持つべきものは優しい上司 ①
ネージュは朝日が顔を出したのと同時に身支度を始めた。ブランドンが怪訝な顔で朝食はいるかと聞いてきたはずだが、何と言って断ったのかよく覚えていない。
目の下にクマを作ったまま仕事をしていたら出会う人みんなに心配されてしまった。これもまたよく覚えていないのだが、笑ってごまかしたような気がする。
気付いた時には終業時間を迎えてしまい、副団長室で書類にペンを走らせていたネージュは重いため息をついた。
カーティスとどんな顔をして会えばいいのかわからない。昨夜の出来事を現実と受け止めるには、あまりにもネージュは平凡で、どこにでもいる普通の女だった。
こんなことがあるのだろうか。本当に現実の出来事だったとして、好きだと伝えたらどうなるのだろうか。
——私は転生者で、恋愛とは程遠い脇役なのに?
ようやくそこまで考えついた時、ネージュは心が凍りついたのを確かに感じた。
「女王陛下の祝福」において、ヒロインと攻略対象以外に恋が生まれることはない。もしシナリオを無視して自分の想いを遂げてしまったら、何か恐ろしい不都合が生じたりはしないだろうか。
きっと神がネージュとして転生させたのも、役目を全うしやすくするためなのだ。余計な感情に振り回されて冷静を失わないように、一歩距離を置いた場所から見通せる脇役というポジションへ。
怖い。もし自身の選択のせいで、誰かが死んでしまったりしたら……?
「ネージュ、聞いているのか」
ふと顔を上げると、そこにはバルトロメイが佇んでいた。
どうやらノックの音にも気がつかなかったらしい。思考に没入するにしてもあんまりな失態に、ネージュは顔を青ざめさせた。
「申し訳ありません、ガルシア団長。少し、考え事をしておりまして……」
「ふむ、声をかけられても気がつかないほどの考え事か。さぞ大問題を抱えているのだろうな」
最も身近な上官が描いた笑みは、不出来な孫への眼差しとセットになっていた。その柔らかさに胸を突かれてしまって、返す言葉が出てこなくなる。
「何を悩んでいるのか知らんが、今夜はうちで夕飯でも食べていけ」
「え……!? ですが、急にそのような。奥様にご迷惑をおかけするわけには」
「テレーズとは知らない仲じゃないだろうに。いいから遠慮するな。そんな辛気臭い顔をされたんじゃ、部下たちの士気に関わる」
ガルシア家には昔から何度も招かれている。奥方のテレーズは王族出身の儚げな美女で、見た目通りに親切で優しいばかりか料理の腕前もプロ級なのだ。
バルトロメイは騎士服の上からチャコールグレーのウールコートと焦げ茶の襟巻きを纏っている。どうやらこの誘いのために帰りがけに寄ってくれたのだと知れば、もう断る意味は見出せなかった。
「いらっしゃいませ、ネージュさん。来てくださって嬉しいわ」
伯爵家の邸宅にしては質素な玄関をくぐると、ガルシア伯爵夫人テレーズの優しい笑みが出迎えてくれた。
プラチナブロンドを結い上げた奥方は、相変わらずの美貌で眩しいほどだった。お似合いの夫婦に頬を緩ませつつ、ネージュは深々と頭を下げる。
「ご無沙汰しております、奥様。急にお邪魔してしまい申し訳ありません」
テレーズとは何度も顔を合わせたことがあるが、記憶が正しければゲームに出番はなかったはずだ。
要はシェリーとはあまり接点がない。そんな彼女もこの美しさなのだから、乙女ゲーム恐るべしである。
「まあ、そんなに遠慮なさらないで。我が家のことは実家だと思ってくれたら良いのよ」
「……過分なお言葉、痛み入ります」
ネージュはようやく顔を上げて笑みを浮かべた。こんなにも思い遣りに溢れた言葉をかけてもらえる自分は、なんて恵まれているのだろう。
「急にすまんな、テレーズ。手伝うことはあるか」
「何でもないことです、あなた。私も嬉しいもの。もう少しでできますから、お茶でも飲んで待っていらして」
テレーズによって食堂へと導かれながらも敬愛する上司夫妻の懐の深さに感じ入る。昨日の出来事で重苦しさを抱いていた胸の内も少しだけ軽くなり、ネージュはこの厚意に甘えることを自らに許すことにした。
楽しい時間は瞬く間に過ぎた。テレーズの手料理は優しい味わいがして、凍りついた心臓を溶かすのに大いに貢献してくれた。
既に子供達も独立して久しい夫婦は長年連れ添った信頼が滲み出ているようで、見ているだけで温かい気持ちになる。きっと誰が見てもこんな夫婦になりたいと憧れを抱くことだろう。
そうして食後のコーヒーまで飲み干し、せめて後片付けを手伝うと申し出たネージュは、テレーズとともに主婦の城たる厨房に立った。
「ごめんなさいね、疲れているところを手伝わせてしまって」
「いいえ、これくらいのことはさせて頂かなくては」
ガルシア伯爵家では少ないキッチンメイドしか雇っていない。料理が趣味のテレーズには必要がないらしく、準備から片付けまで基本的には全て一人でこなしているのだ。
ネージュは慎重に高価な皿を水に浸しつつ、洗い上がった皿を拭う綺麗な横顔に尊敬の眼差しを注いだ。
「奥様はすごいです。元は王家の姫君でいらっしゃるのに、どうしてそんなに料理がお上手なのですか?」
するとテレーズは気恥ずかしそうに苦笑をこぼした。
五十二という年齢より若く見えるほどの美貌を持つ彼女は、儚げながらも芯の強さを感じさせる素敵なご婦人だ。笑った顔は可愛らしくて、女性であるはずのネージュですら顔を赤らめたくなるような魅力に満ちている。
「もちろん、嫁いできた当初は料理なんてしたこともなかったわ。でもね、あの人がぜんぜんこちらを向いてくれないから、頑張ろうと思ったのよ」
「そうだったのですか!?」
てっきり出会った瞬間から相思相愛なのかと思っていた。二人の過去について話が聞けそうだとあって、ネージュは両目を輝かせる。
話の続きを待つ視線に笑みを深めたテレーズは、当時を振り返るように目を細めた。
「私の役目はあの人を王の臣下として留め置くことで、それはお互いに承知した上での結婚だったの。けどね、私はせめて仲良くなりたかった。この先愛し合うことはなくても、気の置けない相棒くらいにはなれたらって。そう思って色々と頑張っていた私に、あの人なんて言ったと思う?」
「なんと仰られたのですか?」
「姫君が家事なんて滑稽だ、無理な努力は必要ないからやめろ。使用人くらい好きなだけ雇えって」
「ガルシア団長がそんなことを!?」
信じられない。皮肉屋なところがあるとはいえ、無闇に暴言を吐くような人ではなかったはずなのに。
非難の入り混じった声にテレーズは苦笑して、もう大喧嘩よね、と言った。
「大変だったわ。結果としては心配してくれていただけと知れたのだけど」
「……そうでしたか、びっくりしました。素敵なお話ですね」
危うく上官を見損なうところだった。不器用ゆえのすれ違い……うん、良い。続きが聞きたい。
しかしネージュの欲望にまみれた願いは、さらりと告げられた問いによって脇に打ち捨てられることになった。
「ネージュさんは好い人、いらっしゃるの?」




