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Black smile(2)

「――先生。どうして先生は、アテナを遠ざけるんですか?」


 ある日、アンセムはマリアにそう問いかけた。アンセムに娘を預け、マリアは今日も戦場に出ていた。マリア・レンブラントは確かに優秀なライダーだ。この世界にとってかけがえのないパワーバランサーである。彼女の発言は神の言葉にも等しい。セブンスクラウンさえ、彼女の前では成す術が無い。

 誰もが彼女の力を知っていたのだ。オペレーションメテオストライク――。その時マリアはたった一機のFAで巨大な隕石を一刀両断した。数百のFAを相手に無傷で勝利を収め、圧倒的無敗……。彼女が敗北したとか傷ついたとか、そんな話は聞いた事もないし想像もつかない。触れようとすれば消えてしまう幻の如く、彼女は常に対峙する物に死を与えた。

 絶対最強の名はあらゆる恐怖の対象となり、賞賛の的でもある。彼女はただいるだけで世界に調和を齎す存在だった。彼女は特に誰かに指示を出すとか命令するとかではなく、ただいるだけで圧力となり世界を良い方向へ導いていく。目だった悪事などしてみればわかる。翌日の朝日は絶対に拝めない。その日の内に蒼の神罰が下り、すべての願いが無に帰すのだ。

 無慈悲かつ最強かつ中立――。マリアが死ぬまでの長い間、世界は彼女によって守られていたと言えるだろう。故に彼女はあらゆる意味で常人とは異なる生活をしていた。金に困ることはない。黙っていても金などどうにでもなった。仕事は金では請けなかった。彼女は信念にのみしたがっていた。

 アンセムはマリアを尊敬していたし、マリアもそんな気持ちを知っていた。だがそれだけにアンセムはいい加減耐えられなかったのだ。母の帰りを待ち、寂しく一人で膝を抱えているアテナをあやす事……。彼女が求めているのは親代わりにもなれない自分ではなく、れっきとした母親の彼女なのだから。


「先生、もう少しアテナの傍に居てあげることは出来ないんですか? 彼女は寂しがって居ます。貴方の愛情に飢えているんです」


「……そうね。きっとそう。判ってるわ」


「では何故!?」


「そう出来ない理由があるから」


「その理由は!!」


「教えられない。教えられたとしても――教えてあげない」


 悪戯っぽく笑い、マリアは唇に手を当ててアンセムを御した。この笑顔には――弱い。邪気の無い、子供のような笑顔で笑うのだ。かなり年上のはずなのに、若さは一向に衰える事も無く。もうじききっとアンセムは彼女の年齢を追い越してしまうだろう。

 子供の頃から十年連れ添ったというのに、歳を取らないマリア……。人間ではない――そんな言葉が脳裏に浮かんでいた。アンセムにとってマリアは母であり、姉であり、そして愛する人でもあった。その思いが彼女に届く事はなかったが――それでも構わなかった。


「わたしもね、もう少しアテナの傍に居てあげたいんだけどね……。でも、あの子は大丈夫よ。強いもの」


「先生は彼女の事をわかっていないんですね。彼女はとても寂しがりやなんです。それを悟られないように虚勢を張っているだけです」


「そう判ってくれている貴方が傍に居るから、わたしは安心して戦えるの」


 まるで言葉を先読みされているような――。気持ちさえコントロールされているようだった。アンセムはふと息を着き、肩の力を抜く。やはり、敵わない――。


「この辛い辛い世界の中で……あの子は生きていくの。ちょっと厳しいかもしれないけど、それに耐えられるだけの強さは必要だから。躓いた時、一人で立ち上がれるだけの力があの子には必要なのよ」


 真冬の玄関前に冷たい風が吹き抜けていく。蒼い髪を風になびかせながらマリアは微笑んでいた。彼女の考えは深く、深すぎるからこそ時に理解に苦しむ。しかし彼女の行いは全て結果的に世界を救ってきた。母のように彼女を見てきたアンセムだからこそ、その力を信じている。彼女を疑うつもりはない。だがもっと力になりたいと思うのだ。もっと心を開いて欲しかった。いつまでも子ども扱いされる――それを嫌がるのは男だからなのだろうか。


