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Etranger(1)

『フォゾンドライブ始動。ERS認識問題無し。“ジークフリート”、起動実験開始――』




 アルティールから遠く離れた宙域を漂う一隻の軍艦があった。白い船体は太陽の光を浴びて闇の中でも輝きを失わずに居る。エーテルの光を淡く纏い、きらきらと輝きながら進行していた。

 フェイスの調査用汎用母艦“シュトックハウゼン”……。実戦配備されてまだたったの三ヶ月と、未だに人の匂いには馴染まない鋼鉄の塊の中には多くのフェイスたちが仕事を進めていた。彼らの仕事はある対象の調査――および、その殲滅である。

 多くの場合最前線に出る事はなく、比較的安全な職場と言えた。艦橋には様々なケースに対応出来るようにと超一流のスタッフが集結しており、その腕利きのオペレーターたちの中でリンレイ・F・アルカルもまた仕事をしていた。紅いフェイスの制服に身を包み、今日も領域の探索を続けている。

 彼女はこのシュトックハウゼンが実戦配備されて直ぐにここへと配置された。そしてそれから一度もアルティールには戻っていない。シュトックハウゼンの居住区の住み心地は抜群である。特にここでの生活に文句はなかったし、不備もあるはずがない。だがしかし一つだけ気になる事があるとすれば――。


「――皆、おはよう! 今日も張り切って仕事してるかね!?」


 扉が開き、この船の指揮官が姿を現した。緑色の髪をオールバックで固めた中年の男である。その顔つきはへらへらとしてはいるものの、基本的には強面である。生えたら生えっぱなしの無精髭とクッキリとした眉毛が印象的な筋肉質な長身の男であった。咥えているのは湿気た煙草であり、何度艦橋で吸うなといっても吸ってしまうので乗組員は半ば全員注意するのを諦めていた。そう――リンレイただ一人を除いて。


「艦長?」


「おぉ、リンレイ君。今日も可愛いねえ」


「じゃなくて」


「……煙草だね、うん。判っているとも、ああ。消すよ、消すよ。ほら、消した。これでいいかい?」


「最初から消してきてくださいね、ザックス・ノウマン艦長」


 ザックス・ノウマン――。彼の肩書きはフェイスの教員、そして現在の“カラーオブグリーン”。“城塞の森キャッスル・オブ・フォレスト”と呼ばれる翠の座に着く男である。この船には勿論、彼の機体である“ローエングリン”も積載されている。グリーンの上着を肩からかけ、腕を組んでいるザックスはリンレイの指摘に暫く笑っていたが、突然真面目な表情に切り替わって宇宙の彼方を見つめた。


「調査の方はどうなっている?」


「今の所活発化する予兆は見られませんが……いつ動き出してもおかしくはありません」


「“エトランゼ”か……。まあ、こればかりは奴さんの気分次第、我々にはどうしようもない。引き続き観測を続けてくれ。何か問題があれば、即座にフェイスに連絡する事」


「承知しています」


「まあ、それはそれで……リンレイ君、君は確か蒼穹旅団の一員だったね?」


「え?」


 そう、確かにリンレイは蒼穹旅団の一員であった。しかし旅団があったのはもう一年も前の事になる。あれからはがむしゃらに努力を続け、出来るだけ嫌な事は考えないようにしてきた。

 ニアが死に、マキナが意識不明になり、ヴィレッタは行方不明になった。カナル上を漂流していたマキナを救出したのはほかならぬリンレイとオルドであった。あの日、タルタロスの爆発の直後から二人はずっと居なくなったメンバーを探していたのだ。だが見つける事が出来たのはマキナだけであり、ニアは既に息を引き取っていたしヴィレッタについてはどうなったのか見当もつかない。

 “全滅”と、そう表現する事に何の違和感も覚えないような悲惨な状況。結局旅団はその状態を維持出来なくなり、解体となった。それからはこうしてただのフェイスの一員として今日まで戦い続けてきたのである。

 旅団の話に俯くリンレイ。その様子を見つめ、ザックスはリンレイの肩を叩いた。そして真っ直ぐにリンレイの目を見つめて告げるのだ。


「意識不明だったマキナ・レンブラントが目を覚ましたそうだ」


「――――えっ!? ほ、本当ですかっ!?」


「うむ。リンレイ君は確か、もうずっと休みもとって居なかっただろう? 次にアルティールに寄った時は、少し休んでくるといい。君はそうでなくても随分と働いてくれているからね」


