笑みを浮かべ、ユーゼルの胸板に頬をすりすりとこすり付けている。しかし、ユーゼルはもういい歳であり、周囲を歩いていた作業員たちはなにやら白い目を彼らに向けていた。
「お、おい……!?」
「おじさん、生きてたんですね~!! 良かったぁ~っ!!」
「あ、ああ……おかげさまでな……。ちょ……もういいか? 色々と問題のある絵なんだが……」
慌ててマキナをそっと押し返すユーゼル。マキナの表情は無邪気な少女のそれそのものなのだが、マキナは必要以上に愛らしく女性的でもある。一見するとまずい絵に見えない事も無い。何はともあれ一息おいてユーゼルは目の前で明るく笑うマキナを見つめ返した。
「おじさんが七星の生き残りを集めて戦ってくれたって聞いて、御礼を言わなきゃって思ったんです。ユーゼルさん、本当にありがとうございました」
「…………いや、それは自分たちの為でもある。しかし驚いたな……こうして実際に会うまでにわかには信じられなかったよ。あの鬼神の如き強さを持ったカラーオブブルーの正体が、こんなあどけない少女だとはな」
マキナは何も言わず、にっこりと微笑を返す。その笑顔には有無を言わさず他人を幸せにしてしまうような力があるような気がした。きっと彼女が導く世界は、優しい光に満ちている事だろう。今からでもユーゼルにはその世界がはっきりと想像できた。
「本当に生きていてくれてありがとうございます! 皆さんもお仕事ご苦労様ですっ!! がんばってくださいねっ♪ それじゃあわたしはまだ色々行く所があるので今日はこのへんで……。ユーゼルさん、ありがとーっ!!」
「だから、あんまりひっつかないでくれっ!!」
最後に一度、正面からぎゅうっとユーゼルの身体に抱きつき、マキナは小躍りするような勢いでその場を去っていった。まるで嵐のようであった。ジークフリートがどこかへ行ったきり戻らないというのは聞いていたが、まさか戻ってくるなりあれとは……。
マキナの柔らかく花のような香りの余韻に僅かに頬を赤らめるユーゼル。周囲で見ていた作業員たちが腕を組んで頷いていた。
「な、何を見ているんだ」
「勇士、いいっすねえ……。俺たちもハグハグしたいっすよ、マキナ様のお体を……」
「…………はあ。お前らなぁ、ノーマルは嫌いなんじゃなかったのか?」
「マキナ様は別ですよ! あの可愛らしいほっぺた……! 太陽のような笑顔! 目なんか星入ってますよあれは! 胸も大きいし、無敵のライダーだってんだから、すごいもんですよ。十七歳って聞きましたよ、アレ」
何故か勝手に盛り上がる作業員たち。ユーゼルは腕を組んだまま苦笑を浮かべた。気づけばマキナの噂は広まり、今では様付けで呼ぶ者も少なくない。彼女はそれだけの事を世界にしたのだ。貢献のレベルを考えれば、英雄と呼ばれ持て囃されて当然であると思える。
マキナの行く先々では人々の笑顔が沸きあがった。ノーマルを目の仇にしていた七星のメンバーでさえこの様子なのだから、マキナの愛らしさは種族も年代も全ての壁を越えていくのだろう。
「「「 はぁ~……。マキナ様の頭をなでなでなでなでしたいなあ…… 」」」
「…………。声をそろえて言う事がそれか……。お前ら、仕事はまだ山積みなんだ! そのマキナ様に全部押し付けないようにしっかり働けよ! ジークフリートに何かあったらお前たちの責任だ」
「「「 おっす!! 」」」
作業員たちが敬礼し、仕事に戻っていく。そんな中振り返り、ユーゼルはふとマキナのその明るさの理由について考えていた。こんなにも辛い時代だというのに、あそこまで無邪気に微笑む事が出来る……。それはきっととてもとても強い事なのだと思う。そして何より、彼女の丁寧な挨拶がやけに脳裏に引っかかっていた。
ユーゼルが考え込むハンガーから出た市街地、崩れた街の復興を手伝いながら歩くマキナの姿があった。人々と一緒に泥だらけになり、笑顔で作業に参加する。ひと段落すると次の作業へと向かい……その間マキナの周りには笑顔が絶えなかった。
いちいち何もかも見逃せないものだから、たかだか数百メートルの通りを歩くだけでも大騒ぎである。ちっとも前に進まず、仕事を手伝うばかりでどこにもいこうとしないマキナを市民たちが強引に押し出し、先に進むように指示する。結局皆のやる気はあがり、仕事は能率よく進んで言った。