「さて、と……。そろそろアテナを拾って帰らなきゃね」


「――先生」


「ん?」


「俺は、先生の為なら何でもやります。困った事があったら何でも言ってください」


「ん、ありがと。先生は嬉しいぞ〜! 真面目な顔でそんな事言っちゃって、可愛いなあ♪」


 ほにゃっと柔らかく笑い、ニヤニヤと破顔したままアンセムの頭を撫で回す。その手を取り、不機嫌そうに一歩下がって咳払いするアンセム。いい加減、頭を撫でられて喜ぶような歳でもない。それに男としてのプライドもあった。


「はう……。そうやってすぐ逃げるんだから。先生寂しいよう」


「…………全く、貴方は人の話を何時も聞いていない」


「聞いてるよう。いつも、アンセムには助けてもらってるからね。一番頼りにしてるんだぞ、生徒クン」


 肩をポンと叩きアンセムの家に入っていくマリア。中でアテナが大騒ぎして喜んでいる声が聞こえてきた。ドアの隙間から中を見やると小さなアテナをマリアが抱きかかえ顔中キスの雨を浴びせていた。微笑ましい親子の光景である。だがアンセムは知っている。彼女は子供を抱きかかえるあの優しく柔らかな手で、幾千幾万という命を屠ってきたのだ。

 きっと、一筋縄ではない。だからこそ守りたいと思うのだ。孤児であった自分を育て、戦いを仕込み、今日まで共に歩んできた人だからこそ……。


「それじゃ、アテナはつれて帰るから」


「まるで託児所ですね、ここは」


「またそうやって意地悪言うんだから……。あ、そうそう! アンセム、これを上げるわ」


 そう言ってポケットから取り出したのは眼鏡の入ったケースだった。レンズには度が入っていない、いわゆる伊達眼鏡である。ちっちゃなアテナはマリアの足元で母の足にひしとくっつき、眼鏡を見つめていた。


「めがね?」


「うん、眼鏡! はいこれ貴方のだから返す」


「え、えぇ!? せ、先生……俺は別に眼鏡なんてかけてませんけど……?」


 アンセムの視力はむしろかなりいい方だ。眼鏡をかける必要はないし、かけていた事など今まで一度としてない。それはずっと一緒だったマリアが一番よく理解しているはずなのだが……。

 強引に押し付けられた眼鏡。仕方がないのでかけてみる。今までかけていなかっただけに違和感はあったが、別に馴れれば同という事もなさそうだった。だがこれがなんだというのか。


「そうしてるとインテリっぽいぞ、イケメン!」


「……インテリ……?」


「ママ、いんてりってなぁに?」


「んー……。こういう顔の人の事」


「おにいちゃん、いんてりなの?」


「そう、インテリ! インテリ、インテリ、いんいんてりてり♪」


「いんてりいんてりっ♪」


 二人は何故か仲良くアンセムの周りをくるくると周りはじめた。絶えかねて眼鏡をはずし、マリアの頭を鷲掴みにして眉を潜める。


「いい大人が何やってんですか……」


「ママをいじめるなあああっ!! はむはむ!」


「いてえっ!?」


「先生に手をあげるなあ! はむはむっ♪」


「大の大人が噛み付くんじゃねえ!!」


 手足に噛み付く親子を引っぺがし、アンセムは肩で息をしながら眼鏡を外した。まあ、くれるというのだからもらっておこう。師匠でもある人間からの贈呈品を無下にするわけにもいかない。ケースに入れたままの眼鏡をポケットに納め、アンセムは溜息を漏らした。


「それじゃ、そろそろ行くね。まあよろしく、アンセム」


「はい。アテナもまたな」


「うんっ! ばいばい、おにーちゃんっ!」


 遠ざかっていく二人はしっかりと手を握り合い、アテナは今日一日の事をマリアにずっと語り続けていた。母は優しく微笑みを浮かべながらマリアの話に耳を傾けている。二人を見送り――ふと、何となく寂しさが胸に去来した。馬鹿馬鹿しいと思う。だがあの二人と一緒に居ると――在り得ない家族という幻想を抱いてしまうのだ。

 部屋の中に戻り、ベッドの上に大の字で寝転がった。一人で寝るには大きすぎるベッドだ。昨日の晩はアテナに絵本を読んであげていたから狭く感じたものだが……いないといないでまた困ったものだ。


