幕引きは如何に ②
「シェリー……!」
名前を呼んでも返事が返ってくることはなく、ネージュはただその場に立ち尽くしていた。
何が起きたのかを理解したくない。冷や汗が滲んで目眩がする。これまで感じたことのない程の恐怖心に全身を支配されたネージュは、蒼白になった顔を懸命に上げて魔法陣の向こうに視線を凝らした。
今すぐ防御魔法を解いて、この煩わしい土煙を風魔法で吹き飛ばしてしまいたい。永遠にも思える時間は案外短かったようで、ミカが呪文を唱える声が響いて曇った視界が急激に晴れる。
そこに広がる光景を目にした瞬間、ネージュは声もなく目を見開くことになった。
シェリーは無事だった。少しの傷も負わないまま、その美しい翡翠の瞳を驚愕に丸くしている。
それもそのはずだ。何故ならシェリーの周囲にはマクシミリアンによる防御魔法が施されていて、それなのに己の剣は守ってくれた男の腹を貫いていたのだから。
「どうして……」
震える声で素直な言葉を漏らした彼女と違って、カーティスの瞳は凪いでいた。こうなることを予期していたわけではないだろうが、驚きを感じていないのはこの実の親子との長年の付き合いがもたらしたものなのだろう。
ネージュだって知っていた。シェリーが時折自身を顧みないような無茶をすることを。
彼女はいつも一生懸命で、ファランディーヌを守ることを一番に考えている。敵に隙が生まれたのなら、命を賭してでもそれを突きに行くことは予想がつくはずだったのに。
カーティスは大きく展開した防御魔法を解くと、剣を握るシェリーの手に触れてそっと離させた。
マクシミリアンは特に痛みなど感じていないかのように、じっと十八年ぶりの再会を果たした我が子を見つめている。ふと彼の優美な唇の端が吊り上がった。明らかに苦悩の入り混じったその微笑みは、一体誰に向けられたものだったのか。
一切を語ることなく、マクシミリアンは重い音を立てて剥き出しの地面に沈み込んだ。
時折瓦礫が落ちる音だけが響く空間は静かで、空中に漂う埃の煌めきが張り詰めた空気をゆっくりと掻き回している。目の前の現実を飲み込めていない者が大半のこの場では、すぐに動き出そうとする者は皆無だ。
迎えてみれば呆気ない幕切れだった。
シェリーは何も言えないままその光景を見つめ、ミカもまた己が作り出した結末に呆然としている。どうしてこうなったのかを理解できないのはこの二人だけなのだ。
「マクシミリアン様!」
ロードリックが色を失くして叫ぶ。慌ただしく駆け寄って主君の顔を覗き込んだ彼は、すぐに治癒魔法をかけ始めた。
マクシミリアンはすっかり意識を失っていたが、腹の傷ならそうそう即死にはなり得ないので、治癒魔法さえ施せば何とかなる。カーティスが無言のまま友の腕に魔力封じの魔具を取り付けたのを見届けて、ネージュはか細く息を吐いた。
そう簡単に実感が湧くものではなかったし、まだ全てが終わったわけではない。部下たち、そして民衆の被害状況。それら全てを確認するまで安心などできない。
それでも一番の山場は超えたのだ。謀反は果たされないまま、マクシミリアンを捕らえることができた。
「女王陛下、畏れながら拡大音声の魔法をおかけします。戦闘の終結を王都全域にご通告下さいますよう」
カーティスが静かに跪く。混乱しているであろう娘を気遣ってやりたいという気持ちを押し殺して、まずは自身の仕事を果たそうとしてるのだ。
「ええ、わかっているわ。すぐに魔法をかけてちょうだい、カーティス」
女王はゆったりと微笑んだ。その柔らかな微笑みは、臣下を労わる気持ちが滲んでいるかのようだった。
*
フレッドは疲労を訴える体を無視して部下を担ぎ上げて空を飛び、救護所へとやってきたところだった。
街の東側に設置された救護所では、第四騎士団の団員たちが怪我人の合間を慌しく駆け回っている。患者の殆どは戦闘による怪我を負った騎士たちだが、逃げる際に傷をこさえた民も少しだけいるようだ。この規模の戦闘が繰り広げられたにしては少ない被害に首を傾げつつ、フレッドは部下を空いている簡易ベッドの上に降ろしてやった。
「イーネル副団長、どうなさいましたか」
駆け寄ってきたのは副団長のヤンだった。フレッドは砂埃に汚れた顔をぬぐいつつ、血に染まった腹を抑えて呻く部下の側で頭を下げる。
「レンフォールド副団長、こいつを助けてやってください。俺はもう行かないと」
「待ってください、貴方にも治癒魔法をかけなければ」
「俺のことはいいんです、魔力が勿体無いんで気にしないでください。それじゃ、よろしくお願いします」
もう一度会釈をして走り出そうとした時。鈴の音の声が響き始めたのは、正にその瞬間のことだった。
『私の愛すべき民らに告げる。今この時を持って、ブラッドリー公爵を捕縛したことをここに宣言する』
怪我人も、第四騎士団員も、その場にいた全員が反射的に顔を上げた。そうする意味が無いことをわかっていても、声の主が誰なのかを悟った者たちは自然と片膝をついて最敬礼の姿勢を取る。フレッドもまた礼を取り、急ごしらえのために剥き出しになった土の地面を見つめた。
『両陣営は直ちに戦闘を中止し、現場指揮官の指示に従って負傷者の救援に徹せよ。私は一連の戦闘によって忠誠を示した我が騎士に深い感謝を表明し、また不安な時を耐え忍んだすべての国民を労い讃えるものとする……はあ。なんかもう面倒くさくなっちゃった』
しかし朗々と謀反の終結を告げる声が、突如として茶目っ気を含んで重々しい空気を吹き飛ばしていったので、フレッドは思わず顔を上げてしまった。ヤンも随分と驚いたようで、同じように顔を上げた彼と丸くした目を見合わせる。
『いいこと? 私の騎士たちだけじゃなく、黒豹騎士団もすぐに剣をしまいなさい。これ以上の戦闘は許さないわよ。私の国で内紛が起きて死者が出るだなんて冗談じゃないわ。それと』
女王のざっくばらんな呼びかけはまだまだ続く。呆気にとられた騎士と怪我人達の向こうではエスターが笑っていた。桜色の髪を揺らして、さも面白そうに。
「ふふ。女王陛下らしいお言葉です」
***
『怪我は一刻も早く治療してね。敵味方関係なく、重症の人から治してあげて。あなた達はもとは協力関係にもなれたんだもの、それくらいできるでしょう?』
その言葉は夜空に響く。雪雲の切れ間から顔をのぞかせた星が、答えるように瞬いている。
『王族の争いに巻き込んでしまってごめんなさい。戦ってくれてありがとう』
響く。
『これからのことは、苦しむ者がいないように精一杯計らうから、どうか信じてちょうだい』
響く。
『皆のことを、我が民の全てを愛しているわ。以上、ファランディーヌより!』
——響く。
その堂々とした宣言を聞いた騎士たちは一様に手を止めて苦笑をこぼした。町を東へと出たところに避難した民衆も、どこか気の抜けたようなため息をつく。
各々近くの誰かと顔を見合わせて笑ったり、理解が及ばないまま呆然と口を開けていたり。それは彼女を主君と戴かない黒豹騎士団員も同じで、これ以上剣を振るおうとする者は誰一人としていなかった。
こうして、世紀の謀反劇は幕を閉じた。それは死者を一人も出さずに終結を迎えた、世にも珍しき大逆であった。