「…………ありがとうございます。でも……少し考えさせてくれませんか?」


 正直、今の自分がマキナに会った所でどんな顔をすればいいのか判らなかった。マキナは一年後の孤独な世界で目を覚ますのだ。傍に居てあげるのが仲間として当然の事だと思う。しかし、今は正直マキナの事に構っていられるほどの余裕もなかった。

 マキナはきっと、失意のどん底に居る事だろう。だがそんなマキナにかけられる言葉をリンレイは持ち合わせていない。彼女もまた、あの日の心の傷が癒えているわけではないのだ。誤魔化すために仕事に打ち込んでいるものの、マキナと相対すればあの日の気持ちがよみがえってしまう事だろう。


「今の私では、多分マキナにして上げられる事なんて何もないと思うんです……」


「…………。いや、何も強制するつもりではないのだ。君がそういうのであれば、私は干渉せずにいよう」


「ありがとうございます……」


「だがそれとは別に休みはとりたまえよ。身体を壊してしまっては、元も子もないからな」


「……そうですね。すいません」


 優しく笑いながら何度か頷いてみせるザックス。そうして腕を組んだまま顎の髭を弄り、目を瞑った。


「アルティールといえば、ジークフリートの起動実験が始まっていたはずだな」


「カラーオブブルーの遺産……英雄のFA、ですか」


「最早この状況では、フェイスもカラーズ機を遊ばせておく余裕はないのだろうな。まあ、あれはそういう問題の機体でもないが――。何はともあれ、しっかり頼むぞ」


「艦長、どこへ?」


「決まっているだろう? ――――喫煙所だ!」




『フォゾンドライブ安定しません。エネルギー循環率7%……。ERS接続失敗』


『最初からやり直しだ』


『駄目です。シグナル拒絶――。ジークフリートの封印解除に失敗しました。依然覚醒レベル1のまま小康状態です』


『…………。やはり、か。実験中止。ジークフリートの全システムをカット』


 通信を聞きながら暗いコックピットの中、項垂れるアテナの姿があった。操縦桿を握るその手は震えていた。ジークフリートは彼女の呼びかけに応えない。まるで娘を拒絶する母親のように――その事実はアテナの胸に鋭く突き刺さった。


『アテナ、聞こえたな』


「………………はい」


『実験再開までは待機だ。追って連絡する。少し、休んでおけ』


「………………はい」


 乾いた音が更衣室に響き渡っていた。ジークフリートを降りたアテナは更衣室に入り、自らのロッカーに拳を減り込ませていた。一撃で酷く湾曲したロッカーに自分の力の強さを痛感する。奮える拳を握り締め、アテナは悲痛な表情で目を閉じた。

 こんなにも力があるのに。この為に今日まで努力してきたのに。ジークフリートは応えない。アテナという存在が自らの操り手と成る事を固く拒んでいた。その事実がアテナを日に日に追い詰めていた。ジークフリートが目覚めない――。それは、自己の存在の否定に他ならない。


「どうして私を認めてくれないの……? ママ……」


 そうしてアテナはきっかり二分間だけ泣いた。直ぐに気持ちを切り替えて着替えを済ます。紅いカラーズ専用の制服へと着替えを済ませ、更衣室を後にした。

 ジークフリートの起動実験が始まってから既に一週間――。長年その蒼の座が空白でなければならなかった理由をアテナはまざまざと見せ付けられていた。蒼の座と呼ばれ、全ての機体の頂点に立つといわれる最強のスペックを誇るFA、ジークフリート。かつてカラーオブブルーが操り、この世界を救った英雄の剣……。しかしそれは特殊なERSと認証システムによって封印されていた。その詳細は一切不明……。五十年以上前に作られた機体のはずなのに、その封印は現在の科学力を以ってしても難解であり、何人たりともジークフリートを動かす事は出来なかった。 

 誰にも動かせないジークフリート……。それは彼の機体が自らの担い手に相応しい人間が現れるまで動かないという意志を持っているかのようでさえあった。フェイスは長年、その蒼の座に収まる人間を探し続けてきたのである。だがしかしその候補筆頭であった少女は一年前に意識不明になり、つい数日前まで眠り続けていた。

 業を煮やしたフェイス側は少しでも可能性のある人間を使ってのジークフリート起動実験を行ってきた。長年空席であった蒼の座を復活させる計画は既に発動している。その一端として、ブルーの血縁者であるアテナに声がかかるのは当然の流れであると言えた。

 廊下を早足で歩きながらアテナはずっと考えていた。自分の何がいけないのか? 何がジークフリートに拒絶されているのか? たった一人の人間にしか動かせない機体などあってなるものか。所詮ジークフリートもFA、ただの兵器なのだ。誰にも動かせない最強の兵器などあってはならない。兵器は人に運用されて初めて意味を成すのだから。

