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暗闇は終わる

 マクシミリアンには最早どうしたいのかもわからなかった。

 結局のところカーティスの言う通りだったのだ。何もかもを犠牲にする覚悟が無いのなら、最初から復讐など企てるべきではなかった。

 何と中途半端で、意気地のないことだろう。

 そして余りにも身勝手だ。娘を育てる義務を放棄したばかりか、あの子の大切な主君を殺そうとした。それなのに、あの子にだけは生きていて欲しい、などと。

 血が流れていく感覚はあるし、ずきずきと酷く傷む。自身の罪を鑑みれば温いほどだと、マクシミリアンは途切れゆく意識の中で自嘲を浮かべた。



 *



 目を覚ましたら森の中にいた。昼中の日差しが木漏れ日をつくり、そよそよと心地の良い風が吹いている。

 ああそうか、夢か。

 マクシミリアンは独りごちて歩き出した。あの程度の怪我では死ねないことは間違いないので、これは積年の苦しみが作り出した優しい幻想なのだろう。

 それにしても妙に現実感のある夢だ。木に手を置いてみれば温度を感じるし、風が頬を撫でていく感覚もある。おかしな話だと首を傾げたところで微かな声を聞き留めた。その心地よく耳をくすぐる笑い声が、あまりにも聞き覚えのあるものだったので。

 マクシミリアンは衝動的に走り出した。

 土を踏みしめ蔦を掻き分けて、森の奥深くへと進んでいく。肩に葉が降り積ろうと、枝の先に服が引っかかろうとどうでもよかった。

 だって、そんな、嘘だ。強い力を持ったリシャールの術でも駄目だった。夢ですら会えなかったんだ。余りにも憎悪に身を焦がし過ぎて、この十八年間悪夢ばかりを見てきた。

 この期待が裏切られたら今度こそ壊れてしまうかもしれない。高揚と恐怖が綯い交ぜになった胸の内を抱えたまま、マクシミリアンはもどかしく駆ける。

 そうして森の中にぽっかりと空いた広場にたどり着くと、そこにいる人物を目にするなり赤い瞳を大きく見開いた。

 ハニーブロンドに翡翠の瞳。初めて会った時、こんなに綺麗な人がいるのかと思った。怒ったところなんて見たことがないし、いつもにこにこと微笑んでいて。

 十八の時、死という絶対の壁に隔たれて二度と会えなくなった妻。ハリエットはかつての姿そのままに、マクシミリアンの目の前にいた。

 お気に入りだったクリーム色のドレスを身に纏い、呑気に笑いながら小鳥に餌を与えている。パン屑だろうか。見た目によらず豪快な性格は相変わらずのようで、目一杯鷲掴みにしてはばっさばっさと放り投げていく。


「美味しい? いっぱい食べて、ね……」


 ハリエットはふと顔を上げると、楽しそうな笑みを凍りつかせてしまった。薄紅色の頬から見る見るうちに血の気が失せてゆき、白くなった唇が声もなく「嘘」と呟いたのがわかった。

