Deus ex machina(1)
「――――。また、医務室の天井だ……」
意識を取り戻したマキナは暫くの間真っ白い天井を見つめ、それから溜息混じりにそう漏らした。ぼんやりとする意識の中、首だけを動かして横を見る。隣には椅子に腰掛けて本を読むアンセムの姿があった。
「気がついたか」
「……先生」
「肩と足を撃たれている。無茶をしたものだな」
「…………っ!? そうだ、レーヴァテインは!? アポロは……っくぅっ!」
飛び起きようとして全身が悲鳴を上げた。体中がバラバラになってしまうのではないかという激痛に苛まれ、マキナはそのままベッドに倒れこむ。そんな少女の額に手を当て、アンセムは静かに目を細めた。
アンセムの手はひんやりと冷たかった。部屋の中には暖房がかかっていたが、それでもアンセムの手は冷たい。長い間椅子の上から動いていない証拠であった。心地よい感触に目を細め、マキナは上目遣いにアンセムを見つめる。男は眼鏡に光を反射させながらじっとマキナを見下ろしていた。
「しばらく入院だ。大人しくしている事だ……いいな?」
「……はい。それで、あの〜?」
「レーヴァテインなら姿を消した。侵入者は取り逃がしたが、捕らえた連中は尋問している。シティの損害は確かに大きかったが、それも中心部くらいだ。直ぐに元通りになる」
「そう、ですか……。良かった……」
ふっと体中から力が抜け、マキナは目を閉じた。勿論まだ全てが良かったの一言で済ませられるような状況ではないのだが……兎に角危機は去ったらしい。考えなければならないことは山ほどあったが、逆にどれから手をつけたらいいのか判らなくなり頭の中は酷く真っ白のままだった。窓の外に視線を向けると空からは白い雪が降り注いでいる。作り物の四季……それでもそこには人が営む為に愛した世界がある。
「それで、アポロは……?」
アンセムは無言で首を横に振る。それが何を意味しているのか、マキナは考えたくなかった。痛む体に必死で鞭を打ち、体を起こす。今にも泣き出しそうな表情のマキナを見てアンセムは心苦しそうに眉を潜めた。
「アポロは……死んじゃったのかなぁ……」
「…………」
「アポロ……。アポロ……うぅ……っ」
「アポロは死んだわけではない」
ぽろぽろと涙を零し始めたマキナの肩を叩き、アンセムは力強く頷く。
「アポロは一度その形を失い、ジークフリートの中に還っただけだ。ジークフリートに連れ帰ったのは正解だった。あれはアポロの揺り篭であり、アポロの肉体そのものだからな」
アポロ――つまりニーベルングシステムとは、つまりはジークフリートの人工知能である。ジークフリートという機体そのものが備えている自立した判断能力、操縦補佐能力、それらを総称してニーベルングシステムと呼ぶのである。
ニーベルングは本来形を持たない存在……。エーテルの集合体に過ぎない。エーテル生命体である以上、その形には厳密には何の意味も無いのだ。アポロという存在を指し示す定義は肉体ではなく、そのエーテルに蓄積された記憶なのである。
「エーテルは記憶媒体としての性能を持っている……。それは知っているな?」
「はい……」
フォゾンドライブが永久機関であるという事も、エーテルの記憶性質に頼っている。ただ情報を記録するだけではなく、それを再現する事も可能だし、情報ではなくその場で起きている現象を再現する事、それを維持する事も可能なのだ。現在の段階でエーテルをそのように運用する事が出来ているのはフォゾンドライブと呼ばれる技術が主であり、日常的な生活にまで浸透しているとは言い難い。
しかし、アポロはジークフリートという機体のAIであり、その記憶をエーテルに刻み続けているのだ。アポロの肉体はいわば記憶の媒体なのである。アポロの寿命が三十年というのは、おおよそアポロと呼ばれる小さな自立したエーテル体に記憶を蓄積できる年月の事を指し示している。
「つまりアポロは一度肉体を開放し、ジークフリートにその記憶を融合させる。そしてジークフリートは最適化したニーベルングシステムを再構成する……。つまりそういうことだ」