 ふと、気づいてアテナは顔を上げた。特に意図したわけでもないのに彼女の足はとある病室に向かっていたのである。そこはマキナ・レンブラントが一年間眠り続けた場所。そして今も尚、閉じこもっている部屋であった。アテナは扉の前で少しだけ悩み、深呼吸をしてから部屋の中へと踏み込んだ。

 部屋の中、白いベッドの上に蒼い髪の少女が座っていた。白いワイシャツを着て、長く伸びた髪は開け放たれた窓から入り込む風に揺れていた。少女は来訪者の方へと目を向ける事もなく、まるで彫像のように微動谷せず呼吸だけを繰り返していた。


「…………ずっとここに閉じこもっていてもしょうがないわよ、お嬢さん」


 声をかけながらアテナは少女を見つめた。少女――マキナ・レンブラントは長い前髪の合間から生気の無い瞳でゆっくりとアテナを見つめた。それから直ぐに興味を失ったかのように視線を逸らしてしまう。ベッドの傍らには白いうさぎが丸くなっていた。うさぎはずっと、彼女の傍に居た。うさぎがベッドから飛び降り、アテナの足元に座る。まるで何かを訴えかけているかのようだった。


「死んでいるのか生きているのかハッキリしなさい。食事も――受け付けないなんて。それじゃあただ死ぬだけよ」


 ベッドの傍のテーブルには昼食が手付かずの状態で放置されていた。マキナは目覚めてからまだ一度も何も喉を通していない。ただ、項垂れたままぼんやりとしているだけだった。彼女の命を繋ぎとめているのは今は細いいくつかの管だけであり、点滴が途切れてしまえばやがて彼女は死んでしまうだろう。

 その身体は痩せ細り、一年間の行動不能はマキナからあらゆる物を奪っていた。時間、友、体力――。数え上げればキリがない。日記の白紙のページは大きく開き、今は続きが記される事もなく埃を被っている。


「死ぬつもり?」


「………………」


「こっちを見なさいっ!!」


 歩み寄り、マキナの胸倉を掴んで強引に自分の方へと顔を向けさせる。マキナは何の表情も浮かべては居なかったし、その目は虚空を捉えていた。まるで人が変わってしまったようなマキナの様子にアテナは耐え切れず、唇をかみ締めた。湧き上がる感情は怒りが五割、悲しみが五割……。何とも言えない、自分ではどうしようもない絶望的な感情だけがそこにはあった。


「いつまでそうしているつもりなの……! そんな事していても誰も貴方を助けに来たりなんかしないのよ!」


「…………」


「……そうやって、ニアに救われた命を無駄にするつもりなのね」


 その言葉に初めてマキナが反応を見せた。目を見開き、それから直ぐに静かになる。悔しそうに表情を歪め、悲しいくらいに力なく涙を流す。そうして嗚咽を漏らしながら俯くマキナから手を離す。少女はベッドに倒れこみ、そのままずっと泣いていた。アテナは額に手を当て、歯軋りする。もう一年前、太陽のように笑っていた少女の面影は一欠片さえも残ってはいなかった。

 ふと、足元にもこもこした感触があった。視線を向けると、うさぎがアテナの足に擦り寄っていた。白いうさぎを抱き上げ、その頭を撫でる。うさぎは耳をぴょこぴょこと上下させ、それからベッドの上に飛び乗った。


「う……っ。うぅ……っ」


 マキナはずっと泣いていた。その涙は枯れる事を知らず、枕をぬらし続けている。そんな主を案じるように、うさぎはそっとマキナの傍に座り込んだ。見るに耐えない様子にアテナは踵を返し、部屋を飛び出す。そうして再びやるせない思いを壁にぶつけるのであった。




Etranger(1)




 夜中に、悪夢で目が覚める――。あの日、失ってしまった物……。それは友達や時間だけではない。マキナの心の中にあった勇気や前向きな気持ち、優しさや、誰かの為に努力する純粋さ――。マキナ・レンブラントらしさとでも言うのだろうか。そうしたものが全て失われ、少女はもはや以前とは別人だった。

 ただ涙を流し、流し続けた。夜中に目が覚め、眠れるまでの闇の中で震え、怯えた。窓の向こうにあの化け物が居るような気がして怖くて仕方がなかった。気づけばニアの事を考えているのに、死んでしまった事実を思い返した瞬間頭の中に血まみれのニアが浮かび上がってしまう。気が狂いそうなくらいにそれが恐ろしく、布団の中にもぐりこんでみたり、枕を抱いてみたり、アポロとくっついてみたり、恐怖をやわらげる為にはなんでもやった。しかしそれが払拭される事はなかった。