そうして暫く歩いていたマキナの正面、なにやら口論している様子のオルドとリンレイの姿があった。二人の間に駆け寄り、ひょっこりと顔を割り込ませる。近すぎるマキナの顔に二人は驚き、ばつの悪そうな表情を浮かべて視線を逸らしてしまった。
「よ、よおへこたれ。どっか行ってたって聞いたが……おまっ、なんでそんな泥だらけなんだよ」
「久しぶりだね、オルド君! あのね、さっき作業を手伝ったんだけど、転んだり瓦礫に埋もれたりですったもんだあったんだよ~」
「普通はねえんじゃ……つか、お前作業の邪魔じゃね」
「だから追い出されちゃった……はぅぅぅ……へこたれるぅ」
「…………ふふっ! マキナらしいですね」
一度部屋に戻ったリンレイが濡れたタオルを片手に走って戻ってくる。マキナの頬や手を優しく拭い、リンレイは微笑んでいた。マキナが来た事により二人の口論はまるでなかった事になってしまったようだが……マキナは目を丸くする。
「そういえば、なんか言い争ってなかった?」
「え? あ、いえ……言い争うというほどの事では……」
「お、おう。こっちの話だ、こっちの」
「? まあ、何でもいいけど喧嘩は駄目だよ? 仲良くしてね、二人とも素直じゃないんだから」
見透かされたような言葉に二人が同時に顔を赤らめる。実はつい先ほどまで二人は今後の事について話し合っていたのである。一人でやると聞かないオルドを説得し、一緒に行くと主張するリンレイ……二人の平行線は文字通りお互いを思う気持ちの線だった。
しかし難しく考えていた思考も今は何となくバカらしく思える。マキナはじいっと二人の目を覗き込み、必死に訴えかけてくる。こういう目をされてしまうと……どうにも素直にならねばならないような気がしてくるのだ。
「わーったよ、うるせぇなあ……。喧嘩はしてねーから、心配すんな」
「そっか、ならいいんだけどね。ねえねえ、リンレイ!」
「はい、なんでしょう?」
「だいすきーっ!!!!」
リンレイの胸に顔を埋め、すりすりと頬擦りするマキナ。一瞬何が起きたのかわからず固まっていたリンレイであったが、マキナが抱きついている事を理解し、その背中を自らも抱きしめた。
「色々あったけど、リンレイは頑張ったんだもんね。わたしはちゃんと判ってるからね」
「……マキナ」
「リンレイが励ましてくれた事、今でもちゃんと覚えてるよ。ありがとうね、リンレイ……! 大好きだよ」
「…………私もですよ、マキナ。私もマキナの事が大好きです。これからもずっと友達で居ましょうね」
「――――うんっ!」
もう一度強く抱き合い、幸せそうに微笑むマキナ。それが離れると、マキナは鼻息荒くまるで尻尾でも振るような仕草でオルドを見つめた。身の危険を感じ、思わずのけぞるオルド。
「オルド君~……っ」
「うおっ!! よせ、馬鹿野郎ッ!! ひっつくんじゃねえ!!」
「あぎゃっ!? ふぬぬぬぬ……ッ!!」
飛びつこうとするマキナの頭を鷲掴みにし、思い切り腕を伸ばして引き離すオルド。マキナは両手をぶんぶん振り回しオルドにつかまろうとするのだが……いかんせん体格差が埋まる事はなかった。
「何頑張っちゃってんだええおい……!?」
「オルド君に……ふぬーっ!! 絶対くっついてやるぅうう!!」
「意味不明な頑張りを見せるな!!」
「そんなに照れなくてもいいんだよ、オルド君っ! はむはむっ!!」
「手をかむんじゃねええええええ!!!!」
結局暫く格闘は続き、オルドは壁際に追い詰められてマキナに頬摺りされていた。青ざめた表情で項垂れるオルドの姿を見てリンレイは楽しそうに笑っている。
「それじゃあ二人とも、名残惜しいけどそろそろ行くね」
「え? あ、はい」
「……気をつけて行けよ。慌てるとコケるぜ」
「コケないよぉ~! じゃあね! またね! ばいばいっ♪」
手をぶんぶん振り回し、マキナは走り去っていく。その途中、瓦礫の破片に足を引っ掛け派手に転倒する後姿を見る事が出来た。慌てて周囲の人々がマキナを助け起すのが見える……。二人はハラハラしつつもお互いに微笑みあった。
「全く、せわしねえやつ」
「…………オルド」
