18 最後の父娘会議
「さて、シェリー。話があるということだったね」
場所はアドラス侯爵家の食堂、会議に参加しているのは父と娘。休日である今日はお互いに私服を着ていたが、楽な気分にはなれずに手元の紅茶は手をつけられないままになっている。
いつもの如く長いテーブルの端に腰掛けたシェリーは、対面に座るカーティスをぴたりと見据えた。
「はい。我が家の後継について、答えをお伝えしたく存じます」
馬上槍試合から一週間が経った。季節は未だ夏の盛り、期限の冬まではまだ時間がある。
しかしシェリーはもう答えを決めていた。ならば悪戯に問題を長引かせて、周囲に迷惑をかけるべきではない。
「家督を継ぐことはできません。アントニーと結婚しても、本当の意味で幸せにはなれないと思ったからです」
とうに決めたことであっても、伝えるのには勇気が必要だった。
心臓が嫌な音を立てて、手のひらに冷や汗が滲む。カーティスはやはり落ち着いていて、娘を責めようという気は感じられない。
「本当に申し訳ありません。親不孝をお許し下さい」
シェリーは卓上に額がつく寸前まで深く頭を下げた。
家督についての話し合いをした去年の冬、カーティスは言った。結婚相手が見つからなければ家督を継いでもらう、と。
しかしシェリーには結婚相手など見つかっていない。それなのに自身の感情と向き合った結果、どうしても従兄弟のアントニーとは結婚できないと気付いてしまった。
ならばもうこれ以上関係する人たちを振り回すわけにはいかない。この家の後継問題も従兄弟の未来も、決めるなら早いほうが良いのだから。
「顔を上げて。シェリー」
穏やかな声が聞こえてきた。シェリーはのろのろと顔を上げ、その先にカーティスの苦笑を見た。
「まったく、なんて顔だ。仕方がないな」
どれほど自分が情けない顔をしているのか、シェリーは嫌と言うほど知っている。泣くのだけは我慢しようと喉に力を入れたら、ますます眉が下がるのを感じた。
「私は……良い娘では、ありませんでした。父上が騎士になって欲しいとは思っていないこと、知っていたのに」
結局何一つとして恩を返すことができなかった。我ばかり通して騎士になって、その上身勝手に役目を放棄しようとしている。
こんなにわがまま放題の貴族令嬢など世界中を探してもそうはいないだろう。ましてやカーティスとは血が繋がっていないというのに。
「ごめんなさい。父上……」
最後の言葉は子供のような響きを宿し、テーブルに落ちて消えて行った。
静寂が室内を満たしたのは恐らくは数秒の時間だっただろう。耐え難い時間は長く感じられて、それでもじっと俯いていると、ふと前方の空気が揺れる気配がした。
見ればやはりカーティスは笑みを浮かべているのだから、その優しい表情に胸が詰まった。
「そんなことを言ったら、私だって良い父親ではなかったよ。この一年で随分悩ませてしまったね」
シェリーはやっとの思いで首を横に振った。
カーティスがいい父親じゃないだなんて、そんな訳がない。シェリーにとって絶対的に格好良い世界一のお父さんだ。
「親不孝だなんて思わないよ。シェリーが騎士になりたいと言った時、心配で複雑だったけど、やっぱり嬉しかった。私は何もしていないのにこんなに立派になってしまって……誇らしい以外に何があるだろう」
大きな手が伸びてきて頭を撫でた。その優しい感触は幼き日のことを思い出させて、喉の奥がツンと痛んだ。
「よく頑張ったね。私の自慢の娘」
そんなことを言われてしまっては、泣くのを我慢するのは不可能だった。
涙腺など容易く押し流されて、大粒の涙がこぼれ落ちてくる。ぼたぼたと流れる雫を拭うこともせずに、シェリーはぐしゃりと顔をゆがめた。
「父上ぇ……!」
「ああ、泣かなくても良いのに」
そう言って笑った声が掠れていることに気付いたら、もう体が勝手に動いていた。シェリーは小走りに駆け寄って、椅子に座ったカーティスに思い切り抱きついた。
大きな手がぽんぽんと背中を撫でる。シェリーはしゃくり上げながら、今までの感謝を伝えるために息を大きく吸った。
「う、わ、私っ……! 絶対に、もっと立派な騎士になります」
「うん」
「頑張ります。父上がもっともっと、自慢に思えるように。自分で誇りに思えるように」
「うん。……うん」
ぽんぽん。子供をあやすような手付きに胸が詰まって、ますます涙が溢れてくる。
友人の子を引き取るという大きな決断を下した時、父は十八歳の身に一体どれ程の覚悟を抱いていたのだろう。
カーティスはいつでも優しかったけれど、悪いことをすればきちんと叱る父親だった。しかし沢山食べる娘をなじることもなければ、社交界に溶け込めなくても怒ったりしなかった。まあこれについては、本人も社交界があまり好きではないというのが理由としては大きいようだったけれど。