 マキナの意識の中で時間は永遠と等しく、そして一瞬と同義であった。ただひたすら毎日に怯えた。明日が続いている事が恐ろしかった。いっそのこと死んでしまおうかと何度も考えた。だがそうすることも出来なかった。死が恐ろしかったわけではない。理由はマキナにもわからなかった。

 やがて何人か見舞いに人がやってきたが、マキナは一切反応しなかった。誰もが少し困ったような表情で少女に気を使い笑顔をつくろっていた。マキナはもう誰とも話したくなかったし誰の顔も見たくなかった。誰も居なくなると涙を流し、泣きつかれたら眠りについた。

 そんな日々が何日も続き、状況がいつまでたっても好転しないのでマキナはカウンセリングを受ける事になった。しかし少女は一切誰にも心の内を話そうとはしなかった。完全に閉ざされた彼女の心は最早誰の声も届かない。強制的に開始されたリハビリをだらだらとでもやるようになったのはそうでもしないと周りが放っておいてくれないからであった。惰性で続けるリハビリは非効率的であり、それは必然長引いた。

 食事も摂らなければ周りが煩いという理由で何とか口に運ぶようになった。しかし最初はまるで生きる事を拒絶しているかのように食べても直ぐに吐いてしまった。一向に食事は進まず、ほんの僅かに口に入れただけの放置された食事を看護士は不安げに片付ける日々が続いた。

 何もかもが全て無駄でしかなかった。マキナはまるで生きる力全てを失ってしまったかのように、ただただ生命活動を維持させていた。それは生きると言えるのだろうか……? 誰もがそんな疑問を抱かずには居られなかった。マキナの体力は衰え続け回復の兆しは見当たらない。リハビリも一応しているし、食事は進まずとも点滴は続けている。なのにマキナはやつれたまま、体力が戻ることはなかった。


「駄目だな。このままでは衰弱していく一方だ。マキナ本人に生きる意志が一切感じられないようでは、こちらも手の打ちようがない」


 ジークフリートの実験の様子を眺めながらジルは小さくそう漏らした。傍らに立つアンセムは実験の様子を眺めつつ、ジルの話に耳を傾けていた。アンセムも何度か見舞いには行ったのでわかる。彼女は一切外部に対して反応を示さなかった。

 命は確かに今も鼓動を続けているのに、マキナはまるで世界の中で取り残され孤独になってしまっているかのようにさえ見えた。ジルはそれが心配でならなかった。大切な教え子だったのだ。今でもそれは変わらない。マキナはまだフェイスに籍を置いているのだから。しかし、このままではどうなるのか判ったものではない。


「アンセム、貴様仮にも彼女の保護者だろう? もう少し何とかならないのか?」


「……できればやっているさ」


「それでいいのかお前……!? ジークフリートの実験なんてやってる場合じゃないだろ!」


 アンセムは応えない。ジルは舌打ちし、アンセムの胸倉を掴み上げる。そうしてようやく視線を向けたアンセムをジルは鋭くにらみつけた。


「あの子は孤独すぎる……! このままでは死ぬぞ……!」


「…………かもしれないな」


「アンセム、お前……!」


「ジークフリードの起動実験……マキナを使うという案が出ている」


 その一言でジルはアンセムから手を引いた。それはとんでもない事実を意味していた。マキナはまだあんな状態であり、FAなどに乗れるはずもない。特にジークフリートのERSは特別製なのだ。ライダーの身体に大きな負担をかけてしまう。あのアテナでさえ、ただ座っているだけで体力を消耗し実験が終わる頃にはフラフラになっている程なのだ。


「馬鹿な……。殺すつもりか……」


「だから実験を急いでいる。あの子を乗せる事になる前に、キリをつける」


「お前……」


「ジル、私は正直どんな言葉をかければいいのか判らない。傍に居ても、恐らくは彼女が辛いだけだ。だが今の自分に出来る事はハッキリしている。今はそれをやるだけだ」


「…………。馬鹿げている……。あの子はFAを怖がってる。恐らく普通のFAでさえ操縦はもう不可能だろう……。闘いの場に出せるような状況じゃないのは皆わかっているはずだというのに……」


「それでも急がねばならないのだろう。彼女以外に、ジークフリートは動かせないのだからな――」




 日記を捲れば、そこにはいくつもの輝く思い出があった。毎日刻んできた一歩一歩が素晴らしく輝いていた。

 アルティールにやってきて、アルティールで出会って、アルティールで多くの物を得たのだ。そこでは悲しい事も苦しい事もあった。でも仲間たちと手を繋いで歩く道は決して嫌なものではなかった。むしろ困難も全ては希望へと続いていたはずなのに。

