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Cafe Shelly

Cafe Shelly 普通の人生

作者: 日向ひなた

 今日も何事もない一日だった。いつもの時間に起きて、いつもの時間に家を出て、いつもの時間に職場について、いつもの仕事をする。そしていつもの時間に家路について、今ここに立っている。ふぅ、何の変化もないつまらない毎日。家に帰れば妻も子どももいる。家庭には特に不満もない。ただ妻は仕事を持っていて私よりも忙しい毎日を送っているようだ。おかげで子どもを保育園へ送るのは私の仕事。近所では子煩悩な父親として見えているようだ。まぁ私自身、子どもと遊ぶのは好きなのだが。これといった趣味を持っているわけでもない。何かに打ち込んでいるものがあるわけでもない。休日も家族と一緒になんとなく過ごしている。

 あれ、自分の人生ってこれでいいのかな。時々そんな事を思うが、気がつけばすぐにいつもの自分に戻っている。そう、何事もない平凡な、普通の人生を歩んでいる自分がここにいる。

 おっといけない。子どもを迎えに行かなきゃ。私は自分の自転車が置いてあるところへ足を向けようとした。そのとき携帯電話が。

「あ、あなた。今日は渉は私が連れて帰るから。ちょうど仕事で保育園の近くに来たから、そのまま渉をつれて家に帰るわ」

 めずらしい事もあるな。

「じゃぁ本屋に行ってみたいから、いいかな?」

「えぇ、七時までには帰ってきてね」

 時計は今五時半を指している。この時間に一人で過ごすなんていつ以来だろう。本屋には日曜日とかに行く事はあるが、こんな時間に行く事はない。ちょっとウキウキしながら自転車を取りに行った。それにしてもこの季節は風が強いなぁ。春の嵐、とでもいうのだろうか。自転車にとってはちょっとつらい。そしてスーパーの前にさしかかったときにそれは起こった。

「うわっ」

 突然の突風に私はバランスを失ってしまった。そしておもわずよろける。そのときに横にいた女性にぶつかってしまった。

「痛っ」

「あ、ごめんなさい」

 女性は両手に荷物を持っていたため変なこけ方をしてしまったようだ。持っていた荷物にあったオレンジがコロコロと道に転がる。私はすぐに自転車を降りて女性にかけよった。

「大丈夫ですか?」

 女性は若くてきれいな人。長い髪とぱっちりとした目が印象的だ。

「ホントすいません」

 私はそう言いながら転がったオレンジを拾い集めた。

「大丈夫です。それよりそちらこそ大丈夫ですか?」

 女性は私にそう声をかけてくれた。

「私は問題ありませんけど。あぁ、袋が破れちゃいましたね」

 破れた袋を見て、私はあることを思い出した。

「そうだそうだ、いいものがある」

 私はカバンから折りたたんだあるものを取りだした。

「これに入れていくといいかな」

「あ、エコバッグ持ち歩いているんですね」

「えぇ、子どもを保育園に迎えに行った帰りによく買い物をして帰るもので」

 私は開いたエコバッグにオレンジを入れた。

「ホントすいませんでした。はい、どうぞ」

 そう言って私はオレンジを入れたエコバッグをその女性に手渡した。

「ありがとう。あ、痛いっ」

 女性は立ち上がろうとしたが、右足首をさすって動けない状態。どうやら転んだ拍子に足をひねったようだ。

「だ、大丈夫ですか?」

 私はあわてて女性を抱きかかえて、私の自転車につかまらせた。

「歩けますか?」

「ううぅん、なんとか…痛っ」

 女性は一歩を踏み出したがどうやらうまく歩けないようだ。

「困ったなぁ…どちらまで行かれるのですか」

「この先の路地にある喫茶店までなんですけど」

「じゃぁ私が荷物を持ちます。自転車につかまってください」

「はい」

 女性は私の自転車につかまって、痛めた右足をかばうようにしてゆっくりと歩き始めた。私は女性の歩くスピードに合わせてゆっくりと自転車を押していく。

「ここを左に曲がったところです」

 言われるままにビルの間の路地を左に曲がった。あれ、こんな通りがあったんだ。私の目の前には夕方なのにパッと明るい光景が映し出された。道幅は車一台が通れる程度。その道にはパステルカラーのブロックが敷き詰められている。道の両端にはブロックでできた花壇があり、色とりどりの花が植えられている。通り沿いにはちょっとおしゃれなお店が並んでいる。レストラン、雑貨屋、ブティック、よく見ると歯医者さんもある。