「ん? どうした、浮かない顔して」
「いえ……。私の、思い違いであればいいのですが…………」
胸に手をあて、マキナの事を思うリンレイ。少女の心が向かう先、マキナは司令室に飛び込んでいた。そこでは色々と事務作業を進める生徒会のメンバー、そしてヴィレッタの姿があった。
「ヴィレッタせーんぱいっ♪ 好き好きっ!!」
「ひゃあっ!? きゅ、急に背後からくっつかないでくれぇっ!! び、びっくりしただろ!」
「すりすり……♪ すりすりすりすり……♪」
「く、くすぐった……マキナ!? か、帰ってきたのか!?」
「はい! カラーオブブルー、マキナ・レンブラント! ただいま帰還しました! すりすり♪」
ヴィレッタの背中に執拗に頬擦りするマキナ。その柔らかいようなくすぐったいような感触にヴィレッタは顔を紅くしながらも成されるがままにしていた。やがてマキナが身体を放し、二人は向かい合ってそれからもう一度抱き合った。
「おかえり、マキナ……よくやってくれたね」
「ヴィレッタ先輩もお疲れ様です。大変だったでしょう? こんなに人を集めるのは」
「…………。指揮官として、失格だよ。結局あんなにも多くの犠牲を出してしまった……」
「先輩は頑張ったんです。わたしの方こそ、来るのが遅れてすいませんでした」
「あ、いや……。マキナ……その、少し君は変わったな。強くなった……ううん、とても」
優しく微笑み、マキナの頭をそっと撫でるヴィレッタ。マキナはそれを受け、幸せそうに微笑んだ。マキナがにこにこ笑うのを見ているとヴィレッタまで幸せな気持ちになってしまう。まるでペットを可愛がるかのように暫く飽きもせずヴィレッタはマキナを撫で回していた。マキナはマキナで目を瞑り、ひたすらににこにこし続けている。
「……あのぉ、ヴィレッタ司令? まだ仕事の途中なんですが」
ふと、端末を操作していたアルが声をあげる。背後に立っていたキリュウがマキナへと歩み寄り、その頭をわしわしと撫でた。ヴィレッタの抱擁から開放されたマキナはアルとキリュウ、二人にぺこりと頭を下げる。
「二人ともお疲れ様です! アルティールの人たちもこっちに?」
「ああ。色々あったが、アルティールの残存勢力は蒼穹旅団に所属したからな。とはいえ、これからはまた住む場所が必要になる。今、アルティールの復興計画を練っていたところだ」
「行き当たりばったりに進められるほど小さな組織ではなくなってしまいましたからね……。それよりブルー、貴方はもう少し皆の象徴としてしっかりしていただかないと」
「ごめんごめん……。でも、アルくんも会長も優秀だから、任せても大丈夫ですよね」
「うむ、主にアル君がなんとかしてくれるからな!」
「僕ですか!? 会長も司令も仕事しなさすぎなんですよっ!!」
「アル君~っ♪」
「なんですかブルー……あひぃっ!?」
正面からアルを強く抱きしめるマキナ。顔を真っ赤にして気を失ってしまうアルに目を丸くし、マキナはぐったりしたアルをヴィレッタに仕方なく引き渡す。
「彼には女性に対する免疫がなさ過ぎるな……」
「ほれほれマキナ、はぐはぐしてやるぞ!」
「……や、生徒会長はいいです」
「ハッハッハッハ! つれないことをいうなよ! さあっ!!」
「ふにゃーっ!! よらないでくーだーさーいーっ!! はむはむっ!!」
「イテェェェエエエエエエッ!? はむはむってレベルじゃないだろこの噛み付き方はっ!?」
「がるるる……っ!」
マキナは唸りながらヴィレッタの背後に回りこんでしまう。アルを抱きながらマキナを庇う姿勢になり、ヴィレッタは一人奇妙な状況に苦笑を浮かべた。
「それで、先輩……? これから旅団はどうするんですか?」
「あ、ああ。この状況でそんな真面目な事を話すのか……? とりあえずアル君はソファに寝かせて……っと。これからは、アルティールで新しいフェイスを始めるつもりだ」
「新しいフェイス?」
元々フェイスとはセブンスクラウンが生み出した組織であり、公平さには欠けたただの傭兵集団であった。ヴィレッタはその組織を再建するにあたり、新しいフェイスを組織として確立させるつもりなのである。
