Siegfried(1)
マキナは拳をコンソールに叩きつけ、冷や汗を流しながら必死に頭を回転させていた。“何がいけない”――? “何が足りない”? ジークフリートの鎧の中、少女は苦悩する。蒼い騎士は確かに反応を示している。マキナ・レンブラントという人間に対して何かを訴えかけている。だがその最後の一欠けらが判らない。
ジークフリート起動実験をマキナが開始してから既に四日目。毎日こうして実験を繰り返しているというのにジークフリートが力をよみがえらせる事はなかった。確かにマキナが乗り込み起動を行えばフォゾンドライブが反応し、ERSも起動する。だが直ぐに動力が停止してしまい、機体は沈黙を守ったままとなる。一体何故なのか? その理由はスタッフ総出で探っているのだが、全く検討もつかなかった。
或いは機体の方に問題があり、ライダーには無関係な事なのかもしれない。機体に不備があり、動かないだけなのかもしれない。だがマキナだけはその可能性の中で揺らぎながら確信していた。悪いのはジークフリートではない。自分の方に原因があるのだと。
ジークフリートの中に居るだけで凄まじく体力を消耗してしまう。マキナはシートに深く背中を預け、深く息を吐いた。特殊な形状のコックピットという事もあり、不慣れさは未だに拭う事は出来ない。考えても考えても騎士は動かなかった。少女の表情には明らかな苛立ちの色が募っていた。
結局実験は中止され、マキナはいつも通りふらふらになりながらコックピットから降り立つ。長い髪を揺らし、ぶつぶつと独り言を漏らしながら歩くその傍らにアポロが駆け寄り、マキナと共に格納庫をぴょこんと跳ねた。マキナは蒼い瞳を翳らせながらずっと考え込んでいた。思いつめていたと言ってもいい。今のマキナにとってジークフリートは絶対に必要な力だったから。
レーヴァテインと呼ばれたあの恐ろしい怪物を叩きのめす為にはどうしても新しい力が要る。カナードやヴォータンでは話にならないのだ。カラーズ級の性能を持った機体が絶対に必要になる。それでも足りないくらいかもしれない。ならば世界最強と呼ばれた蒼のジークフリートを置いて今の自分に相応しい剣は在り得ない……。マキナはそう考えていた。
わざわざそれを動かす権利をくれるというのだから、それに乗らない方がどうかしている。別に自分の境遇だとかその後の事だとかはどうでもよかった。興味の範疇にないのだ。あるのはただ如何にしてエトランゼを殺すかという事だけ。殺伐とした思考は少女から無邪気な優しさを奪い去り、ただその表情に暗く薄く塗りたくったような殺意だけを顕現した。
「――アルティールに戻ってくるのは半年ぶり、ですね」
港から出た広場に立つ白いチャイナドレス姿のリンレイの姿があった。ちなみにそれは彼女の私服である。シュトックハウゼンが補給を受ける間その作業の引継ぎを終えたリンレイは自由行動中であり、久しぶりのアルティールの空気に懐かしく目を細めていた。
しかし、休日だからといって特に何かやる事があるわけでもない。シュトックハウゼン隊にも親しい間柄の仲間はいるが、後退で面倒を見なければならないので一緒に行動するわけにもいかなかった。何よりこのアルティールには様々な思い出があり、メランコリックな気持ちが彼女を一人にさせたのだ。
ゆっくりと靴を鳴らして歩き出すアスファルトに囲まれた街。作り物の世界――。しかし守るだけの価値を持つ世界。だからこそ戦ってきた。ふらりと懐かしさに誘われるように向かったのは蒼穹旅団のギルドルームだった。303号室は今は空室になっており、あの頃の面影は残っていない。
暫くの間そこで思い出に浸り、意を決したかのように歩き出した。向かう先は一年前、彼女が背を向けて逃げ出してしまった病室――。マキナ・レンブラントの病室であった。一時期は面会謝絶の掛札が風に揺れていた扉は今は開け放たれ、ベッドの上にはマキナが腰掛けていた。リンレイは少しの間息を止める。それは彼女の時が止まった事でもあった。ふと、マキナが顔を上げた。あの頃とはすっかり変わってしまったマキナの蒼い瞳がリンレイを映し出し、微かに揺れた。
「……そうなんだ。じゃあ、あの後直ぐにシュトックハウゼン隊って所に……」