「アテナ……。先生……」


 そっと目を閉じる。寝るにはまだ早い時間だ。だが眠いものは仕方が無い。本能的な三つの欲求の内の一つに従い、アンセムは額に腕を当てながら眠る。そうしてふと思い立つ。ああ、これは夢の中なのだと。そう、もうあの二人の姿がここにあるはずもない。眠りに着くと同時に現実で目を覚ます。暗闇の中、アンセムはベッドの上に寝転がっていた。


「…………家出、とか書いてあったな」


 あの頃の若すぎた自分ではなく、力をつけた自分が今ここに居る。夢を夢だと知り、安堵したような寂しいような不思議な気持ちになった。窓辺に立つと、世界は夜中だというのに明るく照らし出されている。眠らない星――。そういえば自分も、アテナには隠し事ばかりのほったらかしだった。


「昔は先生のそんな態度に不満を覚えたりしたが……なんて事も無い、今度は俺がそんな事をしている。大人というのはどうしてこう、狡猾なのか……」


 あの頃の自分にも家出するくらいの気前の良さと子供らしさがあれば、マリアはもう少し自分を見てくれたのだろうか。アテナの泣きじゃくる姿が脳裏に浮かび、それを振り払うようにアンセムは枕元にある小さな引き出しから湿気た煙草を取り出した。


「俺もどうやら人の事はいえないみたいです、先生」


 子供の頃を思い出し煙草を咥えて火をつける。アテナが嫌がるから控えていた煙草も今日ばかりは意味が無い。しかしアテナの努力は確実に実っていた。ずっと放置していた煙草は――完全に湿気てしまっていたのだから。




Black smile(2)




「兄さんはホンッッットにどうしようもないわよねっ!!」


「うんうん……。黙って突っ立ってるのがクールだとでも思ってるんですかね! むしろそれってウールですよね!!」


 マキナの部屋の中、マキナとアテナはテーブルを挟んでやけにハイテンションに盛り上がっていた。そしてその傍らでは何故か全身を縄で縛られたラグナが転がっている。さて、この両極端な状況が成立した理由を知るにはしばし時を遡らねばならない。

 部屋にやってきたマキナとアテナの手には途中で購入してきたお菓子やらお酒やら、様々な飲食物が入った袋があった。家出しますと書いてしまった二人はやけにテンションがあがってしまったので、そのまま飲みなおす事になったのは別におかしな流れではない。あの真面目なアンセムが呆然としている様子を想像して二人は居ても経っても居られなくなり、大笑いしながら手を取り合ってその場で飛び跳ねた。作戦大成功とでも言わんばかりである。

 その時から既に二人のテンションは明らかにおかしかったのだ。追記すると、飲酒に関してこの世界では様々な法令が存在するが、それは街やコロニー単位での話なのである。この街では飲酒は十五歳からとされており、二人は十分法令に叶った年齢である事を明らかにしておく。

 そんなわけで二人はお酒を買い、おつまみを買い、部屋でテレビをつけて二人で飲んでいたのだ。二人とも既に上着は汚く脱ぎ散らかして床の上に放置してある。普段は仏頂面のアテナも、なにやら最近影を帯びていたマキナの横顔も、随分と明るく彩られていた。むしろ紅くなりすぎである。


「あの眼鏡とか!! 似合ってないっつ〜〜のっ♪ きゃははっ♪」


「あ! あっ!! あの眼鏡なんか一杯同じの持ってる感じですよね!?」


「そうよ。引き出しあけると同じのがズラっとしかもピッチリ揃ってるの!!」


「き、きもい〜っ!!」


「にゃははははっ」


「あはははははっ」


 完全に今時の女子のような会話になっていた。しかし同じ男の悪口で異様に盛り上がってしまうのは無理も無い事だったのかもしれない。二人は手を取り合ってはしゃぎ、次々にアルコールのビンやらカンやらを空にして行く。


「そういえば眼鏡持ってるですよう〜。えと、確かこのへんにぃ〜」


 既にろれつが回らないどころか足取りもおぼつかないマキナはよろよろとダイニングテーブルの上から眼鏡を取ってきた。それはアンセムが以前部屋に忘れて言ったもので、病室にあったものをこちらに持ってきたのである。それを着用し、マキナはキリっとした表情を浮かべた。


