13 つまんねえ話 ①
イシドロは幼い頃の自分の姿なんて覚えていないが、よく目つきが悪いと言われていたから、今と大差が無いのだろうと思っている。
当時の王都は痩せっぽちの孤児が生き残るにはあまりにも厳しい環境だった。スラムと呼ばれる区画に辛うじて住み、寝ているのか死んでいるのかよくわからない男が転がっているのを尻目に、朝早くから仕事に向かう。
職業は靴磨き。手先は器用な方だったから、同業者の見様見真似で始めたら案外何とかなった。日銭を稼ぐにしても足りない程度しか得られるものは無かったが、学も親もないイシドロには他に選択肢などない。
木陰を利用して店を広げても、堪える程に暑い日だった。
「腹減ったな……」
腹の虫の音を聞き留めて、口が勝手に独り言を紡ぐ。
朝は最後のパンを一つだけ食べた。食事を抜くことも多いこの暮らしにおいて、比較的マシだと言える量。
だからと言って特に文句はない。稼げない自分が悪いのだ。今日も客が来なかったら……いよいよ晩飯抜き、だろうか。
人知れずため息をついた時のことだった。本日最初の客が現れたのだ。
金髪に翡翠の瞳の綺麗な女が、綺麗な革パンプスに包まれた足を差し出してくる。
「夫に貰った大事な靴なの。だから綺麗にしたくて」
恐らくは貴族なのだろう、随分と珍しいなと頭の片隅で思う。この靴は磨く必要のないほど光っているが、わざわざ客が来たのを追い返す理由はない。
イシドロが黙って磨き始めると、頭上で女が微笑む気配がした。
「上手ねえ。あなた、いくつ?」
「六歳」
「あら、少しお兄さんに見えるわね」
それもよく言われることだった。栄養状態が悪い割に背が伸びて来たからか、実際より年上に見えるらしい。
「いつも靴磨きしてるの?」
「そうだよ」
「手際がいいものね。暑いけど平気?」
「べつに、慣れてる」
「偉いわねえ。私はちょっとバテちゃってるのに」
女は愛想のない子供にも機嫌を損ねたりはしなかった。作業の間中どうでもいいことをペラペラと話しかけてきて、その図々しさときたらスラムでも見たことがないほどだった。
「ご家族はいるの?」
「兄貴がひとり」
「まあ、お兄さん。お兄さんも、靴磨きを?」
「してない。兄貴は病気だから」
家族の話に及んだ時だけ、女は悲しげに眉を下げた。
親の顔を覚えていないことも、病気の家族を抱えていることも、イシドロからすれば特別でもない話だ。事情が無い奴の方がスラムでは珍しいのだから。
その後も他愛のない質問に答えているうちに作業が終わった。女は磨かれた靴を見て華やかに笑って見せた。
「綺麗! ありがとう、助かっちゃったわ」
満足げに言って立ち上がると、女は代金と同時に大量のパンが詰まった麻袋を差し出してきた。
「良かったら食べて。ここのパン、美味しいのよ」
この人は何がそんなに楽しいのだろうか。金持ちの気まぐれとして貧しい孤児に情けをかけたつもりなのだろうが、こちらとしては静かに仕事をさせて貰ったほうが有難いというのに。
「……じゃあ、貰っとく」
「良かった。ねえあなた、お名前は?」
今度は名前まで聞いてきた。減るものでもないし構わないが、ここまで客に絡まれるのは初めてかもしれない。
「イシドロ」
「イシドロくん。私はブラッドリー公爵夫人ハリエットよ」
自身が名乗るのは構わないのだが、この人は名乗らない方が良かったのではないだろうか。
普通に危ない。ここは一般的な地区とはいえスラムに近いし、孤児のガキに名乗って言い名前じゃ無いだろう。
しかしハリエットは一切気にしていない様子だった。また来るからよろしくねと言い置いて、機嫌良く立ち去っていく。
イシドロはほとほと疲れてしまい、その日は店仕舞いすることにした。何せこのパンの量は自身の稼ぎの二週間分はあるのだから。
住み慣れた我が家は築何年かもわからない平家にある。トタンの合間を縫ってたどり着いた先、立て付けの悪い玄関扉を押し開けると、中から「おかえり」との声が聞こえてきた。
キッチンと地続きのワンルーム。それが兄弟の暮らす家の全てだ。
兄のニコラスはこの頃体調が悪く、いつも窓際のベッドで寝込んでいる。しかし今日に限っては調子が良いようで、ベッドの上で上体を起こしていた。
「お疲れ様、イシドロ。今日は暑かっただろう」
同じ濡羽色の髪くらいしか兄弟であることを証明するものは無いのだが、それでも間違いなくこの優しい人はイシドロの兄だった。ニコラスは今年で十四歳になるというのに、病のせいで痩せ細った体が二歳は若く見せている。
