願いごと
白い空間に佇むネージュの眼前にかの女性がいる。
凡人の頭ではなかなか思い出せなかったけれど、アニメショップで出会った綺麗なお姉さん。
「あの子と友達になってくれてありがとう。そして、みんなを助けてくれて、ありがとう」
ああそうか、あなたは。
何か言えば涙が溢れてしまうのがわかるから、ネージュは何の言葉も話すことができなかった。彼女の前世の名前を知っているのに、呼びかけることすらも。
くしゃりと顔を歪めたまま、それでも顔を背けないでいると、彼女はとても幸せそうに微笑んだ。ふわりと華奢な姿が霞んで白い世界に溶けていくのを、ネージュは最後の一欠片まで見つめ続けていたのだった。
*
「やあ、お帰り」
気付いた時にはネージュはあの神殿のような空間にいて、数歩離れたところには最早見慣れた神が鎮座していた。
「……ただいま」
心の中は静まり返っていて、今得たばかりの真実に揺さぶられることもなく平穏を保っていた。
——ここはゲームの世界なんかじゃなく、シナリオも主役も脇役も存在しない、本物の現実世界だったのね。
驚きはあっても騙されたという憤りは無い。ああ良かったと、それだけの感慨が胸中を満たして、ぽかぽかと温かな心地がする。
地球へと転生した「幸なき彼女」は消えたのだ。ファランディーヌが二度とこの世界に生まれたくないと思う程の、悲劇的な未来は消滅した。その事実さえあれば、ネージュにとっては十分に過ぎる。
「そなたは輪廻という理を理解した上で、この世界で生きたいと強く望んだな」
「あはは……そりゃあね。死にたくはない、よね」
「で、あろう。そうとなれば魂だけになったとしても、もうあちらの世界に還すことはできまいよ」
やっぱり人情味のある神様だ。問答無用でネージュを消し去ろうとした、造物主とやらとは全然違う。
「神様、私のこと守ってくれたんだね。随分怒られたんじゃない?」
「いや、酷かったぞ。つい先程のことだがな、かつてないほど怒られた。まあ仕方があるまいな……我の独断で輪廻を捻じ曲げてしまったのだから」
「むこうの世界にはもう半分の私がいるんだね」
「ああ、その通りだ。気になるか?」
「ううん。お父さんとお母さんが悲しんだわけじゃないなら良かった。ここで二十二年生きてきた私は、ここにしかいない私だから」
前世だと思っていた日本での記憶は、実のところ自分自身だったらしい。
その事実に驚きこそすれ、嫌だとは思わない。二十二年の人生を歩むうちにネージュもまた成長し、唯一の人間になった。もう一人の自分というよりも、魂を分かつ姉妹といった感覚の方が正しい。
「それでは問おうか。そなた、願い事は考えてきたのか?」
「なんだ、その約束は本物だったの?」
「無論だ。それくらいのことはしなければ、神の名が廃るというもの」
神は白いソファの形をした石の上でふんぞり返っている。傍にゲーム器が置いてあるあたり、傍若無人でニートなところはこの神の本質のようだ。
ネージュは顎に手を当てて、しばしの間沈黙した。
特に欲しい物など思い当たらない。今の暮らしは身に余るほどに幸せだと思っている。この神の語ったところを思い返せば、世界平和なんてものを願っても実現できるわけでは無いみたいだし……。
少しだけ不安なのは何故だろう。考えてみれば、心に潜む棘の正体にはすぐに思い至った。
マクシミリアン・ブラッドリー公爵。十八年という月日を復讐に費やした男が、そう簡単にこの結末を受け入れられるとは思えない。
「……ブラッドリー公を説得できないかな」
「何?」
神は意外そうに片眉を上げた。もっと自分のことについて願ってはどうかと言いたげな表情だったが、ネージュは無視して思考を重ねていく。
やはりマクシミリアンの説得をして、初めて役目を終えたと言えるのではないだろうか。
彼が苦しみから解放されない限り、捕らえられていても騒乱の可能性は燻り続ける。女王を良く思わない誰かが担ぎ上げるかもしれないし、彼自身も復讐を果たそうと再び動き出すかもしれない。