ベガは滅んでしまったが、デネヴ校はまだ力を残しているし、アルティールも壊れてしまったが直せないわけではない。これからはアルティールの方は再建し、居住区として活用。デネヴは世界を守るフェイスの拠点とする方向性で考えられている。
「とはいえ、アルティールは大分ガタが来ているからな……。再建には長い時間と手間がかかりそうだ」
「それじゃあ、デネヴが活動拠点になるんですね」
「ああ。今度は旅団を中心に結成した義勇軍として、フェイスは世界に新しい秩序を作っていくよ。アナザーとノーマルの差別もなく、地球も宇宙も月もみんな平等に暮らせる世界に……」
熱く理想を語り、拳を握り締めるヴィレッタ。その姿を見ているとマキナは安心してヴィレッタに全てを任せられる気がした。きっと彼女なら成し遂げるだろう。長い時間がかかるかもしれない。苦難が待ち構えているだろう。だが、それでもやりきるだろう。ここまで皆を引っ張ってきたヴィレッタならば……。
「その為にはまず、地球のエトランゼをなんとかしないとな。まだセブンスクラウンとの戦いが終わったばかりで、あちこちガタガタだから戦力を立て直すのには大分時間がかかりそうだが」
「どれくらい、かかりそうですか?」
「ん? そうだな……早くても一月……二月くらいは欲しいな。でも今は少しでも皆を休ませてやりたいんだ」
「そうですか……。一月……か」
何故か一瞬マキナは少しだけ寂しげな目をした。それがヴィレッタの胸には強くひっかかったのだが、次の瞬間マキナは普段どおりの笑顔に戻ってしまう。まるで全ては目の錯覚か何かであったかのように。
「それじゃ、わたしはそろそろ行きますね。皆さんお仕事ご苦労様ですっ♪ それでは!」
「あ、マキナ!」
「はい?」
「…………今度、また料理を作るから、皆で食べよう。また、昔みたいに」
優しく笑うヴィレッタ。それに大してマキナは足を止め……一瞬泣き出しそうな顔を浮かべた。それからどこか大人びた、綺麗な笑顔で頷いてみせる。
「――――はい。きっと……約束ですよ? 楽しみにしていますから」
「…………ああ、お手柔らかに」
笑顔の欠片を残し、去っていくマキナ。その後姿を見送り、ヴィレッタは言葉に出来ない不安と寂しさを感じていた。何故だろう? マキナの笑顔はとてもはかなくて……消えてしまいそうな気がしたのだ――。
司令室を飛び出したマキナは暫く歩き、それからふと足を止めた。壊れかけた世界……だが、人々はそこから立ち直ろうと必死に努力を続けている。この調子ならばきっと人々はまた立ち上がり、そして歩いていくのだろう。新しい、自由な歴史を……。
ふと、マキナの足元に駆け寄るアポロの姿があった。マキナはうさぎを抱き上げ、頭の上に乗せて空を仰ぐ。気持ちのいい風が吹いていた。蒼い髪を風に靡かせ、大きく背筋を伸ばす。
「それじゃあいこっか、アポロ」
「むっきゅう」
「うん……。ちゃんと、お話しなきゃね。後の事は……きっと、彼女が決める事だから。そうでしょう……? マリア・ザ・スラッシュエッジ――」
蒼い瞳に世界を宿し、少女は歩き出す。物語の結末は直ぐそこにあり、そして少女はその結末を既に悟っていた。寂しい風が世界を包んでいく。星の目覚める時は、目の前まで迫りつつあった――。
はじまり(1)
「酷い――。大変な、戦いだったね」
マキナはそう口にし、話の始まりとした。背後ではベッドの上、泣きつかれたノエルが眠っている。ベランダに立ち、マキナは空を見上げていた。その隣には同じく空を見上げるアテナの姿がある。
穏やかな……とても静かな時間だった。ずっと慌しく戦ってきたここ数ヶ月の間の事をマキナは思い返していた。様々な戦いがあり……様々な真実を知った。そして今セブンスクラウンは消え、世界は鎖から解き放たれたのである。
だが、これからが苦難の道の始まりでもある。彼の支配者は良くも悪くも人を管理していた。彼らの手の内にある限り、人は滅んでしまう事はなかったのだ。そういう意味においてセブンスクラウンは間違いなく人の守護者であった。ただ、その方向性を違えてしまっただけで。