「アテナ……ちくわ買って来い……」


「意味わかんないわよ!! 私練り物嫌いだし!」


「一番マキナ! えっとぉ、アンセム先生の真似しま〜す! 車の運転! ぶうーんぶうーん、ぶううううん!! きゅるるるるるるるうううッ!! イナーシャルドリフトォッ!!!! だっしゃらあッ!!!!」


 その場で高速回転し、吹っ飛ぶように窓に向かって突っ込んでいくマキナ。窓ガラスに額を直撃させ、破片が突き刺さって血が飛び出る。しかしそれを見て二人は爆笑していた。割れた窓からは寒々しい風が吹き込んでいる。その風を受けて身震いするラグナ――。酔っ払った二人に何をするか判らないからという理不尽すぎる理由で縛られ、床の上に転がっているのである。こういうプレイが嫌いなわけではないが、これでは何も見えないし何も出来ない。生殺しもいい所である。


「ちょっと、お嬢さん、私にもやらせなさいよぉ」


「え〜」


「いいからよこしなさいってばぁ」


 片方のレンズが血に染まった眼鏡を引ったくり着用するアテナ。そして徐に両手を広げ、恍惚の表情で叫んだ。


「ロリコンで何がわるぅうううううううううういっ!!」


「おぉおおおおっ!! なんか言いそう!!」


「うっぷ……急に動いたら吐きそうに……っ」


「なんかぼくも頭から血が止まらない気がする……」


「「 けど、まあいっか 」」


 二人は同時に頷いた。それからもずっと下らなすぎる話をしながら酒を飲み続け――――。数時間が経過すると二人ともぐったりしていた。お互い椅子の上に死体のように座っている。マキナは両手をだらりとテーブルの下に降ろしたまま、顔面をテーブルに突っ込んで沈黙している。アテナはテーブルに突っ伏したままなにやらずっと何が面白いでもなく笑い続けていた。机の上ではマキナが出した血が固まり始めている。異常事態である。音しか聞こえないラグナは思わず身震いした。


「…………ねえ、お嬢さん」


「なんれす〜?」


「私……私、どうしたらいいのかな……」


 そっと顔を上げるマキナ。気づけばアテナは机に突っ伏したまま、震えながら泣いていた。マキナは目を細め、己の額に手を当てる。べっとりと血が指先についていて、それを見て少しだけ冷静になった。


「アテナさん……」


「どうすればいいのかは判ってるの……。でもそれだけじゃ生きていけないのよ……。寂しくて寂しくて……怖くて怖くて……。一人ぼっちなんだって感じる度に叫び出したくなる。どうして私、こんなにも惨めなのかしら……」


 本当はわかっていたのだ。全部忘れてしまいたかったのだ。お互いに辛い事が多すぎた。お互いに傷つけあいすぎた。だからこうして何もかも忘れたかったのだ。でも何故だろう? 忘れようとしても忘れられないのだ。本当に苦しいことはいつだって頭の片隅にこびりついて離れない。どんなに浮かれてみても、悲しみにくれてみても、忙しさの中でさえ必ず過ぎっていく。それを思い出すたびに腸が煮えくり返りそうな気持ちを抱え、ただ苦しみに翻弄されながら生きていく……。人とはどうしようもないものだ。誰かが自分を許しても、きっと自分が自分を許さないから。


「怖いよ……。寂しいよ……っ。誰か助けてよ……! 誰でもいいからっ!! 誰か助けてよっ!!!!」


 頭を抱え、アテナは叫んでいた。苦悩は精神を蝕み、錯乱にも近い状態にあった。呑みすぎた酒の影響もあったのだろう。マキナは激しく肩で息をしながら涙を流していた。


「私に優しくしてよ……無視しないでよ……。触ってよ……抱きしめてよ……っ!! どうして黙ってるの……。どうして私に何も言ってくれなかったの……っ!! 兄さん……兄さん、にいさんっ!!!!」