「へぇ~、こんなところがあったんだ」

 私はひとりごとのようにつぶやいた。

「ここです。ここの二階なんですけど」

 私は通りの隅に自転車を停め、カゴに入れたオレンジの袋を片手に持った。

「階段、大丈夫ですか?」

「えぇ、なんとか」

 私は女性に肩を貸してゆっくりと階段を上っていった。このとき、この女性からなんとなく甘い匂いが。ちょっと役得だな。なぁんてことをつい思ってしまった。

カラン、コロン、カラン

 ドアを開くときに心地よいカウベルの音が鳴り響いた。

「いらっしゃいませ。あ、マイ、どうしたんだ?」

 カウンターから声が聞こえたと思ったら、その声の主は私たちの姿を見るなりあわてて飛び出してきた。

「スーパーの前で転んで足をくじいちゃって。こちらの方につきそってもらって、なんとか帰ってこられたってとこ」

「あ、私が悪いんです。自転車に乗っていたら突風にあおられて、転びそうになったときにぶつかってしまって。本当にごめんなさい」

 私はとても申し訳ない思いでいっぱいになっていた。

「いえ、いいんですよ。マイ、それよりもそこに座って」

「あー、こりゃ冷やした方がいいぞ。マスター、ビニール袋に氷をたくさん入れて。それとタオルも用意して」

 カウンターに座っていた客の一人がマスターにそう指示をした。私はマイさんと呼ばれたこの女性を椅子に座らせた。

「さすがは榊さん。ダテに少年野球の監督はやってないわね」

 マイさんはカウンターから指示をした男性にそう言葉を伝えた。

「まぁこの程度のケガはうちでも日常茶飯事だからな。それよりそっちのあんちゃん。えっと名前は?」

「あ、私は千葉です。千葉茂といいます」

「千葉ちゃんか。おまえさん、洋服のボタンが取れかかってるぞ」

「あ、転んだときにひっかけたかな」

 榊さんの言う通り、袖のボタンの糸がほつれて取れかかっている。

「じゃぁ私が縫ってあげるよ。マスター、裁縫セットもよろしくね」

「え、なんか申し訳ないですよ」

 私はマイさんの申し出を一旦断った。だが氷と裁縫道具を持ってきたマスターがこんなことを。

「千葉さん、こうやって出会ったのも何かの縁ですよ。こういうときは素直に『ありがとう』と受け取っておくものですよ」

「は、はぁ」

 なんだか申し訳ない。自分の不注意からマイさんをケガさせてしまったのに、そのマイさんから施しを受けるなんて。私が躊躇していると、榊さんが突然私の上着を脱がせ始めた。

「マイちゃんからボタンを縫ってもらうなんて滅多にないチャンスだぞ。ほらほら、早く脱いだ脱いだ」

 私は半ば強引に上着を脱がされ、その上着はマイさんの手に渡った。

「とりあえず足はオレが冷やしておくから。マイちゃんは千葉ちゃんの上着のボタンをゆっくり縫ってあげな」

「じゃぁ私はコーヒーを入れましょう」

 マスターがカウンターに戻り、コーヒーの準備を始めた。私はただ呆然と事のなりゆきを見ているしかなかった。

「千葉さんってお仕事なにしてるの?」

 マイさんがほつれかけたボタンの糸をとりながらそう尋ねてきた。

「あ、はい。私は公務員です。市役所で働いています」

「そうなんだ。じゃぁ隣の駅まで通っているんですね」

「はい、自転車で通ってもよかったんですけど、息子の保育園のお迎えがあるので少しでも早く着きたくて」

「あら、今日はお迎え大丈夫だったんですか?」

「今日はめずらしく妻が迎えに行ってくれて。妻も働く身で帰りが遅いので、息子の送り迎えと買い物は私の仕事なんですよ」

「ほぉ~、千葉ちゃんってなかなかいいパパさんじゃないか」

 榊さんがやたらと感心してくれた。自分の中ではこれが普通なんだけど、そう言われると悪い気はしないな。

「じゃぁお休みの日とかは家族サービスしているんですか?」

「えぇ、まぁ」

 マイさんのその質問に答えるのに私はちょっと躊躇した。確かに家族と一緒に過ごすことは多い。その反面、私一人の時間というのが無いのが今の悩みだ。まぁその時間があったとしても、特に趣味などを持っていないので結局はやることが無くて子どもと遊ぶことになるんだろうが。

「千葉さん、よかったらこれどうぞ。マイをここまで連れてきてくれたお礼です」

マスターはそう言ってコーヒーを差し出してくれた。

「え、とんでもない。私の不注意でマイさんにケガをさせたのに」

「千葉ちゃん、さっき言われたろ。こういうときは素直にありがとうって受けとれって」

「あ、はぁ。ではいただきます」

 榊さんの言う通りだな。私はつい遠慮してしまうクセがある。行為で差し出してくれたものはありがたく受け取る事も大事だな。そう思ってマスターの差し出してくれたコーヒーを口に含んだ。

「んっ!?」

 なんだか刺激の強いコーヒーだな。

「ねぇ、どんな味がしました?」

 マイさんが上着の袖のボタンを付けながらそう尋ねてきた。

「なんだかとても刺激の強いコーヒーなんですね。ちょっとビックリしましたよ」

「なるほどねぇ」

 榊さんがにやりとしている。

「えっ、一体何がなるほどなんですか?」

「いやね、オレにとっては今日のシェリー・ブレンドは逆にまろやかで落ち着いた味だったんだけどよ」

「それってどういう事なんですか?」

 榊さんが言っている意味がわからなかった。だって確かに私が飲んだのは強い刺激で、とてもまろやかなんて思えない。

「ははは、不思議そうな顔してますね。今飲んで頂いたシェリー・ブレンドはちょっと不思議なコーヒーなんですよ」

 今度はマスターの言葉。不思議なコーヒーってどういうことだ?

