誰そ彼時に其れは嗤ふ
うちのクラスから三人の生徒がいなくなった時点で、学校全体での集団下校が義務づけられた。同時に、教室内におかしな噂がたちはじめたのもその頃だ。
「最初が末永で、次が石橋。それから今度は小松崎。あいつら、一体どこ行っちゃったんだろな」
「決まってんだろ。誘拐だよ、誘拐」
「でも身代金の要求ないらしいぜ?」
「じゃあ、ただの家出だろ? どうせ注目されたいだけだって」
「なんだよ、くっだらねぇ。やることがガキ臭ぇっての」
「もしかすると、宇宙人の仕業かもよ」
「そもそもアイツら……」
「なぁ、ついてくる影の話、知ってるか?」
物知りの土屋がそう言って口を開くと、給食後の昼休みで騒ついていた教室内が、水を打ったように急に静かになった、ような気がした。
「影って普通ついてくるもんだろ?」と誰かが発した言葉に、「土屋ヤバくね」と別の誰かが応じた。
「話せよ、ツッチー」
「早くしろよ」
近くから上がった声にせっつかれ、「わかったって。あー、でも、どっから話せばいいかな」と勿体つけるように言う土屋は、どこかクラス中の耳目が己に集まるのを楽しんでいるようにも見えた。
「うん、そうだな。最初に言っておくけど、俺はその、ついてくる影って奴は見てなくて」
「なんだよ、嘘かよ」
「ちげぇよ。兄貴が見たんだって」
「じゃあ、はじめからそう言えよ」
「だから今言っただろ」
入れられた茶々に律儀に対応してから土屋が話しはじめた。
「俺の兄貴、部活がない日は塾にも行ってて、帰ってくるのが遅いんだよ。だいたい十時頃か、遅いと十一時をすぎることもあってさ。俺はいつも十時には寝てるから、兄貴の顔を数日見ないこととかも普通にあるわけ。朝も部活の朝練があるとかでいないし」
「影の話がまったく出てこねぇじゃん」
「おまえの兄貴の話はどうでもいいっつうの」
痺れを切らした誰かがなじる。
「黙って聞けって。あー、どこまで話したっけ? そうそう! たしか一週間ぐらい前、俺はいつものように二階の自分の部屋で寝てたわけ。でもさ、兄貴が一階で騒いでる声がして目が覚めたんだよ。時計を見たら十一時半とか、かなり遅い時間だったから、最初はそのまま目をつぶってまた眠ろうとしたんだけど、兄貴の怒鳴り声がいつまでもやまなくてさ。そしたら、『近所に聞こえるから静かにしろ!』とかいう親父の大声まで聴こえてきて。もう完全に目が覚めちゃったから、下に降りて話を聞こうと思ったわけよ」
土屋は言葉を切って教室をぐるりと見まわし、誰もが固唾をのんで話の続きを待っているのを確認すると、頭を前後にゆっくりと揺らしながら満足そうな笑みを浮かべていたが、すぐに真剣な表情を作ると再び話しだした。
「部屋にいるときは兄貴が何て言ってるかわからなかったんだけど、階段をおりてるうちに少しずつハッキリと聴こえてきて。それが、『影がついてくる! 人型の影が!』とか『明かりが足りないんだ!』とか、変な感じのこと言ってるから、なんだか俺、だんだん怖くなってきてさ。人型の影がついてくるって、それ、自分のなんだから当たり前だろって思ったし、もしそうじゃないとしたら何だよって変な想像しはじめて。兄貴、そういう冗談で騒ぐような人でもないから」
「ねぇ、土屋くん。もうやめて。聞きたくない」
女子のグループから声が上がった。
「聞きたくないなら耳ふさいどけ、ブス」
「ひっどぉい! 私はただ」
「うるせぇなぁ。ここからが面白いんだから、聞きたくねぇなら黙ってどっか行けよ」
そんな小競り合いのなか、昼休み終了と五時限目の授業開始を兼ねた予鈴が鳴り、土屋の話はお開きとなった。クラスのほとんどの連中は消化不良だったかもしれないけれど、その影が見えている俺にはどうでもいいことだった。
ただ、俺や土屋の兄のように、影が見える人間とそうでないものとの違いが何なのかは気になる。それに、土屋の兄が今どうしているのかも。
「ツッチー、ちょっといい」
放課後、話をもう少し詳しく聞こうと、帰ろうとする土屋を下駄箱の前で捕まえた。そばには土屋と仲のいい村田と中山の姿もある。
「おう、菊池。おまえも聞きたいんだろ? 話の続き」
「ん、まぁ。でも、続きっつうか、おまえの兄貴の」
「ムラッチとナカセンも気になるっつうから、どこかで話そうぜって今言ってたとこ」
昇降口からの日差しを受け、ガッチリとした体格の土屋、細身で背の高い村田、小柄で太めの中山と、でこぼこの影がちょうど横一列に並んでいるかのように見える。冬前の夕陽の命は短い。刹那的な力強さがあるが、あと三十分もしないうちに尽きてしまうだろう。
完全に日が沈んでしまう前には解散しようと言って、俺たちは土屋を先頭に、四人で連れ立って近くの公園へと向かうことにした。校庭に長居すると見まわりの先生がうるさいのだ。
「ツッチーはさ、その、ついてくる影って……何だと思う?」
公園に向かう道すがら、前を歩く土屋に村田が遠慮がちに訊ねた。が、土屋からの反応はない。
「ツッチー? 聞いてる?」
無視を続ける土屋に村田が怪訝そうな顔をし、「こいつ、なんなの?」とでも言うように俺と中山を交互に見比べた。俺は無言で首を傾げ、中山は外国人がやるように手のひらを空に向けて両手を上げた。
