とある男の災難
男は路地裏を疾走していた。この街の路地は入り組んでいて逃げるのには丁度いい。ただしこの地を知らない男はすぐに迷ってしまったのだが、それは相手も同じと思えば都合が良かった。
黒豹騎士団の第五位として、格上相手に逃げるくらいのことはして見せなければ。
「無音水槽」
しかし聞こえてきた呪文によって、男の決意はあっさりと裏切られた。
目の前に巨大な水の塊が出現し、瞬く間に全身を飲み込まれてしまう。何の身構えもしていなかったものの、辛うじて口を閉じることに成功した男は、透き通る水の向こうに一人の騎士が姿を現したのを視認した。
王立騎士団第一騎士団長ライオネル・ド・バルティア。この若き騎士は王立騎士団において次期団長と目される程の実力者で、戦場においての統率力と判断力は他の追随を許さない。
そんな恐ろしい騎士が今まさに己の命運を握る存在となったのだ。
「黒豹騎士団第五位、ゴードン」
ライオネルは柳緑色の瞳を眇めて静かに言った。予想していたことではあるが、身元はしっかり特定されているらしい。
ゴードンは観念して頷いた。その素直な様子に、ライオネルの表情も僅かに緩む。
「大人しく答えるなら手荒な真似はしない。ゴードン、貴殿は現在の黒豹騎士団の拠点を——」
詰問が終わらないうちに、ゴードンは懐に仕込んだ転移魔法陣を発動させた。
捕まった時の対策をしていないと思ったのならとんだ間抜けだ。第一騎士団長バルティアも、話に聞いたほどでは——。
「……残念だ」
短くも感情を排した言葉が聞こえた時には、ゴードンの脇腹は魔法陣を描いた紙ごと斬り裂かれていた。
あまりの激痛に口を開けてしまい、その途端に中に水が流れ込んでくる。悲鳴は声にならず、気泡の作り出される音だけが無様に鳴った。
「貴殿は王立騎士団本部へご招待申し上げる。もっとも、本部はつい先日倒壊してしまったようだがな」
どこまでも透明な水の向こう、怜悧な美貌に何の感情も映さないライオネルが一度剣を払って鞘へと戻す。視界の端に血の赤が混ざり始めたところで、ゴードンの意識はぷつりと途切れた。
目を覚ますと知らない部屋にいた。
ゴードンは状況を確認するため首を巡らせる。体は簡素な木椅子に縛り付けられており、魔法の発動を封じる魔具が足首に嵌められ手も足も出ない状況だ。
煉瓦が剥き出しの壁には様々な拷問器具が吊り下げられていて、漆喰の床にも口にするのも憚られるような道具が並ぶ。部屋全体が錆のような色を纏い、陰惨な雰囲気をこれでもかと撒き散らしていた。
そして己の正面に、見覚えのある男が二人立っている。
ピンク色の髪の優男の名はエスター・フランシア。王立騎士団の衛生部、第四騎士団長を務める大物だ。そのすぐ後ろに控えるのは副団長ヤン・レンフォールドか。
それにしてもどうして衛生魔法使いの二人がここに。疑問が顔に出ていたのか、エスターがにっこりと微笑んだ。
「ここは王立騎士団の特別室です。貴方が怪我をしているとバルティア団長から聞き及びまして、僭越ながら治療させて頂きました」
「特別室、ね。どう見ても拷問部屋にしか見えないが?」
ゴードンは皮肉げに口の端を吊り上げた。治療まで施すとは、どうやら相当に力の入った取り調べが予定されているらしい。
「お話が早くて助かります。それでは早速始めましょうか」
言葉の意味を理解できないうちに、ゴードンの頭上から大量の水が降ってきた。
あまりの水圧に首が前方に折れ、肩に抉るような重みがのし掛かる。息もできないまま突然の事態に耐えていると、ようやくといったタイミングで水が止まった。
「さて、お伺いしますが……ゴードンさん、貴方は黒豹騎士団のアジトをご存知ですね。教えていただけないでしょうか」
ごく丁寧に述べるエスターだったが、女性と見まごう程の美貌に浮かんだ笑みは底知れない凄みを放っていた。ようやくこの男たちが拷問担当官であることを悟ったゴードンは、それでも毅然とエメラルドの瞳を睨み据える。
「女王の薄汚い犬どもめ。地獄に落ちろ」
エスターは少しも表情を変えなかった。微笑むままヤンに目配せをし、それを受けた彼は無表情で一歩を踏み出してくる。
団長の方は年齢不詳だが、この副団長は二十八歳のゴードンと同年代だろう。眼鏡の奥の鼠色の瞳を睨み付けてやると、冷徹な無表情を貫いていた端正な顔が微かに歪んだ。
何だ? まるでこんなことはやりたく無いとでも言うような、その表情は。
「いくらでも付き合ってやろう。何せ聞きたいことは山ほどあるからな」
しかしヤンが告げた台詞は無情だった。手にした短刀を一振りすると、頭上からまたしても水が降ってくる。
ほとほと水に縁のある日だと呆れながら、ゴードンは固く目を閉じた。