「このコーヒーはね、飲んだ人が今欲しいって思っているものを味で教えてくれるの」

 まさか、そんなことあるわけない。

「千葉さんは今の生活に満足していながらも、何か刺激のようなものが欲しい。そう思っているんじゃありませんか?」

 マスターのその言葉にドキッとした。

「千葉ちゃん、今ドキッとしたろう」

 榊さんはそういってにやりと笑った。

「は、はぁ。確かにマスターの言われる通りかも。私ね、家族と一緒に過ごしたりするのはとても好きなんですよ。でも毎日が判で押したような生活にちょっと退屈しているのも確かなんです。何か趣味を持っているわけでもないし。休みの日になると、楽しい反面そういった意味で憂鬱でもあります。私の人生ってこのままでいいんだろうかって」

「だから刺激のある人生を欲しがっている。それはよくわかるわ。誰だって映画の主人公のような人生を送ってみたいもんね。はい、できましたよ」

 上着のボタンが付け終わった。マイさんはにっこり笑って私に上着を渡してくれた。

「じゃぁよ、千葉ちゃんはどんな刺激が欲しいんだよ。何か事件に巻きこまれるとか、ラブロマンスがあるとか?」

「いやぁ、そんな大それた事は…」

 そう言いながらも、もしそうなったらちょっと刺激的で楽しそうだと感じてしまったことは否めない。でも刺激ってどんなのが欲しいんだろう。

「ははは、榊さんの言うような刺激はちょっと困りますよね。日常の生活はそのままに、そこに打ち込める何かがプラスされるだけでいい刺激にはなりますよ」

 マスターのいう通りかもしれない。結局はこれといって打ち込める何かを持っていないのが原因なのかも。でも、その何かをどうやって見つければいいんだろうか。そう思いながら手元のシェリー・ブレンドに手を伸ばす。そして口に入れたとき

「えっ、何これ?」

 なんと味がさっきと違う。さっきはとても刺激的な味だったのだが、今度はぐぐっと引き込まれるような味。思わずカップに残った全てのシェリー・ブレンドを飲み干してしまった。

「千葉ちゃん、ひょっとして味が変わったのかい?」

「えぇ、その通りです。今度は引き込まれるような味で、つい全部飲み干しちゃいましたよ。これってどういう意味があるんでしょうか」

「たぶんね、自分が引き込まれるような趣味とかが欲しいってことじゃないかな」

 マイさんのその言葉が正解だろう。引き込まれるような趣味か。

「マスター、そんな趣味を見つける方法ってないんですか?」

「そうだなぁ。私はよくこんな事を伝えているよ」

 私はマスターの次の言葉を期待しながら待った。

「それをやっているとき、それをやっていることを思い出したとき、そのことを考えているときにワクワクしているか。ワクワクしていたら、それは間違いなくその人に合っていることだってね」

 ワクワクしているか。そんなこと、今まで考えもしなかった。けれどここでちょっとした疑問が湧いてきた。

「マスター、ワクワクっていうのはわかるんですけど、それと楽しいということとは違うのですか? 私は家族と過ごすことそのものは楽しいんです。けれどそれが自分の趣味かって言われると、ちょっと違う気がするんですよ」

「千葉さん、なかなか鋭いところにお気づきになりましたね。では楽しいとワクワク、どこが違うと思いますか?」

 どこが違うのか。私は頭をひねりにひねって考えてみた。けれど何も思い浮かばない。

「マスター、降参です。教えて下さい」

 このとき、榊さんが横から口をはさんできた。

「千葉ちゃん、どうせならその違いはマスターから教えてもらうんじゃなく、自分で答えを考えてみなよ。まぁ長い人生、このくらいのことを考える時間があってもいいじゃねぇか」

「そうですね。そうだ、こうしましょう。この違いがわかったら、シェリー・ブレンドをごちそうしますよ」

 結局この日はマスターと約束をして終わりとなった。

「じゃぁ楽しいとワクワクの違い、お待ちしていますよ」

 私は帰り道、自転車をこぎながらこの二つの違いを一生懸命考えた。けれど何も思い浮かばない。

「ただいまぁ」

「ぱぱぁ、おかえりなさい」

 帰って来るなり息子の渉が勢いよく私に飛び込んできた。

「おかえりなさい。渉ったらホントパパっ子なんだから。今日はどこに行ってたの?」

「あぁ、そのことなんだが夕食の時にでもゆっくり話すよ」

 よく考えてみたら不思議な出来事だった。偶然とはいえマイさんにぶつかってケガをさせてしまい、その結果たどり着いたのがあの喫茶店、カフェ・シェリー。そこで今自分が悩みとしているところをズバリ指摘され、その悩みを打破するヒントを今探し出そうとしている。着替えながらそのことを思い出したら、なんとなく心がはずんできた。今までの日常とは違う何かがそこにありそうな気がして。