「じゃ、じゃあアポロは……? アポロは、死んでないんですかっ!?」
「目に見えない形になって機体の中を循環しているだけだ。そもそもエーテル生命体に死という概念は存在しない。あれらは記憶の集合体であり……いや、それは兎も角、アポロは無事だという事だ。今はただ、眠っているだけだよ」
「…………よかった。よかったよぅ……っ! ううっ!! うぅぅううう……っ!!」
再び涙を流すマキナ。心底安心したのだろう、流す涙は暖かく輝いているように見えた。目の前で泣き続けるマキナを見つめ、アンセムは過去の記憶に思いを馳せていた。
「アポロは、君の母親があの形に固定したんだ。そして今日まで君の傍に寄り添ってきた……。君が一人ぼっちにならないように。どんな時でも誰かが傍に居てくれるように……」
「お母さんが……」
「彼女に出来たんだから、君にも出来るはずだ。今度は君がアポロに新しい体を作ってやればいい。兎に角今はゆっくり休む事だ。そんな身体で無理をすれば本当に戦えなくなるぞ」
「はい……。あの、アンセム先生……?」
立ち上がり、椅子を片付けるアンセム。その手を止めて振り返ると、マキナは真っ直ぐにアンセムを見上げていた。戸惑いも迷いも無い真っ直ぐな眼差し――目を逸らしたく成るほど、純粋な真心がそこにあった。
「ネクストアナザーの事、アテナさんにちゃんと話してあげてください。それと、お母さんの事も」
「…………約束しよう」
頷くアンセム。それをしっかりと見届け、マキナはベッドに再び横になった。本当に身体は限界まで疲労しているので、寝つきはとても早かった。殆ど気を失うような勢いで眠りの中に落ち、そのまま小さく寝息を立て始める。そんな少女を見下ろし、アンセムは眼鏡を外して溜息を漏らした。
「……今度は俺が、貴方の大切な人を守る番なんですね。先生……」
遠い日に交わした約束。そしてマリアが死に際に病院でアンセムに告げた言葉。あの日、病院に飛び込んできたマキナとすれ違って歩き出した……。もしかしたらその時から全ては始まっていたのかもしれない。或いはそれよりも遥かに過去から……。
もう、全てを誤魔化し続ける事は出来ない。真実を話すべき時が来たのだ。アンセムはそう心に固く誓い、マキナの病室を出た。一歩一歩、廊下を歩いていく。その乾いた靴音だけが子守唄のように静かにリズムを刻んでいた。
Deus ex machina(1)
『ファントムの反乱……何故予期出来なかったのか』
『連中にそれだけの力があるとは誰も思っちゃいなかったんですよ。実際、カラーズの力の前では無力ですからね』
『捨て置ける問題ではないでしょうか? 翻弄されて計画に支障が出ればそれこそ思う壺です。今はオペレーションカラーズの遂行を優先すべきでしょう』
『どうでしょうか。そもそも今回の件、ファントムだけが反旗を翻したとは言えないと思うのですが』
『どういう意味かね?』
『ファントムはそもそも、架空の敵勢力……人類にとっての脅威の代行者のはずじゃった。つまり、この世界のパワーバランスをつかさどる為に必要な暗躍舞台……。フェイスや月に反抗的な組織を黙らせたり、内部の不穏因子を駆逐する為に必要な汚れ役じゃった』
『近年でこそ、カラーズの実力を推し量る材料となったり、カラーズが力を持ちすぎない為の牽制も行っていたが、本来はフェイス裏の顔……。セブンスクラウンの直轄組織だったはずだ』
『最悪、ファントムを倒せばフェイスの信頼度は上がりますからねぇ。まあ出来レースといってしまえばそれまでですが』
『じゃが、力を持ちすぎた。エリュシオンのライダーは、確か破棄されたカラーズナンバーの一人じゃったな?』
『とはいえ、個人があの反乱を起こせたとは思えません。実際にテスタメントをはじめとするいくつかのギルドが既にファントムの勢力下にあるようですし』
『……となると、これはファントムの反乱というよりはフェイスの反乱と見るべきじゃろうな』
