それはとある冷えた夜の出来事 ③
「私は、幼少の頃に孤児院で暮らしていました。そこの院長に、最後に恩返しをしろと言って暴行を受けそうになって。何もできない自分に腹が立って、怖くて……どうしようもなくなった時に、閣下が来てくださったんです」
僅かに見開かれた空色から感情を読み取ることができず、ネージュは泣きそうになった。
だめだ、それでも伝えなければ。勇気を出して。ここまで力を貸してくれたこの方から、逃げていいはずがない。
「閣下は孤児院ごと私たちを救って下さいました。なんて立派な方なんだろうと、憧れました。騎士になりたいと強く思いました。したこともなかった勉強をして、兵士になって体力をつけて。大変だったけど、乗り越えられました。全部貴方のおかげなんです」
胸の前で握りしめた両手も、声も、小刻みに震えていた。せっかく身に付けた敬語はすっかり下手になっていて、恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちになる。
「心から、感謝を申し上げます。たくさん助けて頂いたのに、きっと覚えておられないだろうと決めつけて……こんなに迷惑をかけてばかりで。申し訳、ありません……」
ネージュは頭を下げたが、顔を伏せることができたのは都合が良かった。既に情けない表情を晒してしまったことはわかっていたが、涙だけは我慢しようと喉に力を入れて衝動に耐える。
ほんの僅かな間を置いて頭上の空気が揺れた。のろのろと顔を上げたネージュは、彼の顔が切なげな笑みを描く瞬間を見つめることになった。
「君は、覚えていたんだね。もしかして今日は孤児院に行った?」
「……はい」
「そうか。……うん、そうだったのか」
参ったな、とカーティスは噛みしめるように言った。喜びと自嘲が入り混じったような声音に何も返すことができないでいると、カーティスがゆっくりと歩き出したので、ネージュもまた隣で歩を進める。彼のその行動が動揺を包み隠すためのものだった事など知らないまま。
「何も謝ることなんてないんだよ。レニエ副団長は昔から勇敢で心優しかったね。君が変わらないでいてくれたことが、私はとても嬉しい」
吐く息が白い。冬の夜の冷気は纏わり付くようなのに、精悍な横顔を眺めているだけで少しの寒さも感じない。
「むしろあの時は私の方が救われたんだ。マクシミリアンに手を貸すと言ったのに、それから長い時が経って、街の様子は荒れ果てたままでね。助けてくれてありがとうと笑った君に、こんな私でも役に立てることがあるのだと知った。酷い目にあったのになんて強くて優しい子なんだろうと思ったよ」
ネージュは小さく息を飲んだ。
そう、あの時カーティスが苦しそうな顔をするのが見ていられなくて、意味もなく明るく振る舞ったのだ。
信じられない。そんな小さなやりとりまで覚えていてくれたなんて。
「マクシミリアンを復讐から呼び戻すことができるとしたら、それは君のおかげだ」
「そ、そんな。私はただ、皆に生きていて欲しいだけです。身勝手な考えに閣下を巻き込んでしまいました」
「そんなことはない。その志こそが、君を騎士たらしめている。……本当に、立派になった」
カーティスがもたらす言葉の一つ一つが、胸の内に暖かく染み渡っていく。
認めてもらえたと思うのは思い上がりだろうか。嬉しくて嬉しくて、頭がふわふわして、まともにものが考えられない。
いつしか森を通り過ぎてモンテクロの街角に到着していた。官庁街たる通りに人の気配は感じられす、透明になった二人の行く手を阻むものは何もなかった。
不意にふわりと視界を通り過ぎるものがあって、ネージュはおもむろに空を見上げた。見れば街灯に照らされた街並みを白いものが舞い始めており、石畳の路面に落ちては留まっている。
「ネージュ、というのは」
いきなり名前を呼ばれて大きく心臓が脈打った。動揺を悟られないように意味を問う視線を向けると、カーティスは瞳を細めてじっとこちらを見つめていた。
「雪という意味だね」
「あ……は、はい、そのようですね。以前に女王陛下よりお教えいただきました」
ネージュは大きく息を吐きたいような気分になった。
びっくりした。名前を呼ばれて喜んでしまった自分が情けない。
「綺麗な名だ。この名をつけた人は、きっと君のことを愛していたんだろう」
「そう、でしょうか……」
「そうだとも。私も、雪が優しいものに思えてくる。君の名前と思うだけで」
マクシミリアンを止められなかった時にいつも雪が降っていたのだと、カーティスは静かに言った。
彼の姿が街灯に映し出された。暗い空から舞い散る白が精悍な輪郭をぼかして、闇に沈む街を儚く彩っている。
彼の微笑みこそが雪のようだった。すぐに溶けて消えてしまいそうなほど、柔らかくて優しい笑み。
「君のおかげだ。ありがとう、レニエ副団長」
雪がしんしんと降り積もってゆく。
この先どんな悲劇が起ころうとも、たとえ自身の命を失う事になろうとも。
彼がくれた言葉の数々を、この奇跡のような夜を忘れることはないだろうと、ネージュは確かにそう思った。