「あれ、パパなんだかうれしそうね」

「え、そう見えるかい?」

 夕食の時、妻がそんなことを言い出してきた。

「だって、何でもないのにニコニコしているんだもん」

「そうかなぁ」

「一体何があったのよ?」

 妻は興味深そうに私に聞いてきた。

「これがね、ちょっと不思議な出会いだったんだ」

 私は妻にカフェ・シェリーであったことを話した。このとき初めて妻に刺激のない毎日についてのことを話した。

「茂、それって今の生活に不満があるって事?」

 妻はムッとした表情。

「いや、そうじゃないよ。不満はないけれど、何かこれっていう打ち込めるものが無いから」

「子育てとか家庭に打ち込むのが不満ってこと?」

「だから違うって。なんて言えばいいかなぁ」

 あぁ、妻を怒らせてしまった。でもどうして今の自分の気持ちがわかってくれないかなぁ。この日はなんとなく険悪な雰囲気が我が家に蔓延した。

翌日、私はいつものように自転車で子どもを保育園へ届けに。妻は昨日帰りが早かった分、朝早く出なければ行けないということで、いつもより早起きして一人で朝食をとり、さっさと出かけてしまった。普通とは違う朝。いくら刺激が欲しくても、こんな気分の朝を望んでいたわけではない。もっと心の奥から湧き出てくる楽しさが欲しいのに。例えて言うならば、遠足の日の朝のような。

お弁当の中味はなんだろう、おやつを誰と食べようか、行く途中でどんな会話ができるのか。期待感が胸を躍らせる。この気分を味わいたいのに。

「パパ、どうしたの?」

「えっ」

 そんなことをボーっと考えていたら、息子の渉が何かに気づいたのだろう。

「パパとママ、ケンカしちゃだめだよ」

 昨日の夜のことを子どもながらに心配していたようだ。

「ごめんごめん。そうだ、渉。今度保育園の帰りにパパとおもしろいところに行ってみようか」

「おもしろいところっておもちゃやさん?」

「う~ん、ちょっと違うなぁ。あ、おいしいジュースが飲めるかもしれないぞ」

「うん、いく!」

 保育園児に喫茶店なんて言ってもわからないし。おもしろいところと言っても渉にはおもしろいかどうかはわからない。

「パパ、なんだかワクワクするね」

 え、ワクワク!? このとき私の頭の中で何かが横切った。けれどそれを頭の中で追いかける間もなく保育園に到着。渉をあずけたら今度は駅へ向かわねば。

 そうしていつもの日常がスタート。けれどいつもと違うのは、マスターから出された宿題の「楽しいとワクワクの違い」を見つけること。そしてそのヒントが渉の言葉から発せられたような気がする。しかしそのヒントを追い求める間もなく、日常の業務に埋没してしまう自分がいた。そして気が付けばもう夕方。

「おつかれさま、お先に失礼します。ふぅ、今日も普通の一日だったな。でも楽しいとワクワクの違い、これを見つけることができなかったか」

 見つけることができない。いや、ひょっとしたら違うんじゃないか。見つけようと思えばいつでもそれはできるはずだ。けれど毎日の業務に埋没してしまう方を選んだ自分が、その答えを見つけようとさせないのではないだろうか。ひょっとして心の奥でその答えを見つけるのを拒否しているのか? いや、そんなことはないはず。帰りの電車の中、そして保育園へ向かう自転車の上でもそんな自問自答を何度も繰り返していた。保育園に着くと、私の姿を見るなり渉が駆け寄ってきた。

「パパぁ」

「おぉ、渉、今日もいい子にしてたか?」

「うん。パパがいいところに連れて行ってくれるっていうから、今日はずっとワクワクして待っていたんだよ」

 このとき、今朝頭の中で横切った何かが再び現れた。よく考えろ、渉の今の言葉に何か隠されているはずだ。渉は私の言葉で一日ワクワクしていたという。それって楽しいことなのか? きっと渉にとっては楽しいことのはずだ。けれどそれをまだ経験はしていない。なのにどうして楽しいんだ? 経験もしていないのに、どうしてそれが楽しいなんてわかるんだ?

