14 つまんねえ話 ②
その後もハリエットはパンを持って、しばしばイシドロの前に姿を現した。
彼女は大抵の場合赤子を連れていて、よく見ると付き人が近くで待機していることがわかった。一応は用心する気があるようなので、ハリエットの能天気さについて追求するのはやめることにした。
「今日は夫の靴を持ってきたの。頼めるかしら」
手渡されたのは如何にも高級そうな革靴だ。本来は男の方が客層の多くを占めるため、イシドロは躊躇いなく頷いた。
「はいよ。座って待ってな」
「はあい」
いつしか冬が街を覆い尽くしていた。街路樹が裸になる中で道ゆく人はコートを着込み、いつものように椅子に座ったハリエットも上質な灰色の外套を身に纏っている。
イシドロもどこかで拾った大人用のコートを着込んでいたが、今日に関しては昨日より少し温かいようだった。だからこそハリエットも赤子を連れてここに来たのかもしれない。
「これ、パンを持ってきたから食べてね」
「……アリガトウゴザイマス」
ハリエットは飽きずにパンを持参してくる。親切を与えた相手が無表情で礼を言うのに、少しも嫌だと思わないらしい。
「今日は暖かいけど、寒い日が続いているわよね。イシドロ君は何か困っていることはない?」
「特にねえよ」
「そう、良かったわ。私、この国での冬は二回目だけど、寒くて未だに慣れないの」
ハリエットがどこかの国からやって来たらしいということは、会話の節々から理解していた。
公爵という爵位がどれほど偉いのかも、ブラッドリーの名前も知らないイシドロだが、彼女が高貴な人であることくらいはわかる。地位ある人がこんなところで油を売っているとは不思議な話だが、ハリエットによれば理解ある夫の元で自由に過ごさせて貰っているらしい。
「お兄さんのお加減はいかが?」
「……あんまり良くねえ」
この時だけは声が沈むのを抑えられなかった。俯いて仕事をする少年を見つめ、ハリエットは小さな声で「そう」と呟いたようだった。
ハリエットはいつも代金に色をつけてくれる。お陰でニコラスにはいいものを食べさせてやれたのだから、彼女が落ち込むようなことは何もない。
しかしイシドロは何を言えばいいのかわからなかった。微かに口を開けてまた閉じたところで、予想外の珍事が起きた。
豪快すぎる腹の虫の音が、ハリエットから高らかに響き渡ったのである。
「こ、これは……! 違うのよ⁉︎」
目を点にするイシドロの前で、ハリエットが顔を赤くして慌て始めた。すると赤ん坊が母の動揺を悟ってぐずりだしたので、すぐにあやしにかかっている。
赤ん坊はまたすぐに眠りについた。ハリエットは後悔しきりといった調子で、両手で頭を抱えている。
「私、人並み外れた大食いでね。よくお腹が空いちゃって、今日は何だか朝ごはんが足りなかったみたいで」
イシドロはつい胡乱げな目をしてしまった。そういえば彼女は最初の時、何故か都合よく大量のパンを抱えていたのだったか。
「じゃあ、このパン食べれば」
「えっ⁉︎ い、いいえ、そんな! これはあなたにあげたものなのだから、頂くわけにいかないわ!」
「目の前で腹鳴らされて、持って帰れるわけないだろ。いいから食べろよ」
ハリエットはどうするべきなのか大いに迷っていたようだった。パンの袋とイシドロと、最終的には眠る我が子に視線を往復させて、躊躇いがちに頷いた。
「じゃあ、一個だけ」
「べつにぜんぶ食ってもいいけど」
「いいえ! 本当に、一個だけ!」
自分に言い聞かせるような声音だった。ハリエットは麻袋からクロワッサンを取り出すと、上品な仕草で千切って口に入れた。
「美味しい!」
イシドロはついに笑ってしまった。
自分は既に食べ物への興味をなくして久しいから、こうして腹を減らして食って動いて、元気で眩しいなと思う。
ハリエットはこの世の幸福を全て詰め込んだような女性で、恐らくはイシドロと対極に位置していた。きっと彼女は自身の親だった存在とは違い、娘のことを心から慈しみ育てていくのだろう。
この世界に良い大人というものが存在することを、ハリエットは存分に教えてくれた。ただそれだけで小さな世界が広がったことを、彼女はきっと知らない。
革靴はいつしかすっかり磨き上がっていた。ハリエットに手渡すと、いつものように喜んでくれた。
「それじゃありがとう、イシドロくん。またね!」
「おう。じゃあな」
娘を腕に抱いたハリエットが手を振って踵を返す。大通りを歩いていく彼女の背後を通行人たちが行き交い、細い背中を覆い隠していく。
今度あの人が来たら素直に礼を言おう。会えて良かったと、いつか恩を返すから待っていて欲しいと、自分の言葉で伝えたいと思う。
イシドロは再び前を向いて客が訪れるのを待つことにした。その日は珍しくも夜になるまで客足が途切れることはなかった。
いつもより多い稼ぎを抱えて、イシドロは家路を辿る。
今日は肉と野菜も買ってしまった。ハリエットのパンと合わせてスープでも作り、ニコラスに食べさせてやろう。栄養を摂りさえすれば体調も良くなるに違いない。
隙間風の吹く我が家の扉を開けると、違和感はすぐにイシドロの察知するところとなった。
兄がいない。唯一の個室であるトイレを覗いてももぬけの殻で、定位置のベッドは既に冷たくなっている。
何だ、どういうことだ。兄貴はもうまともに歩けなくて、外になんか出れるはずがないのに。
訳がわからないなりに体が勝手に動いて外へと飛び出した。嫌な予感が体中を支配していて、いくら疲れても走り続けるしかなかった。
日が暮れるまで探したものの見つかることはなく、行方がわかったのは翌日の朝になってのこと。
ニコラスはたった一人骸となって、真冬の川に浮かんでいた。
見つけたのは通りがかった新聞配達員だった。到着した警察と野次馬で周囲が騒然としたところで、捜索中のイシドロがその場を通りがかったのだ。
人垣の向こうに見慣れたパジャマを見つけた瞬間から当時の記憶は途切れている。気づいた時には既に共同墓地での埋葬を終えていて、イシドロはあっけなく、この世で一人きりになった。
字が書けない故に遺書はなかったが、何が兄を最悪の結末へと走らせたのかなんて、子供からしても明白だった。
——俺だ。俺にこれ以上の負担をかけないために、兄貴は死んだんだ。
何だよそれ、馬鹿みたいだろ。俺たちは支え合って生きてきた、ただそれだけのことじゃねえか。
兄貴がいればそれで良かったのに、なんで話してもくれなかったんだ。
俺が子供だからか。それとも俺が弱いからか? だから兄貴のことを、守れなかったってことなのか……?
胸を全部抉り取られたみたいだった。何が悪かったのか考えれば考えるほど自分という答えに行き着くのだから、単純な悲しみすら湧いてこない。
何もすることがなくなって、残ったのは靴磨きの仕事と棲家だけ。イシドロは数日後には仕事を再開したのだが、もう一つの変化があった。
ハリエットが来なくなったのだ。冬が深まり年が明けて、寒さが和らいでも、彼女は姿を現さない。
「……は」
乾いた笑いがこぼれ落ちて、白い息になって消えて行った。
世界は狭い。価値観を変える出会いがあろうとも、それは幻の如く消え去るもの。取るに足らない自分に珍しくも幸運が降りかかった、ただそれだけのことらしい。
イシドロは道具を片付けて立ち上がった。腹が減らなくなったのは、この頃のことだった。




