16 知ったことじゃない
いつしか街は闇の色に包まれ、開いた窓からは酒場にたむろする客たちの声が聞こえる。もう風は吹いておらず、カーテンはおとなしく垂れたままでいた。
おそらくはよくあるブラッドリー領の夜だ。しかし淡々とした口調で語られた昔話によって、シェリーは静かな空気とはあまりにもかけ離れた心境にいた。
イシドロの過去に確かに存在した母の姿。想像通り優しい人で、それなのに自分は少しも覚えていない。
もっとも大事な家族を失った虚無と、それから過ごした孤独の子供時代。シェリーは近頃の交流によってイシドロが一応は街を見守っているらしいと気付き始めていたのだが、やはりこの直感は当たっていたのだと確信する。
そして彼ともまた赤子の頃に出会っていたこと。彼は平原での決闘で既に気付いていたこと。その真実のどれもが心を乱して息ができない。
シェリーは俯いたまま騎士服の裾をきつく握りしめ、やっとの思いで声を絞り出した。
「何で、言ってくれなかったの……?」
確かに聞いたのに。墓地で出会ったあの時に、守っていてくれたのではないかと。
当てのない推測はやはり間違いのないものだった。それなのに何故イシドロはそうだと言ってくれなかったのだろうか。
「あんたは俺に関わるべきじゃない」
凪いだ水面のように静かな声が聞こえて、ゆっくりと顔を上げる。
イシドロは笑みを消してこちらを見つめていた。その瞳に宿る明確な拒絶に、シェリーは胸の痛みを堪えるために腹に力を入れた。
「どうして!」
「……わかるだろ。あんたはボスとハリエットさんの大事なお嬢さんで、世が世ならお姫様として育つ筈だったんだろうが。そんな奴が、俺みたいなのに構うんじゃねえよ!」
低く荒げた声は感情を宿し、シェリーには狭い部屋を駆けて全身を叩いたように感じられた。
今ようやくわかった。イシドロは謀反が終結するまで人知れずシェリーを救い、終わってからはずっと遠ざけようとしていたのだ。
墓地で揶揄ったのも、差し出したハンバーグを直接食べたのも、馬上槍試合でわざと負けたのも、全てはシェリー自ら距離を取らせるため。それでも見回りに付いて来るのを許したのは、あえて断ることをせずにどうでもいいと思っていると印象付けるためだ。
本当に勘がいい。この男はひとの性格をよくわかっている。
しかし残念ながら、ちょっと怒鳴られたくらいで退散すると思ったことだけは大間違いだ。
「そんなの私の知ったことじゃないわよ!」
シェリーは椅子から立ち上がった勢いのまま、イシドロを大きく上回る声量で怒鳴り返してやった。
腹が立って悲しくて仕方がなかった。彼が彼自身について、道端の石ころのような扱いをすることが我慢ならなかった。
こんな話を聞かされて、はいそうですかと納得できる筈がない。
「勝手なことを言わないでよ! 貴方は頭がおかしいけど、同じくらい優しいことを、私は知ってる!」
子供が嫌いなのは、あまりにも弱くて壊れそうだから。飢えた子供がもっと嫌いなのは、自分と同じ思いをして欲しくないからだ。
こんなに優しいくせに、自分に無頓着なのもいい加減にしてほしい。
「だから気になるの! だから、会いたいと思うの! これからも、何度でも、ずっと!」
決死の覚悟で言い切った時には大きく息が弾んでいた。
悲痛な色を隠しきれなかった訴えが余韻を含めて聞こえなくなるまで、イシドロは大きく目を見開いてじっとしていた。シェリーは挑むように睨み返したのだが、目を逸らしたのはやはりイシドロの方が早かった。俯き足を開いて座る姿勢を取ったかと思えば、いつしか乾いた髪を無造作に掻き回している。
「はあー…………何だよ。俺が、せっかく……はは……」
長い長いため息と、諦めを含んだ笑い声。
次に顔を上げた時、イシドロは笑みを浮かべていた。こんな顔ができたのかと思うほど優しい笑顔に、不思議と違和感は感じなかった。
「あーあ、クソ。あんた、本当に筋の通ったおめでたい馬鹿だな」
「貴方もおめでたくはないかも知れないけど、筋の通った馬鹿ではあると思うけどね」
憎まれ口に言い返したら、シェリーも自然と笑っていた。
いつだって喧嘩腰になってしまうし、皮肉を貰っては言い返しての最低のやり取り。けれどこれで良いのだと思う。きっとこの先も、彼との会話はこの調子だ。
ふと気づけばイシドロの瞳が真剣味を帯びていたので、シェリーは口を噤んだ。
「今日は悪かった。あんたを傷付けた」
そして彼は静かな声で、まっすぐな謝罪をくれた。
貴方が謝るなんて変よと茶化してやりたいのに、シェリーは目の奥が痛んで何も言うことができなかった。だからただ受け止めて、首を横に振った。
もういいのだ、そんなことは。イシドロにはイシドロの行動理念があって、シェリーにはシェリーの引けない理由がある。騎士二人がぶつかったのだから、仕方がない。
詰まるところ、イシドロはやはり騎士だった。二人の主君に仕えることに絶対の筋を見出しただけの、孤高の存在だった。
「イシドロは……公爵夫人のことが、好きだったの?」
シェリーはすっかり納得しかけていたので、自分の口をついて出てきた質問に愕然とした。
何故こんなことを聞いてしまったのだろう。ああほら、イシドロも迷惑そうに眉を顰めているし。