「あ、そういうことか!」

「え、パパ、どうしたの?」

 私が突然叫んだので、渉はビックリしたようだ。

「ごめんごめん。でもね、渉のおかげでようやくわかったんだよ。そうか、そうだったんだ」

「パパ、なにがわかったの?」

 渉は首をかしげて不思議そうな顔をしている。まぁそう思うのも無理はないか。

「パパ、おもしろいところにはいついくの?」

 そうだ、せっかく楽しいとワクワクの違いがわかったんだから、カフェ・シェリーに行ってマスターに報告しないと。けれどこんな時間に渉と一緒に行くと、妻にしかられそうだな。でもこの衝動は抑えきれない。どうしよう…

 一瞬悩んだが、私は自転車を止め携帯電話を取りだし妻へメールを送った。

「これでよし、じゃぁ今からおもしろいところに行こう!」

「うん、レッツゴー!」

 私が妻へ送ったメールはこうだ。

『今から渉と昨日話した喫茶店に寄ってきます。七時までには帰ります』

 きっと帰ったら妻からこっぴどく怒られるだろうなぁ。けれど、そんなことよりも今の抑えきれない気持ちの方が自分にとっては大事なことだ。そうか、これがそうなんだ。マスターが言わんとしていることが次第に見えてきたことがとてもうれしかった。

「こんにちはー」

 心地よいカウベルの音と共に、私は息子の渉とカフェ・シェリーの扉をくぐりぬけた。コーヒーのほのかな香りと甘いクッキーの匂いが私たちを包み込んでくれた。

「あ、千葉さん、いらっしゃいませ」

「マイさんこんにちは。足は大丈夫ですか?」

「えぇ、昨日あれからずっと冷やしてたらすっかりよくなっちゃいました。あら、こちらは息子さん?」

「えぇ、渉っていいます。ほら、渉、こんにちはは?」

 渉は私の後ろで恥ずかしそうに隠れている。

「まったく、しょうがないやつだな」

「お、千葉さん、いらっしゃい。今日ここに来たってことは、昨日の正解がわかったってことなのかな?」

「はい、おそらく。本当は家に帰らなきゃいけないんですけど、これをマスターに伝えたくていてもたってもいられなくなっちゃいまして。それで保育園の帰りなんですけどこちらに寄らせていただきました」

 店は奥の席にカップルが一組いるだけだった。私と渉はカウンター席に座った。

「今日は榊さんは?」

「あぁ、おそらく少年野球の指導でしょう。昨日の時間にここに来ることの方がめずらしいですからね」

「う~ん、残念だなぁ。榊さんにもぜひ聞いてもらいたかったのに」

「あはは、榊さんは榊さんのワクワクを追いかけていますからね。おっと、お子さんが退屈するといけないからマイに相手をしてもらいましょう。って、もうすでに遊んでくれているみたいだな。マイは小さい子どもにすぐになじむからなぁ。あれもマイのワクワクの一つみたいです」

 そう言われて後ろを振り返ると、渉はマイさんとテーブルで絵本を見ている。これで安心してマスターと話ができるぞ。

「じゃぁ私が見つけた楽しいとワクワクの違いの答えをお伝えしてもいいですか?」

「はい、お願いします」

「楽しいって自分が今経験している事に対して起こる感情なんだと思うんですよ。逆にまだ経験したことのないものに対しては、楽しいかどうかもわからないじゃないですか。けれどワクワクってその逆なんです。それが楽しそうか、まだ経験してないのに心の奥から何かが湧き出てくる。そんな感覚なんだと思います」

 私は身振り手振りを交えながら、必死にマスターに伝えた。マスターはにこやかな顔で私の言うことを聞いてくれている。

「そしてそれをやっているときも楽しいという感覚が湧いてくる。それがワクワクじゃないですか?」

 私は言い終えると、マスターの顔をじっと見た。

「千葉さん、正解です」

 よっし、やった。

「よくそこに気づきましたね」

「いやぁ、ここにいる息子の渉のおかげなんですよ。いつかここに連れてこようと思って、今度おもしろいところに連れて行ってやるって言ったら、ワクワクするって言ったので。まだカフェ・シェリーに来たこともないのにどうしてワクワクするんだろうと疑問に思ったんですよ。そうしたら今の答えに行き着いて」

「では今の千葉さんの気持ちは?」

「そうですね。正解してよかったってのもあるけれど、こうやってマスターの言っている意味が理解できてうれしいのと楽しいのと両方ですね。またここに来たくなりますよ。あ、これがワクワクか」

 なんだか心の奥からよろこびやうれしさがじわぁ~っとにじみ出るような感じがした。

「千葉さん、今の気持ちを忘れないでください。この先何かを体験したときに、きっと同じような思いをすると思います。それが千葉さんにとって大切な事の一つになるはずですよ。はい、お約束のシェリー・ブレンドです」

