持つべきものは優しい上司 ③
確かに電話は入れておいたから、カーティスが居場所を知っていたのはわかる。
しかし迎えに来るなど想像しうる範囲を軽く超えていると思う。アドラス家への短い道程を歩きながら、ネージュは隣を歩く端正な横顔を恐る恐る見上げた。
「ご足労頂きまして、申し訳ありません……」
「私が勝手に来ただけだから、気にしないでいてくれると嬉しい。むしろ早過ぎたかな?」
「そのようなことは! 丁度後片付けも終わったところでしたので……!」
「そう、それなら良かった。余計なお世話かと思ったけど、夜道は危ないからね」
貴族のタウンハウス街は夜になると極端に人通りが少なくなる。とは言え万が一チンピラに絡まれるようなことがあっても撃退できることは、カーティスなら百も承知のはずだ。
それなのにわざわざ来てくれた。他者から見れば小さな出来事かもしれないが、ネージュにとっては胸の内を喜びで満たすのに十分に過ぎた。
「閣下は……なぜ、こんなにもお優しいのですか……?」
気付いた時には、悲壮な色を纏った疑問が口から飛び出てしまっていた。
ネージュは何もかもが信じられないのだ。カーティスが告げた想いも、今この瞬間の幸せも。
「どうして、そんなに不安そうな顔をしているのかな」
カーティスがふと足を止めて、暗闇の向こうから空色の視線を投げかけてきた。
釣られてネージュも歩くのをやめ、閑静な住宅街の一角で二人向き合う。
「……私、は。皆に生きていて欲しいのです。私の選択のせいで誰かが傷ついたり……し、死んでしまったりしたらと思うと、どうしてもっ……どうしても、怖いんです」
転生したという現実そのものが、今更のように胸を締め付ける。
この先どうなるのだろう。これ以上シナリオが歪んだら何かが起こるかもしれない。もし彼の気持ちを受け入れたら、想像もしないような恐ろしい結末に導かれるのではないか。
未来のことは神にすらわからない。だからこそ怖い。受け入れるのも、否定するのも。
「私のせいで閣下に、万が一のことがあれば。私は、どうしたらいいのですか……?」
嘘偽りのない不安を語る声は、すっかり震えて掠れてしまっていた。
カーティスからすれば意味のわからないことを言っている自覚はある。未来を変えたいのならそうならないよう動けばいいだけの話で、惚れた腫れたは関係ない。
ネージュだけが知っているのだ。たった一つの受け答えでシナリオが分岐する、死亡フラグ満載の過酷な乙女ゲームの世界であることを。
カーティスは視線を合わせたまましばしの間沈黙した。再び口を開いた時、その表情が示したのはいつもの柔らかい微笑みだった。
「以前から、そんな気はしていた。君は未来を見たこと以上のものを抱えているんだね」
ネージュは唇を噛み締めて俯いた。こんな時でも笑みを失わない彼の優しさを、直視する事が出来なかった。
「全て話してくれたなら、守ってやれるのにな。……けど、君はそうはしないんだろう」
テレーズの言葉が脳内を木霊する。
ネージュがどうしたいか、それだけのために決めていいのだと彼女は言った。この恐れも不安も、使命すらも全て無視してどうしたいのかを考えてみれば、願いなど一つしか残らない。
ただこの想いだけを伝えることができれば良かったのに。
それができたならネージュはきっと幸せになれた。一時の夢だとしても、この身には過ぎたるほどの幸福を享受する事ができたはずだった。
しかし自らの存在の不確かさがそれを許さない。皆を救わなくてはならないのだ。シナリオの終わりである時間軸にたどり着くまで、この身に絡みつく不安が消え去ることはないのだろう。
「まあ、無理もないか」
しかしカーティスの放った声はからりとした明るさに満ちていた。鬱々とする胸の内に当てはまらないほどの軽やかさに、ネージュはしばしの間瞠目してしまう。
「急ぎすぎた自覚はあるよ。だから待つと言ったわけだし、信用がないなら努力させてもらうとしようか」
「あの、閣下? 何を仰って……?」
「君は気付いているのかな。先程から君が話してくれたことは、この戦いを無事に終えたら貴方の気持ちを受け入れる、と言っているように聞こえるのだけど?」
「えっ」
まったく予期せぬ指摘をされて、ネージュは間の抜けた声をもらした。
そう、確か。私の選択のせいで誰かが傷付くのが怖い、閣下に万が一のことがあったらどうしたらいいのですかと、そのようなことを言ったのだったか。
——それは裏を返せば受け入れたいのに恐怖心が勝るという意味でしかなく、つまりは想いを伝えたようなもの……?
ネージュは鋭く息を呑むやいなや、顔を茹だったように赤くしてしまった。
本当にそろそろどうにかならないだろうか。誰かこの間抜けぶりを叩き直して欲しい!
「あのっ、それはですね!……その、あれなんです!!!」
「ああ、わかったわかった、今はこれ以上は聞かない」
楽しげに苦笑する表情があまりにも魅力的だったので、ネージュは羞恥心も忘れて目を奪われてしまう。すると大きな手が伸びてきて、まるで宝物にでも触れるようにして前髪をよけて。
露わになった額に柔らかな温もりが触れたのは、ほんの僅かな時間のことだった。
「聞かせて欲しい。この戦いが終わったあとに」
優しく細められた空色の瞳が近い。今しがた額に触れたであろう薄い唇も、今までのどんな時よりも間近に見える。
心音が彼にも聞こえてしまうのではないかというほどに大きく鳴り響いていた。あまりのことに全身を硬直させたネージュだが、何か答えを返さなければならないという習い性でなんとか頭を縦に揺らす。
するとカーティスは驚いたように目を丸くした。珍しくも無防備なその表情はしばしの時間の後に輝くような笑みに変化する。
その笑顔が心からのものだとわかってしまったから。
ネージュは胸の内を落ちつかなくさせる。不安だけではないそのざわめきを持て余したまま、二人は屋敷への帰路を歩み始めた。