「旅団が無くなって気づいたんです。成り行きで入ったギルドでしたが、私にとってもあそこは大事な場所でした。マスターが居なくなった後も何とか貴方が目覚めるのを待とうと旅団を持たせようとしたのですが……。ギルド成立の最低人数も、揃わなくなってしまいましたから」
部屋にやってきたリンレイをマキナはぎこちない笑顔で迎えた。それは恐らくはリンレイに対する強い罪悪感からだろう。他の人間に対する強い拒絶と同等のものを彼女にも抱いている。だが一年前、自分がヴィレッタとニアを守れなかった所為で旅団がなくなってしまったのだと考えているマキナにとって今の二人は被害者と加害者の様相に他ならない。
白く、清潔だが味気なく生き物の気配を感じさせない病室だった。椅子の上に腰掛けるリンレイの正面、マキナは窓の向こうに視線を向けながらベッドの上で風に吹かれていた。懐かしい話もあれば、お互いに報告しなければならない事もある。だがマキナの心は重く、言葉を発する事を拒絶していた。リンレイはここに来る途中に購入した花を何も生けられていない花瓶に生けながら苦笑を浮かべた。
「マキナ、ごめんなさい。あの時もっと私たちが貴方を早く見つけていれば……或いはニアの命は救えたのかもしれません」
「…………。やめてよ。悪いのはわたしなんだから」
「マキナ……。あまり、思いつめないで下さい。貴方は少なくとも最善を尽くした……そうなのでしょう?」
「最善を尽くしたって何も守れなかったら意味ないよ。気持ちだけじゃ何も出来ないんだ……。残された現実だけが全てで、それに対して出来る事なんて何もない……」
「――――。変わりましたね、マキナ」
「変わらない物なんてないよ……。リンレイがシュトックハウゼン隊に居るように。一年って短いようで長いんだね。人を変えてしまうには、余りある時間だよ」
突き放すような物言いのマキナにリンレイは何も言えなかった。生けられた鮮やかな青色の花もこんな空気の中では寒々しいだけだ。白い部屋の中に現れた彩は今は意味を成さないのかもしれない。リンレイは俯き、それでも顔を上げる。
「話は聞いています。ジークフリートのテストライダーに志願したそうですね」
「……志願っていうか。やれって言われて。でも丁度いいから……志願なのかな。よく知ってるね。まだ公表もされてないのに」
「上官がカラーズですからね……。ジークフリートに関するデータはこっそり閲覧しました。危険な機体ですね――とても」
「……止める?」
「…………そんな事を出来る権利、私には無いでしょう?」
「そうだね」
「それでも友達を心配する権利は……まだ、残っていると信じています」
マキナは初めて顔を上げ、リンレイの顔を見た。リンレイは今にも泣き出しそうな不安げな表情でマキナを見ていた。マキナは長い前髪で表情を隠したまま暫くの間黙り込み、それからゆっくりと立ち上がった。
「…………皆優しいね。こんなわたし相手に、そうやって辛そうな顔してくれるんだからさ」
「マキナ……」
「ごめん……。今のわたし、多分凄く嫌な奴だね。傷つけるような物言いしか出来ないんだ……。多分凄く訳わかんなくて頭の中ゴチャゴチャで、だって一年経ってるとかニアが死んだとかヴィレッタ先輩が行方不明とかジークフリートとか言われてさ、落ち着けって方が無理でしょ」
「そうですね。だから……いいんです。傷つけても、いいですよ。もっと鋭い言葉で……接してくれて構いませんから」
優しく語るリンレイの言葉に酷く惨めな気持ちになった。周りの気持ちは判っているのにそれに応えられない自分……。単純に勇気がないのだ。あの頃のように振舞うにはただただ後は勇気だけである。どうすればいいのかなんて考えるまでもないのだ。どんな悲劇がマキナ・レンブラントの心を壊そうとも彼女の本質は消えたりはしない。ただ優しく朗らかに太陽のように人々を包み込む彼女の優しい本質は決して変わらないのだから。
自分に寄せられる期待が重く胸を締め付け、信じてくれる仲間たちの言葉が胸に鋭く突き刺さる。意図したわけでもなく涙が零れ落ち、頬を伝って床にはじけた。リンレイはそれを見てつられて泣き出しそうになった。マキナの苦しすぎる胸の内を、彼女だって痛いほど判っていたから。