「え、いいんですか?」

 おっと、榊さんがここにいたらきっとこう言うだろう。こんなときは素直にありがとうと言って受けとれって。そうだ、うっかりしていたな。

「ありがとうございます」

 マスターから差し出されたシェリー・ブレンドを早速口に入れてみる。

「今日のお味はいかがですか?」

「うん、昨日飲んだのとはまた違う味ですね。飲むと心の奥からぐぐっと何かが湧き出てくるような気がするんですよ。例えて言うなら希望に満ちた味ってとこかな」

「千葉さん、なかなかうまい表現ですね」

 不思議だ。私はふだんこんな表現は使ったことがないのに。シェリー・ブレンドを飲むと詩人になったように言葉が湧き出てくる。

 詩人。私は自分の心の中で出てきたこの言葉に反応した。このとき、高校生時代のころのなつかしい情景がふとに頭に浮かんできた。

 青春時代のあの頃、友達と一度だけギターのデュオを組んだことがあった。お互いにギターの腕はへたくそだったんだけれど、オリジナル曲をいくつか作ったことがあった。そのとき、私が作詞担当で友達が作曲担当。二人でああでもない、こうでもないと議論しながら曲作りをしたものだ。けれど大学に進んでからはバラバラになり、また自分にギターの才能がないとわかってか音楽からは次第に遠ざかっていた。今ではその記憶すら忘れ去られていたほどだった。

「千葉さん、どうかしましたか?」

「あ、いえ、ちょっと昔のことを思い出して」

「どんなことなんですか?」

「えぇ、高校生の頃のことなんですけどね…」

 私はマスターに高校時代のことを語った。ギターを弾いていたこと、作詞を担当していたこと、いろいろと議論を重ねて曲作りをしていたこと、けれど大学に入ってからは音楽から遠ざかっていったこと。一通りのことを話した後、マスターがこんなことを言ってくれた。

「千葉さん、音楽のことを話しているときはなんだか活き活きしてましたよ。特に自分が作詞をやっていたことなんか、とてもリアルに聞けましたからね」

「そうですか?」

 自分では気づかないものだ。けれどマスターの目から見ればそう感じるんだろうな。確かに今自分の気持ちは躍動感に満ちあふれている。それこそ今の気持ちを詩にするといいものが書けそうだ。けれど曲にしてくれる人がいなければその意欲も半減してしまう。

「あ、そうだ。千葉さんにぜひ紹介したい人がいるんですけど。今度の土曜日の午後はお時間ありますか?」

 土曜日の午後か。いつもなら家族でショッピングセンターに買い物に出ているな。これは我が家の恒例行事みたいなもの。果たして妻をうまく説得できるか、そこが不安だ。この日、マスターには「土曜日に家族でまた来ます」という返事をしてしまった。

「渉、楽しかったか?」

「うん、おねえちゃんがつくってくれたクッキーがとってもおいしかったよ」

「そうか、それはよかったな」

 そう言った渉の手にはマイさんからもらったクッキーが一袋。まだ私も味わっていないので食べるのが楽しみだ。さて、土曜日の件は妻をどうやって誘い出してみるか…

「ただいま」

「ただいまー!」

 私の少し沈んだ声とは対照的に、渉はいつもよりも大きな声。

「おかえり。ちょっと茂、なんでこんな時間になったのよ。いったいどこに行ってたの? 食事の準備をするこっちの身にもなってよね」

 早速妻のお小言だ。

「いや、ちょっと」

 昨日、カフェ・シェリーに行ったことでケンカになったばかり。まさか今日も行っていたなんて言えるわけがない。

「あのね、パパとコーヒーやさんにいってきたの」

「コーヒー屋さんって、昨日言ってたあの喫茶店に行ってたの? 子どもをそんなところに連れて行くなんて」

「まぁ聞いてくれよ。あそこはおまえが思っているようなところじゃないって」

「ふん、どうせ私にはあなたのいうことがわかりませんよ」

 今まで平穏だった家庭に突然嵐の予感だ。とそのときのことであった。

「はい、ママ。これ、おねえちゃんがママにどうぞって」

 渉は手にしたクッキーを妻に差し出した。私は渉のこの行動にビックリした。さらに渉はこんなことを。

「あのね、ボクすごくワクワクしてたんだ。ママがこのクッキーをたべたときにどんなかおするかなって。ねぇ、はやくたべてみてよ」

 妻はちょっとしぶしぶではあったが、渉の懇願に負けて早速一つ取りだして口に入れた。

「んっ、おいしぃっ」

 みるみるうちに妻の顔が穏和に変化していくのがわかった。

「ね、これどこでもらったの?」

「あのね、パパといったコーヒーやさんのおねえちゃんからもらったの。またこんどおねえちゃんのところにあそびにいきたいなぁ」

「そうね、ママもこのクッキーを買いに行ってみたいわ」

 何がなんだかよくわからない。妻はあっという間に機嫌を取り戻したのだ。それどころかあれだけ拒んでいたカフェ・シェリーに行きたいとまで言ってくれた。この日の夜、渉が寝た後に妻はこんな事を言い出した。

「茂、ごめんね。私なんだか茂を取られたような気がしていたの。今まで私や渉と一緒にいるのが当たり前だったんだけど、突然それをコーヒー屋に浮気されたみたいな気がして」

 人の本音って聞いてみないとわからないものだな。もし私が浮気をしてたら、妻はそんなふうに思ってしまうんだろう。いくら普通の毎日が退屈だとしても、そんな形の刺激的な毎日だけはごめんだ。あ、でもこれはもし私が何かの趣味に没頭しても同じ事かもしれない。妻としてはその趣味に夫を取られた、という意識しか持てないだろう。

