雪と赤の記憶 ③
こういう場合、小説においては雷が鳴っていて、その劇的な展開を重苦しく演出していることが多いように思う。
けれど実際に起きてみればその日はよくある冬の夜で、降りしきる雪が全ての音を吸い取る静謐だけがそこにはあった。すっかり生気を無くした殺人者と、友を見る瞳に驚愕を貼りつけた二人の騎士に、救いなんてものは何一つとして存在しなかった。
「マクシミリアン、君は、何をしているんだ……? シェリーに会いに来るんだろう。あの子は今この時も、家で待っているんだぞ」
やっとの思いで紡いだ言葉は無様に掠れていた。
結局のところ、カーティスは忠義なんてものを誓ったことなど今まで一度もなかったのだ。君主が二度死んでも、その結末に自身が深く関与していたとしても、一番大事なのは周囲にいる人々のこと。
カーティスは巷にありふれたただの男だった。高潔さなど持ち合わせてはおらず、騎士の家系に生まれたから騎士に憧れただけの凡夫だった。
「気付いたら手が動いていた。……復讐を成すならば、最後まで、だ」
マクシミリアンの赤い瞳は、狂気を宿して底暗く光っていた。十年前シェリーを預けにきた時よりも更に深い絶望と憎しみに囚われた姿は、返り血の色と相まってこの世のものとは思えない凄みを放つ。
「マクシミリアン……? 何を言っている」
ハンネスが茫洋と呟いた。全く同じ問いを抱いた胸の内を押さえつけながら、カーティスもまた返答を待つ。しばしの間を経て優美な口元が描いた笑みは、ぞっとするほどに美しかった。
「全部、アレクシオスが仕組んだことだったんだ。……ハリエットがあんな形で死ななければならなかったのも、この男がナサニエルを焚きつけたから。アレクシオスは自分こそを直系とするために、自分の手は汚さずに兄を殺した。俺は踊らされていたんだ、最初から」
凍えるような声で告げられた真実に、二つの息を呑む音が室内に響いた。
どういうことだ。異母兄弟の間柄でも、マクシミリアンはアレクシオスとは仲が良かった。復讐について明かすことはなかったが、この兄になら国を任せられると常々語っていた。それなのに、どうして。
「これは見抜けなかった俺の咎だ。この男が悪魔であると知っていたなら、信用なんかしなかった。どうしてこんなことになったんだ? 玉座の持つ魔力は、こんなにも人を狂わせるものなのか。……馬鹿馬鹿しい話だ」
カーティスははっと瞳を揺らした。シェリーを託しに来た夜、全てを燃やし尽くしてしまいそうだと語った青年の姿を思い出して、背筋に冷えたものが伝い落ちていく。
「カーティス、悪いな。俺じゃ本当の父親なんて名乗れない。シェリーに謝っておいてくれ」
「マクシミリアン……!」
名前を呼ぶ声は無意味な慟哭に終わった。
赤い炎がマクシミリアンの持つ剣から迸って部屋中に燃え広がっていく。熱風が巻き起こって全身を押し包み、騎士たちは長年の戦いの習い性で防御魔法を使ったが、その隙に目を離したのがいけなかった。
防御魔法の輝きが収まった頃には、既にマクシミリアンの姿は陽炎のように消え失せていた。燃え盛る室内は常人ならば命はない程の熱に侵され、アレクシオスの骸も炎に包まれている。
「カーティス、とにかく脱出だ! 俺たちの魔力属性ではどうにもならん!」
舐め尽くすような炎の向こうでハンネスが叫ぶ。やりきれない思いを抱えながら短距離の転移魔法の呪文を唱えると、急すぎたためにそれぞれ違うとこに飛ばされて、カーティスは王宮の片隅にその身を転がした。
地面には雪が積もっており、背中から急速に炎の熱を奪い取っていく。建物からの明かりに照らされて黒い空に白が花弁のように舞うのが見え、その美しさが憎くて、カーティスは知らずのうちに顔を歪めた。
——マクシミリアンが何をしたというんだ。
復讐など成すべきではなかったという神の思し召しなのか。しかし彼は復讐という縁がなければ、この世に留まることすらできなかったかもしれない。
敬愛する両親が存命しているカーティスと違って、早くに母を亡くして父にも顧みられなかったマクシミリアンは、それでも道を逸れずに歩こうとしていた。薄汚い政争に巻き込まれて傷ついた彼の前に現れたのが、政略結婚の妻であるハリエットだった。
二人は仲のいい夫婦になった。本来なら今も幸せに笑っていなければならないはずだった。親子三人で……いや、もしかしたらもっと増えていたのかもしれない子供達に囲まれて、柔らかな時間を過ごすべき男だったのに。
シェリー。結局あの子に真実を明かせないままになってしまった。何もできなかった。酷い体たらくだ。誰に忠義を捧げれば良かったんだ。一体、どうすれば——。
カーティスはともすれば叫び出しそうになる胸の内を抱えたままゆっくりと起き上がった。背中に張り付いた雪もそのままに、剣を鞘に収めて歩き始める。
王宮から叫び声が聞こえていた。物思いにふける前に、騎士団を指揮して消火に当たらなければならない。
アレクシオスの暗殺はついに表に出ることはなかった。調べても煙草の不始末としか結果が出なかったことと、前国王派を調べると全員アリバイが成立したことから、捜査は焼死という形で結末を迎えた。
マクシミリアンは領地を出ることが減り、カーティスが訪ねて行ってもどこか壁のある笑顔を崩すことは叶わなかった。それはハンネスも同じだとのことで、淀むような胸の内を抱えたまま時は過ぎる。
予想外に喜ばしいこともあった。アレクシオスの一人娘であるファランディーヌは、五歳という年齢でありながら驚くべき才能を発揮して、立派な治世を行い始めたのだ。
女王はカーティスたちの力を借りて残った政敵を一掃し、騎士団の無能共も見事に罠に嵌めて左遷してしまった。バルトロメイの代わりに騎士団長となったカーティスは、テキパキと臣下に指示を下す女王の姿を見て、天才とはこういう人のことを言うのだと知った。
ファランディーヌは少女としての顔も持っていて、シェリーと会う時はその表情を覗かせた。仲のいい二人を微笑ましく思いながらも、言いようのない罪悪感が胸中に降り積もっていく。
アレクシオスが何も企てなければ、二人は従姉妹同士として対等に育まれた筈だった。ナサニエルに良識さえあれば。マクシミリアンが復讐に囚われなければ。……カーティスがもっと強く止めていれば、あるいは。
彼女らは大人たちの都合に振り回された犠牲者だ。何の罪もない、無垢で清廉な魂。これ以上害されていいはずがなく、何の憂いも持たずに幸せになるべき存在だったのに。
カーティスはいつしか主君に対する忠義を抱くようになった。
ファランディーヌ女王が成人を迎えたあの日、夜会に姿を見せたマクシミリアンの姿にようやく彼の心も氷解を始めたのだと思った。自ら姪たる女王に歩み寄り、これからは少しづつでも関わることを決めたのだと信じてしまった。
復讐に手を貸せたのは途中まで。カーティスは忠義と友を天秤にかけて、忠義を選んだ。
いつからこんなにも冷酷な男になったのだろうか。いつからままならない程のしがらみを得て、清濁の濁ばかりを飲み込んだような大人になってしまったのだろうか。
渦を巻く問いに答える者は、誰もいない。