そんなことがあれば多大なる苦労が水の泡だ。皆にはこの先もずっと笑っていて欲しいのに。
「あ、待って思いついたかも。納得した上で復讐をやめてもらう方法」
「そなたのお人好しも大概よな。それでは、聞かせて貰おうか」
「えっとね。可能かどうかわからないけど……」
ネージュはその案について話して聞かせた。神は初めこそ微笑んで聞いてくれていたのだが、どんどん難しい表情になって、最終的には腕を組んで溜息をついた。
「……不可能では、ないな。ただしその願いを叶えるには、一時的にブラッドリー公の魂を「奪い」、ことが済めば現世へと「与える」必要がある。つまり、奪うことにおいては我が父に協力を要請せねばならない」
「うわ、やっぱりそうなんだ。怒らせちゃったし、難しいかな?」
予想通りの返答に、ネージュは困り果てて首を傾げた。
駄目ならやはりマクシミリアンを直接説得するしか無いのかもしれない。シェリーと対話を重ねて、カーティスとも面会して。
「いや、一つ方法がある。対価としてそなたの持つものを一つ差し出せば、父上も無下にはできぬだろう。我が父は公平なお方ゆえに」
持つもの。平凡な己は何か良いものを持っていただろうか。
「魔力、とか……?」
神が苦しげに眉をしかめたところを見るに、どうやらこの答えは正解だったらしい。
ネージュは儚く微笑んだ。魔力を対価に願いが叶うなら、安いものだ。
「魔力がなくなれば騎士ではいられなくなるぞ。地球に暮らしていた頃からの夢だったのだろう」
「それは、みんなに生きていて欲しくて、騎士になれば守れると思ったから。私の願いは叶ったし、もう良いんだ」
「そなたはこの世界で生きていく中で騎士そのものに憧れた。他者のために自分を犠牲にするなど、おかしな話だとは思わないのか」
厳しく眉をしかめて問いかけてくる神に、ネージュはこれまでの思い出を振り返ることになった。
苦しい子供時代。騎士に憧れるきっかけとなった出会い。
仲間と切磋琢磨して、昇進を重ねて。
謀反が起きてからは必死で戦った。
愛しい人たちを、守りたいと思った。
苦しいことも多かったけれど、充実した日々を過ごす中で学んだことがある。
ネージュは澄んだ琥珀の瞳で真っ直ぐに神を見つめた。
「違うよ、神様。騎士は心のありようが一番大事なんだ」
「心のありよう?」
「そう。騎士とは忠義をもって事を成す者。私情は挟まず、誰にでも公平に心を配り、礼節を重んじ、弱者を守り、寛容で誠実にして高潔であらねばならない。……つまり、苦しむ人を放っておくのなら、その時点で私は騎士ではなくなってしまうってこと」
そう、たとえ身分が騎士ではなくなったとしても。
心のありようを忘れずにいれば、その者は騎士足り得るのだ。
——騎士じゃなくなったら、もうあの方の近くにはいられないかもしれないけど。
そこまで考えついた時だけ、心の奥底がずきりと痛んだ。
しかし自分のことを優先すれば、それこそ彼に顔向けできない。だからこれでいい。寂しさは感じるけれど、この選択に後悔はないと信じている。
ネージュは溌剌と笑って、言葉を失った様子の神に最後のダメ押しをした。
「それくらいのことはしないと神の名が廃るんでしょ? 頑張って、父上様を説得してね」
神はしばらくの間沈黙した。
やがて小さな溜息をついた頃には、いつもの不遜な態度はすっかり鳴りを潜めていて、その美しい顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでいたのだった。
「良かろう。やはりそなたでよかった、ネージュ」
最後に均整のとれた唇が紡いだのは、どんな言葉だったのだろうか。
聞き取らないうちに周囲が白く霞んでいく。生きているうちは二度と会うことのない相手との別れは案外あっさりとしていたが、それもあの神様らしいとネージュは笑った。