 自分が何を欲しいのか。刺激的な趣味というのは、普通の人生を捨ててまで没頭するようなものなのか。それとも今のままの普通の人生がいいのか。これを考えていたら、この日の夜はなかなか寝付けなかった。そんな思いのまま土曜日の朝を迎えた。

「なぁ、今日の午後なんだけどさ、この前言っていたあの喫茶店に行ってみないか?」

 私としてはかなり勇気を振り絞って出した言葉であった。あの日の夜、妻の思いは聞きはしたがひょっとしたらまだ嫉妬の気持ちが強いのかもしれないと思い、なかなか口に出せなかった言葉である。

「え、いいわよ。私もあのクッキーもっと欲しかったから」

 予想外にあっさりとした答え。これで安心してカフェ・シェリーに行くことができる。そう思ったら、マスターが紹介したいという人に対して急にワクワクしてきた。そしてこの日の午後。私は妻と渉を連れてカフェ・シェリーへ向かった。

「へぇ、ここは通ったことはあるけどあらためてみたら結構おしゃれなところね」

 いつもはショッピングセンターしか行かない私たちだから、こういった通りにはなかなか縁がない妻。

「ほら、ここだよ」

「二階にあるんだ」

 渉は待ちきれないのか、どんどん階段を走って上がっていき、先に店に入っていく。渉がドアを開いたときに、クッキーの甘い匂いがした。

「いい匂いね」

 妻はごきげんのようだ。しかし妻の気持ちを一瞬で変えてしまうなんて、あのクッキーには魔法でもかかっていたのだろうか。

「こんにちは」

「千葉さん、いらっしゃいませ」

 マスターがにこやかに私たちを迎えてくれた。窓際の席に目をやると、すでに渉がマイさんを独占していた。私は渉のいる窓際の席に行こうとした。が、ここでカウンター席にいる客を見たときに思わず足が止まってしまった。まさか、でもそれはないだろう。が、その客が私の方を向いたときにそれは事実だということがわかった。

「よぉ、茂」

「ま、真人…」

 そこにいたのは、私の高校生のときの同級生、真人であった。私とギターのデュオを組んでいた、あの真人だ。

「どうして真人が?」

「いやぁ、オレもびっくりだよ。マスターから茂の話を聞いてね。実はオレもマスターにモヤモヤとした気持ちを相談していたんだよ。そのときに、高校の頃にギターデュオをしていた話をしてたんだ。そしたらまったく同じ話を聞いたってことで、今日ここに呼ばれたんだよ」

 私はマスターの方を見た。マスターはにっこりと笑ってコーヒーを入れている。

「真人、おまえあれからは何をやっていたんだ?」

「オレは大学で工学部に入って、そのあと電機部品をつくる会社に就職したんだ。でもギターはときどき趣味で弾いているよ。たまにオリジナル曲もつくるんだけど、やっぱり作詞がイマイチでね」

「そうなんだ。オレは大学に入ってからギターからはすっかり離れたよ。今じゃ役所に勤めて、家族三人で普通に暮らしているよ」

「なんだよ、ギターはやってないのか?」

 真人からそう言われて、私はちょっと情けなくなった。ギターをどうして捨ててしまったのだろうか。もっと続けていれば、これを趣味として活動をやっていけただろう。

「千葉さん、シェリー・ブレンドでいいですか? 奥さんの分も入れておきましたけど」

「あ、マスター、ありがとうございます」

 妻は渉と一緒にマイさんとおしゃべりをしている。どうやらクッキーの焼き方の秘訣を聞いているようだ。私はシェリー・ブレンドに口を付けた。今日はどんな味がするのだろうか。

 口に含んだ瞬間、頭の中で何かがはじけた。言葉が嵐のように浮かんでは消え、そして一つの文章としてつながっていった。

「マスター、何か書くものありますか?」

「え、あぁ、ちょっと待って」

 マスターはあわてて紙とペンを差し出してくれた。私はそれを奪うようにマスターの手から取り、大急ぎでペンを走らせた。そして一通り書き終えたものを無言で真人に手渡した。真人はそれをじっと見つめる。そしてメロディーを口ずさみ始めた。