人は自由になった。自由とは何を行う権利をも持ち、そして責任を負うという事でもある。束縛から解き放たれ、人が歩む道……そこにはもう誰の後ろ盾もない。人々が己の意思で歩き、進む先……そこに待っているのは滅びなのかもしれない。だがもうそれは誰の所為でもなく、ただ人の宿命なのである。
壊れた街を直す人々……。やがて街は暗くなり、星空が良く見える夜が訪れた。外灯はまだ殆どが復旧しておらず、空には向き出しの星の海がバリア越しに覗き込んでいた。マキナはその景色を目に焼き付ける。とても大切な物を、失ってしまわないように。
「セブンスクラウンは倒れ、世界は人の手に還った……。でも、これからが戦いのはじまりなんだね」
「ええ……。人はその責任を果たすべき時が来たのよ。古の契約は放たれた……。もう、戻るべき場所もない」
二人は微笑み、それから少しだけ寂しげに街を見下ろした。星の光が今日はとてもよく見える。カナルの上、眩い光の織り成す結界の中、人は生きている。生きていけるだろう。きっと、これからも。
争いがあり、差別があり、愛がある……。アンバランスに人は構成されているからこそ、欠けた想いを求め戦い、そして優しくすることが出来る。それに気づけた今は人の罪さえ愛しく思えるのだ。少なくともマキナは人を恨んではいなかったし、憎む気持ちも何もなかった。失望さえなく、そこにはただ優しさだけがある。全てを抱擁するかのように世界を愛し、今はただ見守る……それだけである。
振り返るとアテナが酒瓶を片手に立っていた。もう片方の手にはグラスが二つ――。二人はグラスに酒を注ぎ、琥珀色の液体を星の光に透かしながら軽く音を打ち鳴らした。
熱い感触と共に全てが流れていくような、そんな夜だった。二人の間に言葉はそう多くはなかった。静かに、ただ静かに時間が過ぎていく。ノエルが寝返りを打つ音が聞こえ、二人は同時に背後を振り返る。空は……とても穏やかだ。
「ねえ、マキナ……」
「なぁに?」
「私……これからは強く生きていくわ。私も貴方のように……強くなる。貴方は私の憧れになった……。貴方みたいに、全てを愛せるようになれるかしら」
「なれるよ、きっと。アテナさんなら」
嬉しそうに、にっこりと微笑むアテナ。数年前からは想像も出来ない、とても優しく愛らしい笑顔だった。誰かを愛し、誰かを想う笑顔……だからこそ愛らしく、それに癒されるのだ。アテナは知り、そして実行できるようになった。はにかむような笑顔は文字通り、紛れもなく乙女のそれであった。
「貴方にはたくさんの物を教わったわ。そして与えられた……。すれ違う事もあったけど、信じられる。今は貴方を信じている。心の底から……」
「…………アテナさん」
「きっと、全ての事には意味があったのよ……。無駄なことなんて一つもなかった……。今は皆にお礼を言いたい気持ちで一杯なの。恥ずかしくて、言えないけど……」
「…………アテナさん、かわいいですねぇ~」
「ちょ……急に何を言い出してるのよ」
「そういうアテナさんの事が大好きなんですよ? わたしも、アテナさんに会えて良かったです」
「…………もう、ばか……っ」
照れ隠しなのか、一気にグラスを空にするアテナ。隣でマキナはそんなアテナの様子を眺めて微笑んでいた。ふと、気づく事があった。アテナは小首をかしげ、マキナを見やる。
「ねえ、その……“わたし”って?」
「あ、うん。もうニアの力を借りるのは止めにしたんだ。もう、自分の力で歩いていかなきゃいけないから」
「…………そう」
「人がセブンスクラウンから解き放たれたように、わたしも自分で歩いていかなきゃいけないと思うんだ。わたしたちには人を解き放った責任があると思う。その生き方に、よどみがあってはいけないと思うから」
大人びた表情を浮かべるマキナ。その横顔に思わずときめいてしまう。初めて会った時は……ただ憎かった。ただ、母に良く似た面影を持つ彼女の事が憎かった。いつしか憎悪の感情は嫌悪と交じり合い、殺意にさえなりかけた事さえもあった。
思えば二人の歴史は常に交じり合い、そして二人はお互いの存在を意識しつつ、共に在った。しかし触れる事は叶わず、まるで鏡合わせの存在のように……ただすれ違う。抱える想いは錯綜し、ようやくこうして手を取り合う事が出来る距離に相手を置く事が出来た。
