職場環境の件について
あの戦いから十日が経過した日のこと。ロードリックは椅子に腰掛け、卓上に肘をついた姿勢で頭を抱えていた。
身を置くのはおよそ二ヶ月ぶりに帰還したブラッドリー城内、黒豹騎士団長の執務室である。
——どうしてこんなことになったんだ?
おかしい。絶対におかしい。罪に問われなかったばかりか、女王直々に領主を務めるよう打診してくるなど。
恐らくファランディーヌはいずれはマクシミリアンを復帰させるつもりなのだろう。しかしいくら短期間といえど、領主だなんて自分には荷が重すぎる。というか主に胃のキャパシティが限界を超えている。
あ、駄目だまた痛くなってきた。一体いつになったらこの胃痛から解放されるんだ。もういっそのこと罪に問われて処刑なり島流しなりしてもらった方が余程——。
ことりと卓上に何かが置かれる音を聞いて、ロードリックは徐に顔を上げた。
目の前に突如として薬瓶が出現していた。戸惑いながらも視線をさらに上へと向けると、簡素なセーターとスカートの上から白衣を纏ったリシャールがいる。
「恐れながら、閣下は胃がお悪いのですよね?」
「……なぜ、それを」
胃が悪いことは一部の部下にしか明かしていないはずだ。体調を言い当てられたロードリックは、惚けた顔を晒してしまった。
リシャールは長年性別を偽って黒豹騎士団に所属していたことを不問とされ、今は薬剤師として城に仕えている。性別を自らの意思で公表したリシャールだが、団員たちは驚くだけで怒ることもなく、今や凄腕の薬剤師としてじわじわと評判を高めている最中のようだ。
ちなみに魔獣は既に元の住処へとお帰り頂いた。リシャールは寂しがっていたようだが、あんなに大きい獣を飼う設備はどこにもないのだ。
「実はネージュさんからお電話を頂いたんです。口外しないほうが良いかもと前置きの上、いろいろなことがあって胃に負担がかかっているのではないかと」
「……あのおせっかい焼きめ」
ロードリックは憎まれ口を叩きつつも苦笑を浮かべた。まったく、これだから始末に負えないのだ。
「ありがたく貰っておく。しかし、何故彼女はお前に電話をかけてきたんだ」
「実は……ネージュさんとは以前に偶々お会いしたのですが、私は彼女が騎士だとはつゆ知らず、雑談を交わしまして」
「何だ、そんなことがあったのか」
「はい。ネージュさんは私の正体に見当が付いていたようで、名を明かさなかったことを謝って下さいました。リシャールさんが女性だなんてびっくりです、とも」
相変わらず目元は隠れたままなので、唯一露出した口元だけが笑みを描く。
リシャールもまたマクシミリアンに忠誠を誓う一人。この場を離れることは望まないだろうから、ネージュと顔を合わせる機会は少ないのかもしれない。
けれど良い友人同士にでもなってくれたらいいと思う。ロードリックは訳ありな部下たちを見ていると、時折親心のようなものを感じるのだ。
「話せて良かったな。私からも礼を言っておく」
「はい。ご安心なされると思いますよ」
笑みを交わしたところでまた来客があった。きちんとノックをして入室してきたのは、山のような書類を抱えたミカだった。
「ロードリックさん、こちら領主向けの認可書です! この付箋を境に上が急ぎ、下がそれ以外です。では、よろしくお願いします」
「まて。何故お前が秘書官のようなことをやっているんだ」
書類を机の上に積み上げるや否や踵を返そうとしたミカを慌てて引き止める。彼の仕事が早いことは知っていたが、領主の執務まで手伝う義理はないはずだ。
「それは、マクシミリアン様がいつお戻りになってもいいように頑張っているんですよ。当たり前じゃないですか」
ミカはしれっと述べたが、ロードリックは驚嘆するあまりに瞠目した。
マクシミリアンがいなくとも自主的に動けるような責任感を持っていたとは。子供子供と思っていたが、いつのまにか成長していたのかもしれない。
なんと言ったらいいのかわからず黙りこくっていると、どこからか短い笛の音が聞こえてきた。
恐らく騎士団が基礎練をしている音だろう。何とは無しに窓辺に立ってみると、そこには驚きの光景が広がっていた。
「……ミカ、リシャール。私には、イシドロが先頭で走っているように見えるのだが」
訓練場を周回する何十人もの騎士たちの一番前、どう見てもイシドロが走っている。
騎士たちはなんとか彼に付いていこうと必死になっているようで、皆それぞれ顔を歪めていたが、随分と士気が高いように見える。
そう、イシドロは実のところ後輩に慕われる素質を持っている。いつもはめんどくさそうにあしらっているが、気が向けば手合わせをしてやることもあるそうで、その強さに騎士たちは虜になってしまうのだ。
「ああ、最近あの感じなんですよ。何でもマクシミリアン様と手合わせできないから暇だとかで。まずはほったらかしにしていた自分の部下から鍛えることにしたそうです」
「何なんだあいつの気まぐれぶりは!? 猫か何かなのか!」
「そうなんじゃないですか? どうでもいいですけど」
ミカが適当に相槌を打つと、その隣でリシャールが小さく笑う。
眼下では打ち込み稽古が始まっていた。汗だくになって切り掛かってくる部下たちを、イシドロが片手でいなしている。
結局のところマクシミリアンがいないほうが甘えが消えるというのは皮肉な話だが、それだけかの主君が慕われているということなのだろう。
復讐が成されないまま終わって良かった。この臣下たちも、仕える者を失えばどうなっていたか分からないのだから。
以前よりも働きやすそうな環境を前に、ロードリックは苦笑をこぼした。
——マクシミリアン様、どうやら連中もまだまだ力を貸してくれる気のようです。ですから早くお戻りくださいますよう。