「笑えないんだよう……。どんな顔をすればいいのか判らないの……。もう死んじゃえたら楽なのに……」
「…………貴方はまだ死ねない。貴方を苦しめる為に、ニアは貴方を命懸けで助けたわけではないのだから」
「リンレイ……」
「直ぐには無理ですよ。私だって立ち直るのには半年かかりましたから。でも貴方は私とは違う。貴方はいつだって困難を前にそれでもはいつくばって進んできたでしょう? 意地汚く偽善を掲げて敵の為に涙を流しながら貴方は戦ってきた。そんな貴方だからこそ、きっと出来る事がある」
マキナに歩み寄り、その両肩に手を添える。そしてそっとマキナをベッドの上に座らせ、リンレイは優しくあやすように微笑んだ。マキナは長い前髪の合間から上目遣いにリンレイを見上げ、それから悔しそうに目を瞑った。
「正直、私も貴方にどんな風に接すればいいのか判りません。貴方の抱えている心の傷は深く、それを誤魔化せない真っ直ぐな貴方だからこそ辛い気持ちから抜け出すのは難しいでしょう。それでもずっと信じています。ただ貴方を信じる人間がまだ残っているという事だけ、心の片隅に留めて置いてください」
「…………ありがとう」
「――――マキナ、言い忘れていました。貴方が目覚めてくれて……本当に良かった。ありがとう、マキナ。生きていてくれて」
マキナを抱きしめ、リンレイは囁くようにそう告げた。マキナはリンレイの腕の中、涙を流しながら静かにその温もりと鼓動に包まれていた。生きていてくれてありがとう――。それはきっと、マキナの方のセリフでもあった――。
Siegfried(1)
「ジークフリートって……何なんですか?」
格納庫に眠り続けるジークフリートの前に立つアテナとアンセムの姿があった。アテナの問いかけには様々な意味があった。その余りにも規格外すぎるジークフリートの存在を考えれば、当然過ぎる質問でもあったのだが。
ライダーを選ぶ最強の機体――。しかし最強とは言え五十年以上前の機体なのだ。今更これが目覚めたところで一体なんになるというのか。ブリュンヒルデをはじめとするカラーズ機は確かに長い歴史を持つが、全てバージョンアップを繰り返した機体である。見た目はあまり変化していなかったとしても、その中身はまるで別物。最新鋭の機体としてリニューアルされ続けているのである。
それに対し、ジークフリートは以前のブルーが乗っていた時代から一切手を加えられる事無く――厳密には加える事が出来ず――今になって再起動という手順である。最強を維持する為に涙ぐましい努力を重ね続けてきたカラーズ機の中で、更に最強と呼ばれるこの蒼のジークフリートが目覚めたとして本当にその伝説の力を発揮してくれるのかどうか、それは正直怪しい所である。
そう考えているのはアテナだけではなく、起動実験を実際に行う研究スタッフの中には何ともいえないムードが広がりつつあった。こんな事をしても無駄なのではないか――? そう考えてしまうのも無理はない。フェイスの上層組織であるセブンスクラウンが秘密裏に進めている計画ゆえにそれに反論することは誰にも出来ないが、内心モチベーションが低下しているのは言うまでも無い。
マキナを乗せた途端出力があがり、良い傾向に傾き始めたのは事実だ。だがその興奮や感動も直ぐに途切れてしまう。結局の所動かないという結論は変わらないのだ。反応がアテナより強かったというだけで、だからどうというわけでもない。
「ライダーを選ぶFAなんて……それは本当にFAなんでしょうか」
「…………。そもそも、FAについて人類はどれくらいの事を理解しているのか知っているか?」
FA――フロウディングアーマー。その技術が初めて歴史上に姿を現したのは五十年以上前のことである。それから今日に至るまで様々なFAが開発され、戦場に投入されてきた。新型が次々と生み出され、その技術は確かに向上し続けている。だがしかし、FAの作り方を知るものは限りなく少ない。
「FAの重要な要素として挙げられるのは、フォゾンドライブ技術だろう。だがそのフォゾンドライブというものが何なのか、お前は知らないだろう」
フォゾンドライブ――。いわゆるエーテルを循環させる機能を持つ装置の事である。地球上に新たに出現した謎のエネルギーであるエーテルを人間が使えるフォゾンに変換し、同時に動力とする装置……。だが、フォゾンドライブがあったからこそ今日の発展があったと言っても過言ではない。