 顔を両手で覆い、アテナは啜り泣きを繰り返していた。力強く常にマキナの前にあり、常に誰もが憧れていた背中……それが今はとても小さく見える。マキナは立ち上がり、唇をかみ締めた。そのままテーブルの上に身を乗り出し、ずるずるとよじ登ってアテナの元までたどり着き、そこで何故か正座した。


「あのう、アテナさん……」


「………………?」


 ゆっくりと手を下ろし、ぼろぼろになった顔を見せるアテナ。それを前にマキナは何故か深々と土下座する。


「先に謝っておきます。ごめんなさい」


「え……?」


 それから身体を起こし、手を振り上げた。にっこりと微笑んだまま、それをアテナの顔に思い切り叩きつける。顔面を叩かれたアテナは吹っ飛び、テレビの前に倒れた。マキナはよろよろしながらテーブルから降り、アテナの傍らに立つ。


「ごめんなさい。でも、殴りました」


「マキナ……?」


「アテナさん……貴方は勘違いをしているだけです。貴方は一人なんかじゃない。貴方のさっきの物言いは、今まで貴方の傍に居た人との思い出を全て否定する事です。だから叩きました。意味がわかりますか?」


 アテナは頬に手を当てたまま目を潤ませていた。まるで母親にしかられて説教されている娘のようである。マキナはアテナの肩を抱き、優しく微笑んだ。


「貴方は一人なんかじゃないんです。きっとアンセムさんも、貴方の事を想ってる……。貴方が誰かを想うように、誰かがきっと貴方を想ってる。人は一人では生きていけない。それは逆に、今生きているという事は誰かが傍に居てくれたって事なんですよ……?」


「だれかが……そばに……?」


「今ここに居る自分を、そんなに否定しないで上げてください……。貴方がここに居るのは……誰かに願われている証拠だから。っていうのはまあ、受け売りなんですけど……。生意気言ってごめんなさい。ぼくのことも、叩いてください」


 きつく目を閉じ、歯を食いしばるマキナ。それもそのはず、アテナの力はハンパではないのである。本気で殴られたならば打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。冷や汗を流しながらマキナはきつく閉じた目を決して開こうとはしなかった。


「貴方を殴る資格なんてぼくにはないんです。でもきっと、誰かが今貴方を殴ってあげなければ貴方はずっと貴方を責め続けるから……。だから嫌いになってくれても構いません。貴方の為になるのなら」


「……マキナ」


「ひ、一思いにどうぞっ!!」


「――覚悟が、あるのね……。だったら遠慮はしないわ。マキナ・レンブラント――ッ!!!!」


 目を閉じた暗闇の中でアテナが動く気配を感じた。悲鳴を上げそうになる身体を反射で抑え、マキナは一層目を強く瞑った。しかしいつまで待っても鈍い痛みはやってこない。そっと、恐る恐る目を開いたマキナが見たのは――直ぐ目の前にあった潤んだアテナの瞳だった。

 アテナは両腕をマキナの首の後ろに回し、ゆるく抱きしめる。そうして目を閉じ、マキナの唇に己の唇を重ねていた。唖然とするマキナであったが――今これを拒む事は、きっとアテナの全てを否定する事になるのだろうと考えた。そう、アテナが求めているのは――恐らく、母の面影なのだ。

 優しくしてほしいのだ。構ってほしいのだ。抱きしめて、キスをして。頭を撫でて……優しく蕩けるような声色で甘く語り掛けて欲しいのだろう。母が子にそうするように、恋人が恋人にそうするように……。それは相手を求める事であり、受け入れる事でもある。人が連年と連ねてきた愛情表現の形……。アテナは飢えているのだ。きっと子供の頃から、誰かの愛に。

 マキナはアテナの胴回りに腕を回し、強く抱きしめた。そうして己も目を閉じ、アテナの唇を啄ばむ。二人は何度かそうして子供染みたキスを交わし、そっと目を開いた。相手に吐息が感じ取れる距離……。お互いの腕が離れてしまわない距離。アテナは潤んだ瞳から涙を零し、子供のような笑顔を浮かべた。

 そう、受け入れる事――。マキナはそうする事でアテナに愛情を伝えたのだ。それは立場が逆だったのかもしれない。それでもマキナは嬉しかった。誰かを支えられるという事――誰かをまだ守れるという事。脳裏に失った友の横顔が浮かび、どうしようもなく辛くなった。唇をかみ締めて涙を流すマキナを見つめ、アテナは悲しげに目を細めた。