「あ~、ここじゃダメだ。マスター、悪いけどまた出直してくる!」

 真人はそう言ってコーヒー代をカウンターに置いて、私が手渡した紙を手に店を飛び出した。

「彼、どうしたの?」

 妻が驚いて私にそう聞いてきた。

「たぶんギターでメロディーを作りに家に帰ったんだろう。真人は曲作りに熱中し始めると自分の世界に入ってしまうから」

「ってことは、今千葉さんが書いたのは曲の詩なんですか?」

「えぇ、シェリー・ブレンドを飲んだときに言葉が洪水のように湧いてきて」

 久々に味わうこの気持ち。高校の頃に経験した、ひたむきに音楽を楽しんでいたあの頃を思い出した。そして冷めてしまったシェリー・ブレンドを再び口に含む。

「わぁ、なんだろうこの味。懐かしさもあるけれど、それと一緒によろこびとうれしさが湧いてくるような感じがしますよ。あ、またひらめいた」

 そうして私はふたたびペンを走らせた。無理矢理言葉をひねり出すのではなく、心の奥から自然と沸き上がってくる。何も考えずに頭に浮かぶままに言葉に書き落としていく。

「これ、見てくれないか」

 私は妻に書いた詩を渡した。

「どれどれ…ふぅん、これなかなかいいじゃない。ちょうど私たちの年代が共感するような言葉よね。今に不満を持ってしまってつい無い物ねだりをしてしまう。けれど今ここに幸せがある。これに気づくことが大事なんだってことがなんだかよくわかる気がする」

 妻は私の書いた詩を認めてくれた。

「なんだか今ようやくわかった気がするんだ。何もない、普通の生活。これこそが究極の幸せなじゃないかって。この前おまえとちょっとケンカしたろう。あの状態は普通とは違う生活になった。けれど刺激的な生活ってこんなのを望んでいるんじゃないんだって」

「あなた…」

「千葉さん、何か大切なものに気づかれたようですね」

「はい。私は今まで毎日が退屈だと思っていました。これはこれで不満はないけれど、何かもう一つ刺激が欲しいって。最初にここに来たときには、それをとにかく求めていまし。けれど今わかりました。刺激は与えられるものじゃない。どこからか降ってくるものじゃない。自分が持っているものの中からつくりだすものだって。そしてそれは日常のほんのささいなところに潜んでいるんだって」

「では千葉さんは何を見つけたのですか?」

「はい、真人と再会して自分が昔追い求めていた世界を思い出しました。音楽を通じて、自分が思っていることをメッセージにしたい。真人はそれを音というものに乗せて伝えたい。これは何も今までの生活を崩すことなくできることです。マスター、今日真人と再会させてくれてありがとうございます」

「あなた、これからも音楽続けていくの?」

「あぁ。確か実家にギターがまだ置いてあるはずだから、今度それを取りにいこう」

「うん、そうね。茂のギター聴くの楽しみだわ」

「そうだ、こんなアイデアはどうですか? いつか真人さんと千葉さんの二人でここでミニコンサート開くってのは」

「え、いいんですか?」

「もちろんですよ。このカフェ・シェリーはみなさんに楽しんでもらうためにあるのですから。私も楽しみですよ」

 このとき、胸の奥から何か熱いものがこみ上げてきた。感動、いやそのひとことでは語り尽くせない。おもわず目頭がジワッとしてきた。

 頭の中では私と真人がギターでセッションしている姿が浮かんできた。そんなにたくさんではないが、聴いてくれる人が目の前にいる。昔感じたあの気持ちが徐々に思い出されてきた。真人と二人で、か。早く真人にこのことを伝えなきゃ。

「あっ、しまった!」

「え、千葉さんどうしたのですか?」

「真人のヤツ、飛び出していったから連絡先も聞いてないぞ…」

「あはは、真人さんは思いこんだらすぐに行動する人ですからね。大丈夫ですよ。あと三十分もすれば、ギター片手に戻ってくるはずです」

「そういやそうだった。あいつは何も考えずにすぐに行動するタイプだからなぁ。じゃぁもうしばらくここにいるか」

「私もそうしてくれると助かるわ。マイさんが今からクッキーを焼くって言っていたから、お手伝いしながら作り方を教わろうかと思っていたの」

 妻も自分のワクワクをカフェ・シェリーで見つけたようだな。それから妻はマイさんにクッキーの作り方を教わりはじめた。土曜日の午後は時々クッキーづくりの助手としてここに通うことになるらしい。そうしているとけたたましく店のドアが開いた。

「茂、できたぞ!」

 そこにいたのはギターを片手にした真人。

「マスターの言う通りでしたね」

「本当だ」

 私はマスターと顔を見合わせて思わず笑い出した。

「おい、何が本当なんだよ?」

 真人はキョトンとした表情。こうして土曜日の午後の時間が過ぎていった。そして…


「今日はこんなにたくさんの方に来ていただいてありがとうございます。思えばこうやってこの舞台に立たせていただけるのも、ここカフェ・シェリーでの出会いがあったからこそです」

「そうだそうだ、オレに感謝しろよ!」

 一番目の前に座っている榊さんからの声援だ。私は今、真人はカフェ・シェリーの特別ミニコンサートの舞台にいる。あれから一ヶ月間、二人で曲を作りここにいる。久々のギターなので結構練習を積んだが、その時間は楽しいものだった。

「では一曲目です。これは私がここに立つきっかけとなった出来事をつづったものです。聞いて下さい。『普通の人生』です」

 これが私の普通でない普通の人生の始まりとなった。


<普通の人生 完>

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