『それも組織としてのフェイスではなく、フェイスという組織に所属しているライダーの反乱、という事になります。自発的な革命ほど厄介なものもありませんよ』
『それを支援しているのはどこのどいつかというのも問題だろう? 手際が余りにも良すぎる』
『目星は着いている。そちらに関しては早急に手を打とうではないか。今は計画の遂行を優先すべきだ』
『レーヴァテインとの交戦でジークフリートの記憶は呼び覚まされつつあります』
『ファントムとの戦いもジークフリート覚醒の呼び水になるなら丁度いいでしょう。カラーオブブルー、彼女に対応させては?』
『いささか危険ではないかね?』
『彼女ならうまくやると私も思います。決議を取りましょう? カラーオブブルーに今回の件を一任するのかどうか――』
『『『『 ………… 』』』』
『決まりじゃな』
『それでは計画を微調整し、方向転換しつつ遂行しましょう。詳しくは追ってプランを送付します――』
「結局、アクセスしていた人間が誰だったのかは謎のまま、ということか……」
バリケードにされていた家具も何とかもとの位置に戻され、生徒会室は普段の状態を取り戻しつつあった。結局あの騒動はアンセムとアテナの活躍、そして内部に残っていた生徒たちの抵抗により一応の終着を見せた。尤も、きっかけとなったのは外で起きた戦闘でファントムが撃墜された事なのだが。
兎に角内部での戦いは何とか終着した。未だに戦闘の痕跡は残されているし、支配されていたネットワークは全てが取り戻せたわけではない。しかしそれが逆にチャンスでもあるとキリュウは考えていた。冷や汗を流し、嫌々会長に付き合わされているアルは端末を操作しながら何度も溜息を漏らしていた。
「なんで僕がこんな事しなきゃいけないんですか……」
「セキュリティが滅茶苦茶に成ってる今がチャンスなんだよ。色々と知りたいだろう? この世界で今何が起きているのか、とかな」
「片っ端から言われたとおりにダウンロードしてますけど、これ何のデータなんですか? バレたら生徒会、ヤバいんじゃないですか?」
「そこはホラ、君の腕を信じているからな」
「出たよ責任丸投げ……。それが人の上に立つ人間のやる事ですか」
「生徒会も人手不足で困ってるんだから君に気張ってもらわないとな。紅服になったんだし、先輩として頑張りたまえ」
「なんで僕がこんな事……はあ。とりあえず七割は作業完了しましたよ? バレて退学になっても知りませんからね、僕は関係ないって言い張りますから」
「感謝しているさ、相棒」
アルの肩を叩き、キリュウは立ち上がり背後を振り返る。それにしても今回の事件、腑に落ちない点が余りにも多すぎる。
侵入者の目標はジークフリートだったとして、それはマキナの手によって阻止されたと、そう考えるのが自然だろう。ジークフリートの眠っている格納庫は専用のカードキーを使うかかなり高度な権限を持たないと入る事が出来ない場所だ。故にセキュリティを支配してあの扉を開けようとしたのだと考えればネットワークの混乱も頷ける。
しかし、目的は本当にそれだったのだろうか? こうして実際にフェイスの裏側を調べてみて、ふと思うのだ。もしかしたら侵入者の目的はまさしく“これ”だったのではないか……? ジークフリートの奪取はそのおまけのようなものだったのかもしれない。実際ジークフリートを動かすのは並大抵のライダーでは不可能なのだ。ネクストと呼ばれる特殊なライダー、その中でも蒼の素質を持つ人間にしか反応しない。砕いて話をすれば、マリア・ザ・スラッシュエッジの血縁者にのみ反応する仕組みなのだろう。
だとすればマリアの血縁者でもなんでもない人間がジークフリートを奪ってどうするというのか? いや、或いはジークフリートそのものに用事があったのかもしれない。全ては推論なのでキリュウにも真実はわからない。だが奪ったデータを荒い直せばわかる事もあるかもしれない。