「なぁ、ツッチー。ツッチーの兄ちゃんがその影を見たのって、一週間前の一回だけ?」
今度は中山が訊ねたが、やはり土屋は前を向いたままで返事はしてくれない。中山も村田のように顔を顰め、「意味がわからない」と言いたげに、俺たちを見ながら肩をすくめた。
ふと地面に目をやると、夕陽を背にした俺たちの影が、細く長くアスファルトの上に伸びていた。それら四本の影とは別に、俺の腰のあたりまで成長した黒い人型が、土屋の周りを彷徨いているのが気になる。いつもは視界の端にばかりいるのに、どうして。
影を黙って目で追っていた俺は、村田と中山の「次はお前が話し掛ける番だ」という責めるような視線に気づき、なんとなく無駄だとわかってはいたものの「ツッチー。その影を見たあと、ツッチーの兄貴ってどうしてる?」と土屋に声を掛けた。
すると突然、「うぇろうぇろうぇろうぇろうぇろうぇろ!」と奇声を上げるなり、土屋が走り出した。俺たちはわけがわからず、小さくなっていく土屋の背中を、まるで石にでもなったかのように、その場に立ってただ呆然と見つめていることしかできなかった。
土屋の姿が完全に見えなくなると、「なんだよ、あれ」と中山が口を開き、村田も「ツッチー、なんか変だったなぁ」と呟いた。誰の目から見ても土屋の様子がおかしかったのは明らかだ。もしや、あの黒い人型が見えていて、それでおかしくなってしまったのだろうか。
「そうじゃなくて」と中山が再び口を開いた。
否定されたと思ったのか、村田が「なにが?」と不服そうな声で中山に聞き返した。
「いや、ツッチーが変だったのはそうなんだけど、なん……なんつうか」
「なんだよ? はっきり言えよ」
「く、黒いヤツがさ、ツッチーのこと、追い掛けてったように見えたっつうか」
俺は中山の言っていることがよくわからなかった。土屋の周りをうろうろしてた人型は、まだここにいる。じゃあ、中山が見たのは何だ。それに、コイツのことは見えていないのだろうか。
「はぁ? それ、影じゃね」
「じゃねぇよ! だっておかしいだろ?」そう言って中山が地面を指差し、「太陽が後ろにあるんだから、影は俺たちの前にあるのが普通だろ!」
「なに言ってんだよ。普通とか、そうじゃないとか。やめろよ、そういうの。怖ぇよ」
「き、菊池は、見てねぇのかよ!」
俺が「んー、見たような、見てないような」と曖昧に濁すと、中山は「はぁ⁉︎ 真面目に答えろよ! 何かいただろ?」と、今にも掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「なぁ、もう帰ろうぜ。ツッチーいないんじゃ話、聞けないし」
村田の上げた弱気な声をきっかけに、俺たち三人は誰からともなくのろのろと歩みを再開させ、しばらく無言で歩いた後に、「また明日」とか「学校で」とか適当に言葉を交わしてそれぞれの家路についた。
翌日、土屋と中山は学校に来なかった。
博史はモニター右下の文字数カウンターを見やり、あと千文字ほどでノルマに届くのを確認すると、垂れた前髪を軽く書き上げてから、保温機能付きのコースターからマグカップを持ち上げて口をつけた。煮詰まったコーヒーの粉っぽい味がする。
「まっず。ねぇねぇ、新しいコーヒー淹れてよ。さっきと同じ、スマトラのマンデリン。ブラックで。あー、あとクレームブリュレ。二つね。あとさ、なんかお菓子とかないの? ポテチとかポテチとか……チョコでコーティングされたポテチとか?」
『ポイントを獲得した者が現れた』といった内容のアナウンスがあってから、もうずいぶんと経つ。あれから脱落者は出ていない。画面の左隅にあった処刑動画も、櫻庭の身体が左右に切り離された時点で消えた。
肩まで伸びた細い髪に手櫛を入れながら、それにしても、と博史は考える。他の参加者の顔も名前もわからない状況というのは奇妙なものだ。本当は自分だけしかショーに出演していないのではないか、と疑わしく思えてくる。さっき流れた処刑の動画だって最初のものと同様に録画かもしれない。
「あのさー、他の人たちって、今どんな感じなの? 配信されてるっていう動画、どうやっても観れないんだけどー? てかさ、他の人たちの執筆名ぐらい教えてくれてもよくない? どんだけ秘密主義だっつうの」
おそらく、作品を投稿するか公開するとポイントが入る仕組みなのだろう。だからといって、なにも焦って投稿する必要はない。纏まっていない作品を他人に見せるのは、まるで散らかったままの自室を見せるようで何だか気恥ずかしい。公開するなら区切りのいいところまで書いてからだ。
眼前のテーブル上に望んだ品々が現れはじめ、博史が新しいコーヒーに手を伸ばそうとすると、小型の液晶モニターが天井から降りてくるのが目に入った。
「二つ目のディスプレイなんて頼んでないけどー? もしかして、また誰かの」
言葉を切った博史は、小型のモニター内に並んだ文字列のなかに、己に与えられた執筆名である『屍蝋兇夜』の名前を見つけると、自分が手に入れたものが何なのかに気づいて思わず口もとを綻ばせた。