 怒っているのだろうか。それとも失望して、もう夫のことなど思い出したくもなかったのだろうか。

 それでもマクシミリアンは会いたかった。心が焼け焦げてしまいそうなほどに、会いたかった。


「マクシミリアン!」


 だからハリエットが己の名を呼んで抱きついてきても、抱きしめ返すまでにしばしの時間を要した。

 温かい。夢なのにどうしてこんなに温かいのだろう。

 彼女を棺に納める直前、冷たくなった体を抱きしめた。かつての凍えるような記憶が、嘘のように塗り替えられていく。


「どうして……貴方、死んでしまったの? まだ、若いのに」


 腕の中のハリエットが顔を上げた。白く薄い手でマクシミリアンの頬を挟み、悲しそうに眉を下げる。

 君こそが若かったじゃないかと、マクシミリアンはもう少しで叫びそうになった。


「私に会うためとか、言わないわよね」

「死んではいないと思うが……会いたかったのは、当たってる」


 マクシミリアンは掠れた声で呟くと、頬に触れる手に己のそれを重ねた。するとハリエットは小さく微笑んだようだった。


「貴方が前に一度呼んでくれた時は、まだ怖くて、応えることができなかったの。嬉しかったのに……あとで凄く後悔したわ」

「……怖い?」

「置いて行ってしまったから、怒っているんじゃないかと思って。それに、私……」


 汚れているから。

 囁くように告げられた言葉は、微かな笑みを含んでいるのに儚く聞こえた。

 気付けばマクシミリアンは、腕の中の華奢な体を力一杯抱きしめていた。


「汚れてなんかない、そんなはずないだろう! 俺は、君が側に居てくれることを何よりも望んでいたのに……君のことを、守ってやれなかった。すまなかった、ハリエット。すまなかった……」


 目の奥が疼いて熱くなり、きつく閉じた瞼から涙が溢れ出して頬を伝っていく。男が泣くなんてみっともないとわかっていたが、それでも止められなかった。

 彼女のことを愛している。どれほど後悔しただろう。生涯をかけて、己の全てを賭してでも守るべき人だったのに。


「泣かないで、貴方のせいじゃないわ。私が、弱かったから」


 ハリエットが身をよじって顔を上げた。彼女もまた翡翠を潤ませていたが、困ったように微笑んでもいた。


「それは違う。君が苦しんだのは、俺が守りきれなかったからだ」

「いいえ。どれほど苦しくても、死んではいけなかったのよ。だって、あの子のことを置いてきてしまうなんて、母親失格だもの」


 後悔の滲んだその言葉に、マクシミリアンは全身を強張らせた。

 夫の様子に気が付かないハリエットは、ここで再会してから一番明るい声で問いかけてくる。


「ねえ、私たちの娘はどうしているの? やっぱり私に似てよく食べるの? そうだわ、もうお嫁に行ってしまったのかしら。きっとさぞ綺麗に育つんだろうって……マクシミリアン?」


 最愛の妻が不安そうに首をかしげるのに、マクシミリアンは何の言葉も返すことができなかった。

 知らない、何も。親友に押し付けて見て見ぬ振りをした。妻が遺した最後の贈り物を慈しむことができなかった、最低の父親だ。

 気付いた時には全てが遅く、手の内には妻の面影を残した赤ん坊だけが残されていた。同じ色の瞳で見つめられると苦しみが湧き上がってきて、どうしようもなかった。

 二度の復讐を終えても満たされることはなく、絶望は闇を濃くするばかり。己の無能を呪い、平穏に満ちた世の中を呪い、ついにはなんの関係もない少女に刃を向けて。


「どうしたの? あの子に、何かあったの……?」


 ハリエットが望んだのは、我が子が幸せに育つことだけだったのに。

 そんな当たり前の望みにすら思い至れないまま、俺は。


「……いや、幸せに育っている。間違いなく」


 そう、あの男が育てたのだから。

 幸せでないはずがないと、マクシミリアンは確信している。


「けど、ハリエット……駄目なんだ、俺は。君に謝らなきゃいけないことが、沢山ある」


 血を吐くようにして言葉を搾り出したマクシミリアンを、ハリエットは優しい眼差しで見つめていた。

 彼女は解っているのかもしれない。弱いところのある夫が、自らの死後に何事もなかったかのように生きることは難しかったのだろうと。


「マクシミリアン、あのね。神様が言っていたんだけど、ここは魂の待機場所なんですって。生きている時に苦しいことがあった人は、傷が癒えるまでどれだけいても構わないって」

「そうか。神ってのは案外優しいんだな」

「ふふ、そうよ。だからね、沢山話しましょう。貴方が現世に帰るまでの時間、いくらでも謝罪を聞いてあげるわ」


 ハリエットはそう言って微笑んだ。以前と何ら変わることのない華やかな笑みが胸に迫って、唇をひき結んで衝動をやり過ごす。

 そうして、マクシミリアンはようやく笑った。それは実に十八年ぶりとなる、なんのてらいもない少年のような笑みだった。


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