「はあ? 今の話から何でそんな発想になんだよ。俺は今まで人を好きだと思ったことなんて一度もないね」
「そう……そう、なのね」
心底怪訝そうな返答にやけに強い安堵を感じ、シェリーは俯いてそっと息を吐いた。
そうだ、本当に何を聞いているのだろう。この男に一般常識は通用しない。基本的に他者のことを強い弱いでしか判断しないのに、好きも何もある筈が——。
「けど、あんたのことは愛おしいと思ったな」
「そう……えっ?」
何も考えずに頷いた所で空耳としか思えない言葉を聞いたことに気付き、シェリーは間抜けな声を上げた。
改めてイシドロと目を合わせると、そこには懐かしさすら感じさせる不敵な笑みが復活を遂げていた。
「随分と熱烈な告白だったなあ、シェリー」
「なっ⁉︎」
言われて初めて自分の発言を思い返し、シェリーは耳まで真っ赤に茹で上がってしまった。
確かにとんでもないことを言ったような気がする。先程は興奮していたので何も考えていなかったが、気になるとか会いたいとか、かなり恥ずかしい内容だったような。
「俺は感動したね。だから是非とも俺の気持ちを受け止めてもらいたくなった」
イシドロは芝居がかった仕草で立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。その瞳は猛獣としか表現しようがなく、シェリーは本能的な危機感を覚えた。
思わず一歩後退りをすると、すぐに腰が机にぶつかった。その隙に伸びてきた両腕が背後の机を突いて、薄く笑んだ端正な面立ちが近付いてくる。
「ちょっと待って! 何、何してるの⁉︎」
「俺の家で俺がやりたい様にして何が悪いんだよ。さっさと観念しな」
駄目だ、話が通じない。遠ざけるために揶揄っていたのだろうと推察したばかりだが、やはり人を揶揄うのはこの男の生きがいなのかもしれない。
ああ、でも。今までで一番優しい、青灰色——。
耐えられずに目を瞑った時のことだった。壁の向こうからノックの音が響き、同時にイシドロがぴたりと動きを止めた。
恐る恐る瞼を押し上げる。イシドロはキッチンに続く扉を細めた瞳で睨んでいて、わずかな間の後に舌打ちをすると、応対をすべく玄関へと出て行った。
シェリーはずっと放心し続けていたのだが、扉の閉まる音で急激に意識を取り戻した。
——今一体、何が起きたの⁉︎
本当に意味がわからない。だってついさっきまで、彼は私を遠ざけようとしていた筈なのに。
一体どんなつもりでこんなことを。というか、そもそも私はどうしたいの。どうして少しも嫌だと思わないの……?
あまりの混乱に頭を抱えたところでキッチンから話し声が聞こえてきた。その声は馴染み深いものでありながら、ここに来るはずのない人のものであったため、シェリーは扉を小さく開けて様子を確認することにした。
果たしてそこには予想通りの人達がいた。騎士服姿のカーティスとフロックコートを着こなしたマクシミリアンは、小さなアパートにいると違和感がありすぎて、シェリーはぱちぱちと瞬きを繰り返してしまった。
彼らの反応は早く、少し扉を開けただけで娘だと気が付いた様だった。目を合わせたのと同時に二人の額に青筋が浮かんだ様に見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
何を言うべきか迷っていると、カーティスがゆっくりと腰に下げていた剣を抜いた。
「さあイシドロ、表に出ろ。君が望む通り、殺す気で相手をしてやるぞ」
いや違う、気のせいではない。カーティスは一見笑顔を浮かべているが、チンピラ紛いの口調で命令をするなんて天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
「ああ、俺も手伝ってやろうカーティス。土下座で許しを乞うくらいしてもらわなければ、気など済まないだろうからな」
そしてマクシミリアンも秀麗な笑顔で物騒なことを言っているのだが、この人達は自分の実力を理解しているのだろうか。というか仲が良すぎやしないだろうか。
シェリーはキッチンに出て、この不可解すぎる状況に待ったをかけてみることにした。
「あの、ちょっと、父上? 公爵様まで、一体何を」
「シェリー、君にも話がある。すぐに終わるから待っていなさい」
しかしその努力はカーティスによってすぐさま切り捨てられてしまい、更にはこちらにまで火の粉が降りかかってきた。ここまで怒っている姿はこの十九年の人生でも初めて見たような気がする。
シェリーはとある記憶を呼び覚まされていた。つい先週実家に帰った折、確かネージュがこう言っていたのだったか。
——カーティスさん前に言ってたんだよ。シェリーの相手は自分より強い男がいいって。
もしかしてあの話、一から十まで本当だったってこと?
「そいつは光栄だね。騎士団長閣下、ボス」
そしてイシドロまでもが爛々と目を輝かせているのだから止めようがなかった。流石に王国最強の二人を相手にしたら死ぬ以外に道はないはずなのだが、この猛獣にとっては願ってもない事態だったらしい。
結局のところシェリーは唖然としたまま、実に楽しそうな笑みを浮かべた三人を見送った。
その夜のこと。ブラッドリー城から凄まじい破壊音が聞こえてきたというのは、城下町に住む複数の民による証言である。