もう一つ大きな疑問なのは何故レーヴァテインが現れ、しかもジークフリートを助けたのかという事である。結果的にジークフリート、つまりマキナがレーヴァテインに反応し戦闘を挑んだ為あのような形になったものの、レーヴァテインのした事は明らかにジークフリートの救出であった。実際あれはマキナに止めを刺さず、それどころか大体の安全が確保された事を確認したらそそくさと去ってしまった。直後、ファントムたちがジークフリートに攻撃を再開するも、レーヴァテインと入れ違いで黒い機体、斑鳩が救助に入る結果となった。
まるでタイミングを合わせたような調子ではないか。レーヴァテインはつまり、斑鳩が来るまでの時間稼ぎをしていただけなのかもしれない。どちらにせよレーヴァテインの行動はあまりにも不可解すぎた。そしてあの場に姿を見せた斑鳩も……。
「謎は深まるばかりだな」
「謎は兎も角仕事してくださいよ、仕事! フェイスが襲撃されたっていうで町中で大騒ぎになってるんですから!」
「ま、そうだろうな。“フェイスがいるから安心だ”……“フェイスがあるからこの街は楽園”なんだからな。そこが揺らげば自然と不安は拡大していくだろう。シティの人間もようやく気づく。この街も、世界の脅威に晒される箱舟の一つに過ぎないのだとな……。で、うちの我侭お姫様はどこ行ったんだ?」
「またブルーのお見舞いじゃないですか……。最近あの人以前にもまして仕事しないですからね、ホント。ま、まあ妹思いな所はいいと思いますけど……」
「ブルーも生徒会に入って貰えばいいんじゃないか? 彼女今フリーだろう」
「……。意外とそれ、名案じゃないですか?」
「だろ〜?」
「もう!! ホント、いい加減にしてよねっ!!」
アテナの第一声にマキナは思わずたじろいだ。一気にマキナまで駆け寄るとアテナはマキナの頬に手を寄せ、傷を優しくいたわるように撫でた。
「これからは一人で勝手な行動はしない事!! わかった!?」
「う、うん……。ごめんなさい……」
「もう、本当に心配かけさせないでよ……! 凄く心配したんだから!! ばかっ!!」
「あはは……。ありがとうございます、アテナさん」
ベッドに腰を下ろし、アテナは足と腕を順番に組み、深々と溜息を漏らした。マキナは相変わらずの重傷だったが、命に関わるような傷というわけでもない。ひとまず安心という事だが、まだ色々と予断を許さない状況にあるのは変わりない。
「まあ、命に別状はないから良かったわ。何か、食べたい物とかある? してほしい事はない?」
「ほえー? 別にないですよう〜。確かにお腹は空いてますけど〜」
「じゃあ、何か買って来るわ! カフェエリアに行って戻ってくるから、ちょっとだけ待っててね。それじゃっ!!」
「え? あの、別にそんなに急がなくても――――もう行っちゃった……。アテナさん、せっかちだなぁ」
病室から飛び出していくアテナを見送りマキナは目をぱちくりさせていた。とりあえず先ほどアテナが買ってきてくれた缶ジュースを口につけ、一息つく。肩と足を撃ちぬかれた物の、命さえあればまたやり直せる。
先ほどアテナから詳しく話を聞いたのだが、格納庫は酷い騒ぎになっていたらしい。お陰で出撃システムの三割が機能停止状態にあり、二割が稼動制限を負わされる事となった。格納庫の死者はやはり多かったが、気を失っていただけの者なども多く、無事に救助されたとの事である。
通路での戦闘でも死者は数名出てしまったものの、基本的に大規模な死傷者が出るような騒ぎにはならずに済んだ。医務室は突然患者が増えすぎて処置が追いつかない状態らしいが、マキナは優先して個室に入れてもらえたのである。
アポロが無事だったのもマキナを安心させたが、ジルが一命を取り留めた事も彼女がこうして暢気にジュースなんかを飲みながら一息つけている理由である。咄嗟にあの時マキナが突き飛ばしたのが功を奏して銃弾は脇腹を掠っただけで済んだのである。それでも健康というわけではないのでその他の傷なども含め、ジルは他の病室で厄介になっているという。
更にシティでの戦闘で建造物は多々破壊されたものの、死傷者は奇跡的にゼロであった。皆我先にと一気に蜘蛛の子散らすように逃げていったのと、シティそのものが持つ避難システムの優秀さのお陰であった。
