それはとある冷えた夜の出来事 ②
本当に最低なことをしてしまった。カーティスはいつも、それこそ子供の時分からずっと心配してくれていたのに、感謝すら伝えないまま大騒ぎを起こして迷惑をかけて。
ネージュは何を言うつもりなのかもわからないまま口を開いた。しかし寄る辺のない言葉は、城壁を飛び降りてきた人影によって遮られる。
ロードリックは剣を抜き放ったままで、乱れた息に激闘の余韻を忍ばせていた。細かい傷を負ってはいるものの、別れた時と変わらずピンピンしているようだ。ライオネル相手に手加減してこの元気なのだから恐ろしい。
「ご無事で! バルティア団長はどうなさいました」
「ネージュか。剣を折っておいたからもう追ってはきまい」
しかしロードリックは息を飲むと、すぐにその瞳を剣呑に細めた。原因がカーティスにあることを悟ったネージュは、慌てて二人の間に立ち塞がる。
「ロードリックさん、違うんです! アドラス騎士団長閣下に敵意はありません」
「……何だと?」
「助けて下さったんです。ですからどうか刃を納めて下さい」
ロードリックは厳しい眼差しをネージュと背後にいるカーティスに往復させ、やがて剣を鞘に戻した。するとカーティスが前へと踏み出して、放り投げるようにゴードンの身柄を受け渡す。
いつになく乱暴な動作に驚いたのはロードリックも同じだったようだ。彼は気を失ったままの部下の体を小脇に抱えつつ、宿敵たる王立騎士団長を睨み据えた。
「アドラス、いきなり出てきてご挨拶だな」
「君こそ、うちの部下を誑かさないでくれないか」
誑かす、とは。どちらかというと誑かしたのはネージュの方だ。
「閣下、私から話を持ちかけました。ロードリックさんは偶然会っただけの私を信用して下さったのです」
「……ほう?」
何だろう、カーティスはいつものように微笑んでいるのに、冷えるような雰囲気を身に纏っているような気がする。
「部下が世話になったようだね、ロードリック。君の仕事は達成できたのかな?」
「ああ、ネージュのおかげでな」
「そうか、ならそろそろ帰るといい。私が目を瞑るのにも限度があるからね」
「目を瞑る、か。何様のつもりか知らんが私は貴様に見逃される筋合いはないのだがな」
浅葱色と空色が苛烈な輝きを宿し、両者の間に火花を迸らせる。
ロードリックの態度は理解できるが、カーティスがここまで苛立ちを露わにしたのを初めて見た。
何だろうこの状況は。なんで口喧嘩の構えになってるの。この人たち実は仲が良いのでは……?
「貴様、大体からしてなぜこのようなことをする。王立騎士団長ともあろう者が敵に塩を送るような真似をするとは、拍子抜けにも程があるぞ」
「君に話せる事情ではないんだよ。部下が助かって良かったじゃないか」
「はっ、気味の悪いことだ。貴様のそういう、何でも見透かしているような態度が気に食わん」
ロードリックは一度舌打ちをすると、ゴードンを担ぎ上げてネージュに向き直った。浅葱色の瞳は先ほどまでの怒りを潜め、今は澄み渡る湖面のように凪いでいるように見えた。
「此度は助けられたな。マクシミリアン様に仕える身ゆえ、これからは貴殿の望みに背くことになってしまうが……」
「いいえ、そのことなら良いんです。貴方は貴方の忠義を全うしてください、ロードリックさん」
手を差し出されたので握り返す。二度目の握手は力強く、敵同士だというのに気心の知れた仲間のような気安さがあった。
「ネージュのおかげで勇気が持てた。私も一つの望みをマクシミリアン様に申し上げてみようと思う」
「望み、ですか?」
「ああ。それでは、これで失礼する」
ロードリックは背負う重責を一瞬だけ降ろしたらしかった。清々とした笑みとともに片手で成された敬礼に同じ姿勢を取ると、彼は踵を返して夜の森へと歩き出す。
二度と振り返らない後ろ姿を見送って、ついにその場に残されたのは二人だけになった。
「……ロードリックさん、か」
低音が紡いだ独り言に顔を上げる。何故か自嘲じみた笑顔を浮かべたカーティスと視線が重なって、ネージュは意味を問うべく口を開いた。
「……閣下?」
「いや、何でもない。姿を見られる前に帰ろうか」
つい先ほどまでは心の底からカーティスに会いたいと思っていた。しかし大騒動を経てあの時の勇気と衝動は失われ、代わりに残ったのは胸が破裂しそうな程の緊張と切ない程の恋心だけ。
ネージュはおずおずと頷いて隠しの魔法を使った。カーティスも同時に魔法をかけて、騎士たちの姿が闇に消えていく。
それでもお互いの姿は認識できる。木々の揺れる微かな音だけが静寂を乱す中、二人はゆっくりと帰路を辿り始めた。
騎士たちが蠢いているであろう王宮内を避け、城壁伝いに森の中を進む。ネージュはちらと隣を歩くカーティスの横顔を見上げ、歩きながらも再度謝罪をした。
すると微笑と共に気にしなくていいとの返答があって、あまりの寛大さに二の句が継げなくなってしまう。
どうしてこんなにも優しいのだろう。大変な迷惑をかけて、エスターと対立までさせてしまって、どれほど謝っても取り返しがつかないくらいだというのに。
「わ、たしは……昔、貴方に助けて頂いたことがあるのです」
カーティスがピタリと足を止めてネージュを見下ろした。端正な顔は笑みを消していて、困惑と驚きが滲んでいるように見えた。つい怯んで目を背けそうになるのを、ネージュは腹に力を入れて耐えた。




