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持つべきものは優しい上司 ②

 アイスグレーの瞳がじっとこちらを見つめている。その色に全てを見通すような透明感を見て取って、ネージュはココットを洗う手に力を込めた。

 自分らしい答えは何だろう。いないので紹介してくださいよと笑っておく、そんなところだろうか。


「え、と……」


 そこまで考えついたというのに、口は少しも回ってはくれなかった。

 嘘をつくのは辛い。自らの情けなさを実感している今は特に。

 テレーズは目の前のひよっこが表情に陰を落としたのに気付いたらしく、どこまでも柔らかく微笑んでくれた。


「いらっしゃるのね」

「……実は。近頃ずっと、そのことについて悩んでいて」


 こうして打ち明けてみれば、誰かに話を聞いて欲しかったのだと実感が湧いてくる。

 シェリーにはかつて「そんな人ができたら相談する」と伝えたのに、結局言えないままになってしまった。

 言えるはずがなかったのだ。あの優しい友達を悩ませるようなことを。


「私には、とても大事な仕事が課せられておりまして。それが終わるまでは、自分のことにかまけている場合ではないんです。それ、なのに……好きだと、気付いてしまって。しかも、絶対に釣り合わないような方で」


 手の届かない存在だったから、釣り合うかどうかなんて考えることすらおこがましいと思っていた。絶対に無理だと断じておけば、己の出自の卑しさを省みて絶望する必要もなかったから。

 いくら騎士になったと言っても、ネージュはただの元平民ではない。出自すら曖昧で、この世界の理を無視した不確かな存在だ。

 そう、カーティスとはとても釣り合わない。一時の慰めとしてさえ己には過ぎたる大役だ。


「だから、諦めようとしたんです。ですが、その……」

「好きって言われた?」


 言葉を詰まらせるほどの葛藤を察してか、テレーズはその続きを言い当ててみせる。あまりの慧眼ぶりに作業の手を止めたネージュは、とんでもなく自惚れたことを言った気になって頬を染めた。


「いえっ、あの、ですが……! やっぱり何かの間違いだったのではないかと思うのですけれども!」

「何かの間違いで好きじゃない相手に好きだなんて言わないわ。ネージュさんだってそんなことしないでしょう?」


 もっともな指摘に息を飲んだネージュは、動揺をごまかすべく皿洗いを再開した。

 そう、カーティスは言ったのだ。冗談でも聞き間違いでもない、と。


「普通なら一番幸せな時期のはずなのに、どうしてそんなに悲しそうになさっているの?」

「……それは、仕事のことと。私はそのようなお気持ちを受け入れていい者ではないから、です」

「釣り合わない方だと思うから、そう考えてしまうのね」


 ネージュは目を伏せて頷いた。我が身の小ささに叫び出したいような気持ちがしているのに、テレーズの笑みはどこか悪戯っぽく輝いていた。


「けど、そんな理由じゃお相手は納得しないと思うわよ」

「そうでしょうか……? 本当に、釣り合わないのです。誰が見てもそう思うはずです。もしかしたら、今頃は戯れを口にしたことを後悔なさっているかも」


 もし好きだと返したところで、今言ったことが現実になる日は遠からずやってくる。

 何せネージュは馬の骨なのだ。近しい人が認めても、異なる立場が生んだひずみが解消されることはない。


「傷つく前に回避することは、決して悪いことではないわ」


 テレーズは静かに言った。彼女はネージュの弱さを正確に読み取って、それでも肯定してくれる。


「貴女はとてもしっかりしたお嬢さんだもの。自分の仕事と、相手や周囲を慮る気持ちは立派よ。けど、それではネージュさんの幸せはどうなるの?」


 あまりにも真を突いた指摘に、ネージュは鋭く息を飲んだ。

 騎士としての生活を幸せだと心から思う。

 けれどカーティスが告げた心を否定して、二度とあの優しい笑顔が向けられることが無くなったとしたら。

 気まずくなってもそれは自業自得なのに、想像しただけで胸が焼けるようだ。きっと毎日が息もできないような苦しさに苛まれることになるだろう。


「騎士という存在はとても尊いけれど、同じだけ酷だとも思うわ。忠義のために私を殺すことが当たり前。だからこそ民は騎士に憧れ、尊敬の念を持って接するの。だってそんなことは普通はできないもの。誰だって幸せになりたいのよ。他人と家族だったら家族を守りたいのよ」


 いつしか汚れた皿は全て洗い終えていて、タイル張りの流しにはフォークの一つも残っていない。テレーズは布巾を備え付けのフックに掛けながら、透き通るような瞳を揺らしていた。

 もしかすると彼女は夫が戦に行くたびに、こんな目をして見送っていたのかもしれない。ネージュは何の根拠もなくそう思った。


「人として当たり前の感情を、主君のために押し殺していらっしゃる……そんな方が、貴女を好きだと言った。それだけの想いを切り捨ててしまうことは、どれ程の理屈を並べれば叶うのかしら」


 アイスグレーの瞳がネージュの琥珀を射抜く。貞淑で美しい騎士の妻。彼女が理想的な女性に見えるのは、心のうちに秘めた強さがあってのこと。

 騎士にとって有事に最も優先すべきは家族ではない。使命と感情は常に壁一枚を隔てた向こうにあって、誰もがその壁を壊さないために必死になっている。

 騎士が誰かに愛を告げるなら、悲壮な覚悟が必要になる。そうまでして遂げようとした想いは途方も無いほどに強く、そして真実なのだろう。

 しかしネージュは身をもって知るはずの騎士の本質を、自身に向けられる想いに置き換えて考えることがどうしてもできない。


「ネージュさんがどうしたいのか、ただそれだけのために決めることがあってもいいと思うの」

「私が、どうしたいか……」


 そんなことを考えては駄目だ。いつしか馴染み深くなった心の弁が働いて、思考回路を鈍らせる。

 するとぼやけた頭の中に引っかかる違和感があった。


「私は……その方が騎士だと、申し上げたでしょうか……?」


 アイスグレーの瞳が柔らかく細められた。テレーズもまた娘か孫を見る眼差しを向けてくれるのが常なのだが、この時の優しさは格別なものがあった。

 何かを言おうと口を開きかけたところで厨房の外が騒がしくなる。ノックの末に開かれたのは、食堂に続く扉ではなく廊下に面した扉だった。


「ネージュ、迎えが来たぞ」


 バルトロメイが口の端を吊り上げて言う。

 想像すらしない報せに唖然としているうちに、上司の向こうから顔を覗かせたのは。


「やあ。我が家の客人を迎えに来たよ」


 姿を現したのが爽やかな笑みを浮かべたカーティスだったので、一瞬幻覚を見たのかと思った。

 しかし何度瞬きを繰り返しても幻が消えることはなく、ネージュはしばらくの間その場に立ち尽くしていたのだった。



 *



 二人が帰って静かになった玄関ホールにて、夫婦は顔を見合わせる。


「話は聞けたのか? テレーズ」

「一応は聞かせていただいたわ。けど、歳をとるとつい説教じみてしまって駄目ね」

「助かるよ。私には絶対に話さんだろうからな」


 お互いに浮かべた苦笑は似たような柔らかさを有していた。

 末娘とも言うべき存在が嫁入りを果たす日は、案外すぐそこなのかもしれない。


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