そんなわけで、アポロの再構成のための準備を待つ間マキナには何もやる事が無いのである。途端暇になってしまい、今は傷を癒す事だけを考えのんびりとしているわけだが……。ベッドの上ほど退屈な所も無い。一年間お世話になりそれから一月程度ここで過ごしたわけだが、せっかく自室を取り戻したのだから出来ればそこで休みたいというのが本音であった。
「早くアポロを元の形に戻してあげなきゃいけないのに……こんな所でじっとしてるなんて苦痛だなぁ」
とは言え出歩くには最低でも松葉杖が、欲を言えば車椅子が必要である。しかも肩の傷の所為で車椅子を自分で押すことは出来ないし、杖をつくのも一苦労である。食事が終わったらアテナに少し我侭を言って散歩にでも連れ出してもらおうか――そんな事を考えていたその時であった。
「こんにちはぁ〜っ!! 失礼しま〜す! マキナ・ザ・スラッシュエッジさーん、お見舞いにきましたよ〜!!」
勢いよく扉が開き――自動ドアなので勢いも何もないのだがそう見えた――部屋の中に見知らぬ少女が姿を現した。マキナはその少女を見て、一瞬目を真ん丸くさせる。黒髪、そして何よりも無邪気な笑顔――それが丁度一年前の自分にソックリだったのである。
少女は元気よく歩いてくると、マキナの傍に立って敬礼した。口半開きのまま唖然とするマキナの視線は少女の背後、ポケットに片手を突っ込んだままひらひらと手を振っているラグナに向けられていた。
「やあ、マキナ。元気そうで良かったよ」
「ラグナ君……えと、この子は?」
「あたし――じゃなくて、自分はデネヴ出身のAランク傭兵、ノエル・ヒルベルト十五歳と申します! カラーオブブルー殿のお見舞いにやってまいりました! 押忍!!」
「お、おす……? しょうゆ……?」
状況が飲み込めず意味不明な言葉を口走るマキナ。そんなマキナをほったらかしに、ノエルは持ってきたランチバスケットからサンドウィッチを取り出し、マキナにずずいと差し出した。
「ささ、お一つどうぞ! マキナ先輩の為に丹精込めて作ってきた献上品にございます……!」
「えーと……うん、くるしゅうない?」
再び意味不明な言葉を口走りながらそれを受け取り、徐にかじりつく。フレッシュな野菜のうまみ、そして謎のオリジナルソースがパンズと野菜をマッチさせ、口の中でシャキシャキと目が覚めるような爽やかさが炸裂した。余りにも美味しかったもので暫く時が停止していたマキナであったが、一気に残りも平らげて指先を舐めながら目を輝かせた。
「お、おいしぃいいいっ!! これ、貴方が作ったの?」
「ハイッ!! 嫁入り修行の一環としてこれくらいは当然ッスよ!! にゃははのはーっ!!」
「すごいなあ〜。ぼくも料理とか出来たらいいのに」
「……今なんとおっしゃいました?」
突然真顔で詰め寄るノエル。がっしりと両肩を掴み、顔を寄せてくる。あまりにも近すぎる顔の距離に若干焦りながらマキナは言葉を繰り返した。
「料理とか出来たら良いのに……って」
「その前です!!」
「え……? すごいなあ〜? ぼくも……」
「そこですストップです! ぼ……」
「ぼ……?」
「先輩、ぼくっ子だったんですかああああっ!! テンションあがってきたああああっ!!!!」
「何で!?」
「説明しよう! ノエルはぼくっ子ラブ属性の持ち主なのだ!」
「ラグナ君はどうして自重できないのかな!? どうして自重できないのかなっ!?」
「そんなわけで、まずはキスから始めましょう……!」
「なんというショートカット……じゃなくて! やーめーてーっ!?」
「せ、先輩の唇……。先輩の柔らかいほっぺた……はあはあ……はあはあ……っ」
「ひいいいいいいっ!? なんかよくわかんないけど怖いよう!! 怖いよううううっ!!!!」
鼻息荒く、歪な笑顔を浮かべながらマキナを押し倒すノエル。それを携帯端末のムービー機能で淡々と撮影するラグナ。マキナがなきながらじたばたともがいていたその時であった。