 マキナは日記を読み返し、病室の中で背中を縮こまらせて泣いていた。どうしてあの頃はこんなにも簡単な絶望に気づかなかったのだろう? 幸せだった。幸せしかなかった。思い返せば昨日の事のように思い出せるのに、全ては奈落の底へと消えてしまった。もう、何一つ取り戻せない。

 それが悲しくて悲しくて仕方がなかった。勢いに任せて日記を放り投げた。肩息をしながら泣いた。もう、何もない――。

 ふと、部屋に入ってくる人影が目についた。それは黒い制服を着た大人たちであった。マキナの前に立つと、端末を操作しながらマキナを見つめる。


「マキナ・レンブラントだな? 君にジークフリートの起動実験への参加を要請する」


「……ジーク……フリー……ト……?」


 その言葉を聞き、マキナは首をゆっくり横に振りながら後退した。それはFAの名前だ。FAは恐怖の対象でしかない。人の命を奪い、マキナから全てを奪う物だ。恐怖で鼓動が高鳴っていく。そんなマキナに左右から二人の男が掴みかかった。拘束から逃れようともがくマキナだったが、体力は衰えマキナは所詮少女に過ぎない。取り押さえられたら振りほどく事は不可能だった。


「抵抗しないでほしい。事情は現地できちんと説明する」


「いや! いやあああああっ!!」


「連れて行け。ジークフリートを動かせる可能性のある唯一の人間だ」


「やだ! やだあああああっ!!!! 乗りたくない! 乗りたくないいいいっ!!」


「おい、滅茶苦茶暴れまくってるぞ……」


「仕方ない、麻酔を……ぐあっ!?」


 次の瞬間、一人の男が吹っ飛んだ。倒れた男の後ろには何故かアテナが立っており、そのまま駆け寄ったアテナはマキナを拘束していた二人の腕からマキナを強引に抱き寄せ、一歩後退する。


「ぞろぞろと病人の部屋で何をしているのかしら」


「アテナ・ニルギース……。マキナ・レンブラントを渡してください」


「理由を聞きたいわね」


「ジークフリート起動実験の前準備です」


「起動実験にマキナを使うのはまだ未決定事項のはずよ」


「ですから前準備です。如何にカラーズと言えども邪魔をされては困ります」


「こっちだって困るのよ。何ならちゃんと公の場で戦ってみましょうか? カラーオブレッドとして正々堂々お相手するわよ」


「……………」


 男たちは何も言わずに撤収した。それを見届け、アテナは抱きしめたままだったマキナに気づいて腕を放す。マキナは力なくベッドの上に座り込み、怯えたように頭を抱えていた。


「……大丈夫だった?」


「…………」


「助けてあげたんだから、お礼くらい言いなさいよ」


「………………」


 マキナはただ震えているだけで返事もしない。アテナはじっとその姿を見つめ、徐にマキナの手を握り締めた。そうしてベッドに押し倒し、正面からじっとマキナを見つめる。

 時間が止まったかのように二人は見詰め合っていた。マキナは震えながら視線を逸らし、泣きながら手を強く握り締めた。


「きらい……っ」


「…………」


「きらい、きらい、きらい……っ」


 アテナはそんなマキナの様子をじっと見つめていた。蒼い髪が日差しに輝き、同様にアテナの髪も輝かせる。二つの相反する色が見つめあい、アテナは寂しそうな表情で小さく唇を動かした。


「…………って言って」


「…………」


「すきって……言って」


「…………きらい」


「好きって言いなさい」


「きらい――」


 次の瞬間、アテナはマキナの言葉をさえぎるかのように自らの唇を少女の唇に重ねていた。目を見開き、マキナは一際大粒の涙を零した。優しく暖かい唇の感触……それから逃れようとするマキナの動きを封じるようにアテナは強い力で両手を押さえていた。やがてマキナが暴れまくり、アテナを突き放す。歯を立てたマキナの所為で唇を切り、アテナはよろけながら後退する。口元からは血が流れ、アテナはそれを親指でそっと拭った。


「きらいきらいっ! きらいきらいきらいきらいきらいっ!! だいっきらいっ!!!!」


「…………貴方も、私を否定するのね」


 力なくそう呟き、アテナはマキナに背を向けた。部屋を出てくその姿を見送り、マキナは髪をかきむしり、拾い上げた日記をもう一度反対側の壁まで投げつけた。痛んだハードカバーはくたびれた音で床に落ち、もうそこから動く事はなかった。

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