どうしようもない程の間抜け ④
気付かないふりをしていた。
叶うはずのない想いだったから。釣り合うはずもない相手だったから。
できることならこのまま封じ込めて無かったことにしてしまいたかったのに。それでもこの程度のことでこの気持ちは主張を始めるのだから、恐らくはどこかで向き合わなければならなかったのだろう。
「……う」
嗚咽まで漏れそうになって、ネージュは必死で口を引き結んだ。ぼやける視界を閉ざして瞼を擦り、何とかして感情の波をやり過ごそうとする。
振られるまで気が付かないなんて鈍いにも程がある。いや、気付いても気持ちを伝えることなんてしなかっただろうけど。ああ、恥ずかしい。泣いてるところを見られた上に、その涙も側から見れば全く脈絡がないのだ。
カーティスがどんな反応を返してくるのか、ネージュは想像しただけで怖かった。しかし誰にでも優しい騎士団長閣下のことだから、以前彼の話を聞いて泣いてしまった時のように、きっと戸惑いつつも慰めようとするのだろう。
しかしゆっくりと目を開けた先には、珍しくも呆然とした様子のカーティスがいた。
その表情に自分の行いがどれほど珍妙だったのかを思い知り、ネージュは今更のように赤面した。
喉が引き攣れたようになって何の言葉も出てこない。考えろ。言い訳を考えるのだ。考え——。
「これは、その! 聞いていなかったのです!!!」
言い訳を考えついた瞬間、ネージュは直立不動の敬礼をして力一杯叫んでいた。
声は上ずってあからさまに不自然な勢いだが、最早そんな事を気にしていられる余裕はない。
「……うん?」
カーティスの反応はいかにも要領を得ないと言わんばかりだったので、このまま押し切るべくネージュは猛然と頭を下げた。
上司の話を聞かない駄目な子と思われても構わない。涙の理由を追及されるよりよっぽどマシだ。
「ええそうです、聞いておりませんでした! 皆を救えるのか不安で、そればかり考えておりました! そうしましたら涙がぽろっと!」
「……聞いてなかった?」
「はい!」
「……不安で?」
「はい!」
「……涙が?」
「はい! 申し訳ありませんでしたあ!」
ネージュは額を卓上に擦り付け、今度はバネのように顔を上げると、その反動の勢いを借りて走り出す。
カーティスの表情はあえて見ないようにしていた。当然追いかけられることはなく、無事に自室へと帰り着いたネージュは、扉にもたれかかったままへなへなと座り込んでしまった。
最悪だ。なんて事をしてしまったんだろう。絶対に変なやつだと思われたし、何よりもこんな想いには気付きたくなかった。
出会った瞬間から、カーティスのことを好きになってしまっていただなんて。
「……っう、うう……」
ネージュはもう嗚咽を抑えることができなかった。ぼろぼろと涙を再発させた両目を膝頭に押し付けて、体を抱えて丸くなる。
そもそもあんなの好きにならない方がおかしいのだ。子供の頃に出会って憧れて、再会してからもずっと恰好良くて、いつも危ないところを颯爽と助けてくれて。
カーティスは紛れもなく騎士だった。女王陛下に忠誠を誓い、責任と誇りを持ち、誰にでも公平に心を配る騎士の中の騎士。
だから好きになった。その空色の瞳が自身を見る事は無いとわかっていても。
こんなシナリオはなかったはずなのに。ここが乙女ゲームの世界だと知る前から、この感情は確かに胸の内にあった。
——ねえ、神様。あなたはこうなる事を知っていたのですか。それならばどうして、私からこの感情を奪い去ってくれないのですか。
わざわざ脇役に転生させたくせに。もしあの神様お得意のうっかりだとしたら酷い話だと、ネージュは口の端に苦笑を浮かべた。
*
目を覚ますとそこには久しぶりの景色が広がっていた。
神殿のような異空間。白いソファを模した石の上、美しい神が座っている。
しかし今日の神はなんだかしおらしかった。ゲームも手にしていなければ寝っ転がってもいないし、心なしか身なりもきちんとしているようだ。
「……久しぶり、神様。今日は何だかちゃんとしてるんだね」
「うむ。実は、我が父に会いに行っていてな」
なるほど、この神には父たる存在がいるらしい。ネージュは悲しみを封じ込めて少しだけ笑いつつ、何だかんだで人間味のある神に親しみを抱いた。
「それできちんとした格好してるんだ」
「その通り。何ともまあ、父に随分と怒られてしまったよ。曰く、お前は遊びすぎだと。せっかくこの俺が力を貸してやったのだから、今くらいきっちり見届けろとのことだ」
「力を貸してやった……?」
聞きなれない話にネージュは首を傾げた。神は婉然とした笑みを浮かべて、芝居掛かった調子で両腕を広げる。
「ああ。我ら神は、ただ一人の父たる絶対造物主には逆らえない。我が父は全てを司り、我らにない唯一の力を持つ。それは、『奪う』ということ」
「奪う、こと?」
「そうだ。我には生み出す力しかない。生み出したものが何を成すのか、見守ることしかできない。それこそが神。帰ってきた魂をまた俗世に戻す、それが主な仕事なのだ。しかし我が父たる造物主は奪うことができる。世界に存在するあらゆるものをな」
大仰な身振り手振りで語られた内容は、ネージュに新鮮な驚きをもたらすものだった。
この神は奪うことができない。神たる存在ならばいくらでもシナリオを書き換えられそうなのにそうしなかったのは、ゲームがすでに生み出されてしまったから。だからこそ、ネージュに使命を与えたのか。
それに先程抱いた悲痛な願い。思慕の情を奪い去って欲しいだなんて、そんなことはこの神には不可能だったのだ。
色々な疑問が解消されて行く感覚に、ネージュは幾分かスッキリとした気持ちになった。
この神がどうしてそこまでこの世界に入れ込んでいるのかはわからないけれど、そうまでして悲しい物語を書き変えたかった。その気持ちには報いてあげたいと思う。
「ねえ神様。ところで、どうして私を呼び出したの?」
「ああ、そうだった。そなたに話があったのだ。まず前提として、真ルートに入ったことは知っておいても良かろうと思ってな」
やはりそうだったのか。神の笑みを別段驚きもなく受け止めたネージュは、冷静に言葉を返した。
「それじゃ、別ルートのイベントが起きたのは」
「たまたま、だな。色々な要因が重なって起きてしまったと、そういうことだろう」
「そっか……そうだったんだ」
そういうことなら仕方がない。実際にシナリオを捻じ曲げているのはネージュなのだから、その責任は自身で負うべきなのだ。
「わかった。状況がわかって良かったよ。ありがとう、神様」
「うむ。ああそうだ、ネージュよ」
思えばこの神に名前を呼ばれたのはこれが初めてのことだった。存外に優しいその響きに驚いて、ネージュははたと瞬きをしてしまった。
「頑張れよ。私はそなたの幸せも願っているのだから」
神の美しい笑みが白く霞んでいく。慈愛に満ちたそれはどこか温かさすら感じるもので、ニートのくせにとなじる気持ちは不思議と湧いてこなかった。
そしてその笑みにごまかされてしまったネージュは気付いていなかった。
この神の父たる造物主が一体何を「奪った」のか、答えを得なかったことに。




