日常が失われると陳腐なセリフとなる
「ヨシくん。息抜きにちょっとだけお散歩に行かない?」
散歩か。悪くないな。ずいぶん外に出ていない気もするし。ところで俺たち、何日ぶり?
「九日ぶりかな。ほら、廊下ですれ違って、靴下にコーヒーこぼしたでしょ?」
ああ。あの時か。飲み残しのコーヒーでよかった。
「そんなことより、早く行こ」
やけに急いでるじゃないか。息抜きは慌ててするものじゃないだろ。俺、髭剃ってくるから。
「剃らなくていいよ、そんなの。パーティーに行くんじゃないんだから」
近所の目があるだろ。
「ホント、ヨシくんは細かいなぁ」
大事なことだ。特に俺たちみたいな夫婦はもっと世間体を気にして。
「はいはい。続きは歩きながら拝聴いたしますぅ」
何かあるのか?
「だって、時間が惜しいでしょ」
わかってる。締め切りが迫ってるんだろ。
「そうじゃなくて」
何を言いたいのかわからん。
「うん……ねぇ、時間は無限に続くけど、私たちの時間は有限なんだよ。それに二人で過ごせる時間はもっと限られてる」
当たり前だろ。
「当たり前だけど、当たり前じゃない。当たり前だと思っちゃいけない」
安っぽい恋愛小説の使い古されたセリフみたいだな。
「ハァ。どうして私、こんな皮肉屋を好きになっちゃったんだか」
皮肉じゃない。事実だ。
「そういうこと、あんまりSNSで言っちゃダメだからね」
別に言わないって。恋愛モノは読まないし。
「ちょ、ヨシくん。その発言はマズイよ。うん、至極マズイ」
意味がわからん。なぁ、散歩に行くんだろ? 早く行こう。
「ううん。もういい」
ああ? もういいって、みちるが言い出したんだろ。
「わかってないなぁ。そういうことじゃないんだって」
じゃあ、どういうことなんだよ?
「だから」
おう。
「二人でこうしている時間が大切だってこと」
左足に痛みを感じ、良昭は不愉快な気分で目を覚ました。踵に妙な感覚がある。それと、強烈な酢の匂いだ。
目を開けようとして蛍光灯にやられ、一度閉じてから薄目を開けて眼前を睨む。家の天井じゃない。やたらと白い。事故に遭って病院にでも運ばれたのだろうか。この猛烈な喉の渇きと全身の倦怠感はなんだ。
顔を左へ傾けた良昭は、離れたところにある六桁の赤いデジタル数字が目に入り、「あぁ」という呻き声とともに息を吐き出すと、再び目を閉じて頭を椅子の背凭れへと押しつけた。
そうだよ、イカレたショーの真っ最中じゃねぇか。なら、なぜ俺は悠々と寝ている。
起き上がろうとして左足に激痛が走り、良昭は顔を顰めつつも両肘に力を入れ、時間をかけてゆっくりと上半身を起こそうと試みた。踵ではない。もっと上、足首の辺りが痛む。
身を起こすなり、視界に不可解な光景が飛び込んできた。
これは一体どういった手品だ。まるで理解ができない。左脚の、足首から先がないじゃないか。踵の感覚はあるのに、踵それ自体がない。どうなっている。さっきまではあったはずだ。
家を出るとき、靴を両足に履いたのを覚えている。靴下だって忘れずに履いた。ということは、左足だけをどこかへ置き忘れてきたらしい。缶コーヒーを買ったコンビニか。それとも、途中で拾ったタクシーの後部座席か。
突然、視界がぶれ、身体が振動しはじめた。地震だ。大きい。徐々に揺れが激しくなってきた。トレース台の下へ隠れなければ。ない家具が倒れてきたら大変だ。
揺れに耐えながら身体の向きを変えた良昭は、椅子から左足を下ろそうとしてバランスを崩し、左手で空を掻いて前のめりになると、受け身も取れずに左肩から思いきり床へと激突した。鈍痛に「ぐっ」と声が漏れる。
左足を置いてきたのをすっかり忘れていた。早く探し出さないと、誰かに盗まれでもしたら大変だ。犬や猫が見つけて食ってしまう可能性もある。事は一刻を争う。
床に這いつくばったまま顔を上げ、『12:29:59』という赤い数字を睨んだあと、右隣の壁に緑色で描かれた『380』という大きな数字へ視線を移す。もっと少なかったようにも思うが、気のせいか。おそらく、眠っているあいだに増えたのだろう。