「自分を責めてるのは……貴方だって同じじゃない」


「……だって」


「忘れ……られないの?」


「忘れられるわけなんかない……」


「そう……。だから……いいじゃない」


 マキナを床に押し倒し、アテナは熱を帯びた吐息と共にマキナの耳元で囁いた。背筋がぞくりと震えたのは悲しみの所為だけではない。アテナの艶かしい舌の動き……紅く彩られた唇の柔らかさ。思わずくすぐったくて身悶えてしまうような艶っぽさに胸の奥が熱くなる。


「忘れたくても……忘れられないわ。だから……どうせ……思い出すなら……。いいじゃない、忘れても……。忘れられる時だけ…………。刹那の間だけ……。それって逃避かしら……」


「…………逃避、ですね。ぼくは……そういう生き方は出来ません」


「そう……。そうね。貴方は強いわ。私も貴方みたいになれたらよかったのに……」


「アテナさん……」


 長い前髪に遮られ、表情は見えなかった。ただ頬を冷たく涙が伝い、アテナは唇を歪め微かに笑っていた。自嘲的な笑顔――。マキナは血に汚れた指で彼女の頬を撫でた。乾いた指先の血が涙と溶け合い、とろりと原型を取り戻し流れ出す。汚れた頬でアテナは肩を震わせ、また泣いた。


「うぅ……っ! うっく……ぅう……っ! うあああああ……っ!!」


「アテナさん……」


 居ても立っても居られず、マキナはアテナの身体を抱き寄せた。暖かかった。柔らかく、甘い香りが鼻腔をくすぐる。ずっとそうしていたかった。何故二人に分かたれてしまったのだろう。最初から一人だったなら、こんな気持ちにはならなかったのに。

 自分が辛いのより、誰かが辛いほうがもっと辛い――。それがマキナの気質だった。徹底した自己犠牲と己に対する厳しい妥協を知らない叱咤……。それはアテナが他人の愛に依存するのと何も変わらない。マキナは誰かを愛する事に飢えていたのだ。愛される事と愛する事は本質的に同じである。二人は別々の道を辿り、別々の結果を前に歩んでいる。それでも心の中は重なっていた。


「どうしたら……貴方を愛せるの……?」


「どうしたら……貴方に愛してもらえるの……?」


 身体を離し、二人は見詰め合った。お互いの涙を拭い、微笑みあう。そう、笑おう。涙を流しても意味はないのだ。せめて今だけでも笑わなければならない。そっと、優しく微笑んで。

 アテナはそっとマキナの額に唇をつけた。くすぐったかった。蒼い前髪を上げながら額に下を這わすアテナ。マキナの額は血に塗れていた。血だけではない、顔もである。アテナは身悶えるマキナの顔の血を丹念に舐め取った。時間にすればたかが数分の出来事、しかしそれは永遠にも等しかった。自分の血を拭い、舌で唇を舐めるアテナの動作にどぎまぎしながらマキナは片目を閉じて苦笑を浮かべた。


「アテナさんって……結構、えっちくないですか?」


 勿論冗談のつもりだった。しかしそれを真に受け――アテナはその場で声を上げて笑っていた。マキナもつられて笑い出す。二人して大声で笑い――それからお互いの髪をくしゃくしゃに撫で回し、床の上で抱き合ったままごろごろと転がった。そうして大の字に寝転がり――手を手を重ね、指を絡め、きつくそれを離さぬように結んだ。


「――ありがとう、マキナ」


「えへへ、どういたしまして」


「マキナ」


「はい?」


「…………好きよ」


「…………。はい――」


 この絶望に塗りたくられた世界で生きていくという事――。蒼と紅が重ねた手は固い絆を意味していた。迷いながらでも進んでいこう。還るべき場所なら此処にある。心は置き去りにして行こう。お互いを想う気持ちがある限り、例え修羅の道に落ちようとも――。地獄の底から見つけ出す。何度でも。何度でも。そう、何度でも――。

 繋いだ指先は離れない。二人はずっと、その手を強く強く握り締めていた――。


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