カーティスはいつだって、貴族令嬢として劣等生だったシェリーの一番の味方だった。
「父上の娘になれて、幸せでした」
「……ああ。私も、幸せだった」
それでも父に手を引かれて歩いた幼い頃、見上げた姿は大きくてどこか遠かった。今も尚大きな背中だが、もう遠いとは思わない。
会いに来よう。これからも遠慮することなく、好きな時に帰って来よう。
大好きな父と友人がいる、この家に。
*
シェリーが食堂を出て行ってしばらく、カーティスはゆっくりと立ち上がった。
自然と足が向いたのは夫婦の寝室の隣、侯爵夫人の部屋だ。茫洋とした頭を正すこともせずにノックをすると、すぐに扉が開いて、今一番会いたかった人が顔を覗かせた。
「お疲れ様でした。お話、終わったんですね」
若草色のワンピースを着たネージュは、労いに満ちた笑みを浮かべて夫を迎えた。ああと返事をするとますます優しい笑顔になって、部屋の中へと案内してくれる。
「どうぞ、座ってください。凄いお顔ですよ」
ネージュは自ら話し合いへの参加を辞退して、自室で待機していたのだ。
カーティスとしては参加してもらいたかったのだが、ネージュ曰く「私がいるとシェリーが遠慮しそうなので。私とシェリーは家族でもありますが、やっぱり大部分で親友なんです」とのことだった。
彼女の気遣いは結果的には必要だったのだと、今ならよくわかる。
「凄いって、どんなだろう」
「私の語彙では表現できないお顔です。さあ、休んでくださいね」
促されるままソファに腰掛ける。ネージュは茶の用意をしようとしたが、カーティスが手招きをすると大人しく隣に座った。
ネージュがじっとこちらを見つめているのがわかっても、目を合わせることはできなかった。代わりに体から力を抜いて、遠慮なく細い肩にもたれ掛かかる。
情けない体勢だが、今だけは許してほしい。
「……駄目だ、寂しすぎる。女の子だからなのかな」
掠れた小さな声しか出ないが驚きはない。想像よりもずっと大きなダメージを負ったことに、知らずのうちに苦笑が漏れる。
「もうこんな思いはごめんだ……」
いつかはこんな日が来ると思っていたけれど、いざ来てみると酷い気分だった。
シェリーが幸せならそれで良いはずなのに、男親というのは誰しもが皆こんな思いをしているのだろうか。
「寂しくて当然ですよ。友人の私でも感慨深くなるくらいですから」
ネージュが微かに笑う気配がした。シェリーの相手については何となく予感していたというから、やはり流石は親友と言うべきなのだろう。
「シェリーなら大丈夫です。きちんと人と向き合える子ですから。きっと幸せに……ううん、相手まで幸せにしちゃうと思います」
娘の友人の言い分は、いかにも的を射たものだった。
確かにそうだ。シェリーがそういう子だと知っているからこそ、信じて送り出すことができたのだ。
カーティスは納得を得ると共に、手傷を負った胸がすっと癒されていくのを感じ、感謝を伝えるために体を起こした。しかし改めて目を合わせてみると、綺麗な琥珀色の奥が揺らめいている様に見える。
「どうしたんだい。不安そうだ」
「えっ⁉︎ いえ、今は私のことなんて」
「そうはいかないよ。何があった?」
話をするよう促すと、ネージュは少し頬を染めて、言い淀んだ末に小さな声で話し始めた。
「その……実は昨日わかったのですけど、シェリーの結論が出るまでは言わない方がいいかと思って」
珍しく前置きが長い。話の主題が読めずに逸る気持ちを抑えて、カーティスは辛抱強く耳を傾けた。
「想像以上に落ち込んでいらっしゃるから、やっぱり今日もやめようかな、とか」
「うん」
「先ほどはもうこんな思いはごめんだって仰っていたし」
「……うん?」
ここでカーティスは一つの予感を抱いた。その予感を口にする勇気が形になる前に、はにかんだネージュが答えをくれた。
「実は……赤ちゃんを授かったのです。女の子だったら、お嫌でしょうか……?」
ああまったく、とカーティスは思った。
こんな幸せはないというのに、この人は相変わらず人のことばかり考えて。
「そんなの、可愛いに決まっているよ」
情けない顔をしているのを誤魔化したくて、カーティスは最愛の人をそっと抱き寄せた。壊れ物を扱うかのように、そっと優しく。
先程からの失言について、特に凭れたことを謝ったら、そんなの平気ですと元気な声が返ってきた。最愛の妻は頼もしいけれど、どうか守らせて欲しいと思う。
「ありがとう、ネージュ」
カーティスはやっとの思いでそれだけを言った。涙声になってしまったせいか、腕の中のネージュが声を上げて笑った。