「そもそも、FAは人間の技術で作られているのか……それが問題だ」
「……どういう、意味ですか?」
「ジークフリートは世界初のFAだった。そして全てのFAの系譜における始祖でもある。現在出回っているFAは全てがジークフリートの劣化コピーだと言えるだろう」
まず、世界に始まりのFAであるジークフリートが存在した。それを模して作られた五機の機体――。“ブリュンヒルデ”、“ローエングリン”、“タンホイザー”、“ヴァルベリヒ”、“クルヴェナル”が製造された。
五機のFAは文字通りジークフリートの模造品であった。五つの機体にはそれぞれジークフリートが持つ五つの力を模した能力が与えられ、それぞれの分野において特化した能力を持つFAとして完成された。それぞれの機体が持つ能力――五色の色にて表現される能力は全てがジークフリートより分け与えられた能力なのである。
そして本来その全ての力を宿していたジークフリートは力を封じられ、分割された能力により今のジークフリートが存在する。故に現在のジークフリートは六分割されて残った最もジークフリートらしさを残した面であり、元々全てが一つだった頃のジークフリートはジークフリートという名ではなかったのかもしれない。
生み出されたカラーズ機は六機、それぞれを更に人は模造した。模造の段階を繰り返す毎にその精度は劣化していく。結局現在におけるFA技術の進歩は製造技術の進歩ではなく、模造技術の進歩なのである。より上手にコピーが出来るようになった――そしてそれを少し改良出来るようになった。ただそれだけの事。
「…………。それは、どういう……」
「我々が使っているエーテルだのフォゾンだの言われている物も、そこからくる技術も……全ては人類の手には余る代物だ。人はまるでそれを我が物かのように扱うが、実際はそうではない。我々が過ぎたる力に操られているだけなのだ」
「確かに……。何もわかっていないのかもしれませんね、私たちは」
アテナは深々と溜息を漏らし、じっと蒼の機体を見上げた。かつて母が乗っていた機体……。今は母に良く似た少女が乗っている機体……。寂しさだけが胸の中に立ち込めていた。アテナは静かに息をつく。何も考えたくはなかった。考えれば考えるだけ、寂しさが募っていくだけだから。
「結局、何も判らない……そういう事でしょ」
「ああ」
「尚更……これを信じていいのか」
「信じるさ」
アンセムは眼鏡を押し上げ、ジークフリートを見上げる。その迷いのない真っ直ぐな横顔を見つめ、アテナは眉を潜めた。
「少なくとも私は信じている。信じ続けるさ」
「………………私は、信じられません」
「だろうな」
無言の時間が続いた。やがてアンセムは踵を返し、その場を去っていく。取り残されたアテナはやりきれない思いを胸に抱えたままじっと蒼を見上げていた。その瞳に移りこんでいるのは蒼ではなく、あの日自分を捨ててどこかへ行ってしまった母の背中だったのかもしれないが――。
「――おぉ、誰かと思えばアテナ君ではないか!」
「…………ザックス?」
あまり聞きなれないが馴れ馴れしく張りのあるこの声を忘れるはずがない。ゆっくりと振り返ったアテナの視線の先、歩いてくるザックスの姿があった。二人はカラーズ同士という事もあり、面識は当然あった。しかしアテナはあまりザックスにいい印象を抱いては居ない。
「いやぁ〜、大きくなったなあ! うん、うん! 少し見ない間に乙女になってしまったものだ。私が前見たときはこんなちっちゃかったのになあ」
「それ、いつの話ですか……。というか、毎回言ってるけどそうやって頭滅茶苦茶に撫で回すのは止めて下さい」
「おぉ、すまんすまん。いや〜でも本当に大きくなったなあ。何歳になったんだね?」
「十九です」
「十九っ!? ハッハッハ、もう子供も生めるなあーっ! ハッハッハッハッハッハ!」
何ともいえない青ざめた表情を浮かべて肩を落とすアテナ。豪快に笑い飛ばすザックスだけが楽しそうなのであり、アテナは全く楽しそうではない。ザックスはライダーとしては優秀な男だし、部下の面倒見もいい。頭もキレるし文句なしの実力者なのだが、この馴れ馴れしい性格には幼い頃から辟易させられてきたものだ。