マキナは泣き虫で、何も出来ないただの子供だった。それがどうだろう? 気づけば世界最強のライダーとなった。それは操作技術や機体性能だけの問題ではない。彼女が最強足りえる理由……それは、彼女の心の不屈さにあるのだ。
何度も涙を流し、傷を負い、歯を食いしばっては立ち上がり、そして一歩……。僅かに前に進んできた。立ち直れないような深い心の傷も力に変え、どんな現実の前にも屈する事はなかった。何度でも何度でも傷だらけで立ち上がり、全てをねじ伏せてきた。その心の強さこそマキナの力、彼女が最強足りえる理由なのである。
あの、泣き虫だったマキナが……。そう考えると感慨深いものがあった。泣いてばかりで、ただ見ているとイライラするだけだった少女。それが今ではこんなにも胸の中に大きく居座り、他に何も考えられないくらいに夢中になっている。何故だろうか? そんな事もあるのだろうか? ただの偶然という言葉で片付けたくはない想い……。ならば奇跡とでも表現しようか――。
「…………アテナさん、覚えてますか? わたしたちが初めて会った時の事」
「――――さあ? 忘れちゃったわ」
本当は覚えていた。だが、しらばっくれてしまう。同じ事を考えていた……それがとても嬉しかった。思わず酒も進んでしまう。
「アテナさんはいつもわたしの憧れでした。アテナさんが居たから、貴方に追いつきたくて、一生懸命頑張って……。アテナさんがいなかったら、もしかしたら今のわたしはなかったかもしれない」
「大げさすぎじゃないかしら」
「そんな事はないです。アテナさんは綺麗で、かっこよくて……。入学式の日、式典で貴方を見た時からわたしはずっと貴方の事を追いかけてきた。だから……心の底からありがとうって思うんだよ。ね、アテナさん」
「…………いちいち恥ずかしい子ね」
「えへへ~♪ 照れ照れなのはいっつもお姉ちゃんの方だけどね」
「……あのねえ!」
マキナの頭を少し強く撫で回す。マキナははしゃぎながら笑い、二人はしばらくそうしてもみ合っていた。手を止め、マキナが真っ直ぐにアテナを見つめる。
「お姉ちゃん」
「うん?」
「大好きだよ――。これからもずっと……永遠に」
「――――」
思わず絶句してしまう。言葉に形があったのならば、マキナの言葉はきっと矢となってアテナの胸を射抜いた事だろう。顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせるアテナ。“私もよ”とは言えなかった。あまりにも、アテナにはハードルが高すぎた。
「はい、お姉ちゃんもハグハグしよっ」
「え、えぇ!? い、今ここでするの……?」
「うんっ♪ 早く早く!」
「も、もう……しょうが、ないわね……」
視線を泳がせながらも頷くアテナ。マキナはそんなアテナを強くぎゅっと抱きしめた。温もりと強さ、そして安らぎを感じる……。マキナの身体を抱き寄せ、アテナは目を閉じた。だが――聞こえてしまったのだ。
マキナは一人で涙を流していた。アテナの背中に回した指先で強く服を握り、肩を震わせながら。理由は判らなかった。だが、嗚咽を堪えて涙を流しているマキナの事がとても哀れだった。何故だろう……何も声をかける事が出来ない。
永遠に等しい時間が流れた。マキナはずっと泣き続けている。なにか……彼女を傷つけるような事をしてしまったのだろうか? 守りたいと心から思う。ずっと傍に居て……守り続けたいと願う。それが出来るのならばそれ以外の全てを捨てても構わない。心に強く願う。どうか、永久よ我が手にと。だが――。
「ごめんね、お姉ちゃん……! 本当にごめんねぇ……っ!」
「マキ……ナ……? どうしたの……? どうして謝るの……?」
「大好きだよ……っ! ずっと大好きだから……。だから……ゆるして……。わたしの事を…………赦して――――」
星空の下、マキナはずっと涙を流し続けていた。アテナは心の中で煮えたぎるような怒りに駆られていた。それはマキナに対するものではない。この小さな少女を抱きしめ守り、その涙を止める術を持たない自分に腹が立った。
今はただ、温もりを分け与えよう。これ以上少しでも涙が流れてしまわないように。優しい気持ちが消えてしまわないように。出来る事ならば永久に。永遠に――――。