「人の妹に何やってんのよこらぁああああッ!!!!」
「ひぎぃっ!?」
入り口から飛び込んできたアテナが繰り出した強烈なタックルがノエルの脇腹に直撃し、小柄な少女は物凄い勢いで壁目掛けて吹っ飛んでいった。壁に衝突し、床にごろりと転がるノエルを見下ろしアテナは肩で息をしていた。
「あ、あてなさん……。女の子相手に、やりすぎだよ……」
「か、加減するの忘れたわ……えーと、貴方……大丈夫?」
しばらくピクリとも動かなかったノエルに蒼も紅も冷や汗を流す。しかし突然ピクリと指先が動き、そこから息を吹き返すかのようにノエルはすっくと立ち上がった。額からこんこんと湧き出る鮮血を袖で拭い、爽やかな笑顔を浮かべる。
「いや〜、三途の川が見えましたッス〜」
「いや、今も渡ってる途中なんじゃ……」
「それより――アテナさん!! 会いたかったーっ!! お久しぶりじゃないですかーっ!!」
「……げ!? ノ……ノエルなの……?」
「アテナさーん!! 一緒に女の子同士嬉しはずかしドキドキ脱がしっこしましょうよーうっ♪」
「絶対に嫌よッ!! はあっ!!」
「ひでぶっ!?」
飛び込んできたノエルに回し蹴りを叩き込む。小気味いい打撃音が病室に響き渡り、アテナが本気で繰り出した蹴りは大気を揺るがした。それが顔面に直撃し、ノエルはそのまま吹っ飛んで壁際で再び沈黙する事になった。
「お姉ちゃん、それはいくらなんでもやりすぎ……」
「……これくらいしないと無意味なのよ、あの子は」
「えーと、知り合いなんですか?」
「ええ。カラーオブブラック、知ってるでしょ? ヤタ・ヒルベルト……その孫娘よ」
カラーオブブラック、ヤタ・ヒルベルト――。黒のクルヴェナルのライダーであり、現存するカラーズでは最高齢でもある。孫娘のノエルが十五歳なのだから、それだけである程度高齢なのは推測出来る。
そのヤタはノエルの事がお気に入りであり、何かあれば常にノエルを連れまわしていた。お陰でカラーズ関係者の中では知らないものはいなかったし、アテナもその例外ではない。ノエルとは過去何度か邂逅し、そうして今回と同じようなやり取りを繰り返してきた仲である。
「しかし、ノエルがどうしてここに……?」
「えっとぉ、まあいろいろあって……。それは兎も角! アテナさんも相変わらずキレーですね〜……。むふ、むふふふっ」
「その嫌な笑いは止めてくれる……?」
ふと、アテナの視線がマキナが先ほどから黙々と食べ続けているサンドウィッチに向けられる。あまりにも美味しかったので手が止まらないマキナだったが、口の周りをソースでべたべたにしながらアテナを見やって手を止めた。アテナは今まさにサンドウィッチを購入してきた所だったのである。アテナは笑顔だったが、何故かマキナは冷や汗が止まらなかった……。
「そういえば、ヤタは元気? 最近見かけないけど……この間アルティールに来るはずだったのに」
「あ……やっぱり聞いてなかったんですね」
なにやら言いづらそうに歯切り悪くそう切り出すノエル。それから少しの間考え込み、そして意を決したのか顔を上げ、二人に事実を告げた。
「実は、おじいちゃんは今行方不明になってるんです。黒のクルヴェナルと一緒に……」
「「 行方不明!? 」」
マキナとアテナは声をそろえて驚いた。確かに、全員揃うべき場所で姿が見えなかったのでおかしいとは思っていたのだが、まさかそんな事になっているとは思ってもみなかったのだから当然である。
「カラーズは今、危険な立場にあるんです。それで、あたしがお二人と行動を共にするようにと命令を受けて来たんですよ」
「つまり……?」
「――はい。お察しの通り、あたしはこの度黒の座を継承し、カラーオブブラックに任命されました。マキナ先輩と同じ特例です。なので、これからはお二人と常に一緒、肌身離さずべったべたであります!」
明るく笑い飛ばしながらそう語るノエル。しかしマキナとアテナはどこか腑に落ちないような表情を浮かべていた。対照的な三人の様子、それを眺めながらラグナは静かに携帯端末の映像を保存していた……。