「子供は要らないわよ……。辛いだけだもの」
「む、そうか? 家族はいいぞ〜! そうだ、うちの娘なんだがね、もう十九になって随分とまあこれが可愛くてだな! っと、そういえばアテナ君と同い年か……。なんだかそう考えると若干興奮しないでもないな」
「…………。娘さんをどういう目で見ているんですか」
「嫁に似てきて可愛すぎて困る! いつ襲ってしまうかハラハラものだからな、任務であちこち飛ばされるのは丁度いい! ハッハッハ!!」
最早何も言うまいと心に固く誓い目を閉じたアテナ。しかし、シュトックハウゼン隊としてあちこちを転戦しているザックスが何故こんなところでのんびりしているのか。疑問は直ぐに解決した。当然、補給の為にアルティールに立ち寄ったからである。しかし理由はそれだけではなかった。
「ジークフリートを一目見ておきたかったものでな。ところで噂のレンブラント君はどこかね?」
「マキナなら……会わないほうがいいと思いますが」
マキナに強く拒絶を示されてからはずっと気分が重く、アテナはそのことを思い出すだけで死にたいような気分になってしまうほどである。あれから気まずくてマキナのところには顔も出せないし、何一つ声をかける事もなかった。近づけばまた拒絶され、傷つくだけかもしれない……そう考えると全てが馬鹿らしく、そして恐ろしかった。
「ん、そうなのかね? せっかく久しぶりに会えるのだから挨拶くらいはしたいものなのだが」
「――――? 久しぶりに、会える?」
首をかしげるのも無理はない。マキナとザックス、二人の間にどんな関係性があるというのか。マキナはただのライダーに過ぎなかったし、目覚めるまでの間は誰とも口を利けない状態にあったはず。ザックスがマキナと知り合いなのだという話は聞いた事もない。
「マキナを知ってるんですか?」
「ん? ああ、まだ彼女がちっちゃかった頃に、マリアに連れられてな」
マリア・ザ・スラッシュエッジ――それはアテナの母の名前である。それが何故マキナと関わっているのか。いや、ずっと前から薄々感づいていた事だ。ただそれを認めたくなかっただけに過ぎない。誰もそれを口にはしなかったし、あえてそれを訊ねる事もしなかったというだけの事……。
「母が……どうかしたんですか?」
訊いてしまった。何気ない質問だった。だがアテナにとっては勇気の必要な第一声だった。ザックスは腕を組み、何故か少しの間考え込んだ。それからアテナの頭をわしわしと撫で回し、頷く。
「そうか……。アンセムの奴、さては何も話していないと見える。まさか他のカラーズの方が君たちに詳しくて君たちは何も知らないとはな。皮肉なものだ」
「え……?」
「残念ながらそれは私の口から言うべき事ではないらしい。アンセムが自分の口で告げねばならない事だ――が、どうにもおせっかいなのでな。アンセムはどこにいる? 少し話をしなければならんと見える――」
そう語るザックスは今までとは打って変わって真剣な表情を浮かべていた。それだけに彼がマキナとアテナ、二人の事を真面目に考えているという事が伺えた。そう、ザックスにとって二人はそれこそ娘のようなものなのである。赤ん坊の頃から知っている相手なのだ、決して他人事ではない。それにアンセムもまた彼にとっては他人ではない。となれば、お節介を焼いてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。
ザックスに続き、アテナもまた歩き出した。男の背中を見つめながら歩くアテナは酷く不安気な様子だった。何か、とんでもない事を口にしてしまった気がした。知らなければすむことならば、もう知らない方が良かったのかもしれない。知る事が幸せだとは限らない。アンセムが自分に隠している事があるのだとすれば――そのまま騙され続けた方がいいのかもしれない。
だがもう止まらない。ザックスは強引に押し進んでいく。これは長年、アンセムと言葉を交わさなかったツケなのかもしれない。何となく、アテナはそんな事を考えた。そして直ぐに理解する事になる。自分が恐れていたことの意味、そしてその真実を――。