そういえば、いつの間にか揺れが収まっている、と良昭が思ったところで、またもや身体が小刻みに揺れはじめた。そのうち大きいのが来るかもしれない。貴重品だけでも取りに行かねば。
震える両手を白い床についた良昭は、四つん這いになろうとして左足に鋭い痛みを感じ、叫びそうになるのを堪えて「イッ!」と押し殺した声を上げると、麻酔銃で撃たれた象が倒れるように、右半身を下にして横ざまに転がり身体をくの字に曲げた。
左の足首部分の痛さが尋常ではない。脛や足の親指を家具の角にぶつけたときとはわけが違う。かつて味わったことのない痛みだ。それに、さっきから耳の近くで何やらガチガチとうるさい。ドアの蝶番でも壊れたのだろうか。
おそるおそる左手を伸ばし、曲げた左脚の膝あたりの側面に触れる。手の腹でふくらはぎに触れながら、足先へ向かってゆっくりと撫で下ろしてゆく。次第に誰かの呼吸音が荒くなってきた。揺れもまだ収まっていない。
指先が踵に当たるどころか、そのずいぶん手前の、足首付近で内側へと折れた途端、幾度目かの激しい痛みに良昭は「あ”い”ッ!」と叫び声を上げた。
左足が、ない。
なんてリアルな夢だ。色、匂い、痛み、加えて感触まである。それでもこれが夢であることは間違いない。感覚はあるのに、視覚的に左足の存在を認識できないなどという馬鹿げた現象を説明するには、夢という一言さえあれば十分である。そうだ、夢なのだ。
良昭はこれが夢であることを自分に納得させようと、試しに出した声が「お、お、俺の」と吃ってしまい、地震で建物が揺れているのではなく、己自身の身体が震えていることにようやく気がついた。
夢じゃない。
首を反らし、緑色の数字が表示されている壁を見上げる。何だよ『380』ってのは。顎を引き、左脚の失われた先端部分へと視線を落とす。
あれが、あの『380』という数字が、俺が左足と引き換えに得た対価なのか。金にもならず、このショーでしか価値のない、形すらもないポイントなどという二次元の記号に、俺の左足は変わっちまったっていうのか。
「ああ、あっ、あっ、あああ、あああ”あ”あ”あ”あ”ッ!」
低い唸り声のような良昭の嗚咽は、広い部屋に反響することもなく、虚しくその場で霧散した。
どうしてこうなった。
ポイントはすでに『270』あったじゃねぇか。緑色だった。赤じゃねぇ。それが急に減りだして、赤の『290』になりやがった。なんだ。何が起きた。必ず原因がある。あの前後に何かなかったか。
まず、ブザーが鳴っておかめ野郎の声が聴こえた。次に男だ。椅子に縛られた男がモニターに映った。それを無視して執筆のために投稿サイトを開いた。
感想だ。
脅迫文めいた感想がいくつも届いていた。それにあれだ。判定結果にキッチリ書かれていた。
【霧海 塔】
・感想およびレビュー 330
・規定文字数未到達 500
じゃあ何か? 俺の左足が失くなったのは、あのクソみてぇな感想を投げまくりやがった、感想厨のクズ野郎のせいってことか?
「ふざけんじゃねぇッ! ブッ殺してやる、ゴミカスどもがぁッ!」
怒りを噴出させた良昭が身体を俯せに戻し、匍匐前進のように床を這いだしたところで、「キャー!」というわざとらしい女性の悲鳴が部屋に響いた。動きを止めて顔を上げ、数メートルほど先に下がっている正面のモニターを睨む。
画面に泣き腫らした顔の女性を認め、良昭は思わず「みちるッ!」と叫んだ。妻は、みちるはまだ生きている。
「みちるッ! 今すぐ助けに」
「やめ、やめ」
「みちるッ!」
「やめ、やめ」
「どうしたッ⁉︎」
クソッ、こっちの声は聴こえていないのか。
「いやああぁぁ!」
あのおかめ野郎、みちるにまた何かしやがったのか!
「オイッ! 異常者ども、よく聴」
「やめ、やめ、いやああぁぁ!」
なにか、様子が。
「やめ、やめ、いやああぁぁ!」
録画だ。録画した映像を編集してリピートしている。
「やめ、やめ、いやああぁぁ!」
「やめて、やめてくれ」
「やめ、やめ、いやああぁぁ!」
「頼むからやめてくれッ!」
両耳を塞いで絶叫した良昭は、床の上で身体を丸めると、妻の悲鳴が聴こえなくなるまで、凍えた小動物のようにただぶるぶると震えていた。