「客にパン貰った。兄貴、食うだろ」
「お前が貰ったんだから、お前が食べなよ」
「ものすごい量だし食べきれねえよ。ほら」
麻袋をベッドの上に置くとどさりと重たい音が鳴った。ニコラスはその音を聞いて目を丸くして、それからすぐに楽しそうな笑みを見せた。
「ほんとだ。ずいぶん気前のいいお客さんだね」
正直なところ、まともなパンを見るのは数日ぶりのことだった。六歳の少年しか稼ぎ手のいないこの家において、一般的な食事にありつける日は殆どない。
しかし兄がいたから、イシドロは辛いとは思わなかった。
ニコラスは数ヶ月前に病気になるまで必死で弟を育ててくれた。彼が言うには両親はこの世のクズを詰め込んだような人間で、赤ん坊のイシドロを抱えて家を飛び出したらしい。
子供が子供を育てるのだから相当の苦労があったはずだ。まだ幼いイシドロにも想像することくらいは出来たから、今度は自分がニコラスを支えることになんの疑問も抱いていなかった。
「イシドロ、いっぱい食べて。何となくだけど、お前はすごい奴になるような気がするんだ」
これはニコラスの口癖だ。しかし兄があまり食べなくなったから、イシドロも何となく食への興味が失せてしまった。
「俺はべつに、すごい奴になりたいなんて思わねえけど」
「お前は欲がないねえ。ほら、これなんか美味そうだよ?」
ニコラスがロールパンを取り出して差し出してくる。艶のある狐色を受け取りながら、これでいいのだとイシドロは思った。
世界は狭い。本当は広いのだとしても知りたくもないし、自分には兄がいれば十分なのだ。
「イシドロくん、こんにちは!」
初めて訪れた時に宣言した通り、ハリエットは暑さが和らいだ頃になって再び現れた。前回と違ったのは、その腕に一歳にも満たない赤ん坊を抱えていたことだ。
「今日は娘を連れてきちゃった。散歩に出ると機嫌がいいのよね」
初めて間近で見る赤子に、イシドロは柄にもなく少々怖気付いてしまった。
何だこの柔らかそうで小さい生き物は。触ったら壊れるんじゃないのか? やたらと白いしにこにこしてるし……ああそうか、母親にそっくりなんだ。
「ふふ、抱っこしてみる?」
「い、いい、いらない。俺に近付けんな」
ぶっきらぼうに言うと、ハリエットは楽しげに笑って椅子に腰掛けた。客として来られたのではどうしようもなく、イシドロは淡々と水色のヒールを磨き始めた。
「お仕事の調子はいかが?」
「暇、いつもと変わんねえよ。……そういえば、パン、美味かった。アリガトウゴザイマシタ」
もう一度そのお客さんに会えたらきちんとお礼を言うこと。兄からの指導に従って告げてみたものの、人からの親切に慣れない身では片言になるのも無理はなかった。
「まあ、良かった! 私もお気に入りなの」
ハリエットは不器用な礼にもとびきりの笑顔を返して見せる。能天気なお貴族様だが、嫌味には感じないのが彼女の凄いところなのかもしれない。
「ねえ、イシドロくん。突然なんだけど、孤児院には入らないの?」
その話題は脈絡がなかった。しかし客の中には子供が一人で仕事をしてるのを心配して似たようなことを言ってくる者も多かったので、特に驚くこともなく首を横に振る。
「孤児院って酷いところなんだってさ、知らねえの? 今もまあまあ酷えけど、どこ行っても同じじゃしょうがないだろ」
王都の孤児院が酷いと言うのは兄からの受け売りで、イシドロ自身が詳しいわけではないが、面倒だったからあえてきつい言い方をした。するとハリエットは瞳を曇らせて、ごめんなさいと呟いた。
「じゃあ、我が家の領土の孤児院に来ない? ブラッドリー領、良いところよ!」
「……はあ?」
このまったくめげる様子のない勧誘ぶりには、流石のイシドロも目を丸くせざるを得なかった。
何を言っているんだこいつ、馬鹿なのか。この調子で王都中の孤児をかっさらうつもりか?
「あんたさ、どの子供にもそんなこと言って回ってるのかよ。キリないだろ」
「あはは。初めて会った時から思っていたけど、大人びてるわよねえ」
幼い子供に呆れられようともハリエットは動じない。赤子を抱えて上半身を揺らしながら、自身の考えについて語り出す。
「私ね、どこの子だろうとお腹いっぱい食べさせてあげたいの。何だってまずは目の前のこと。偽善だろうが手が届かない場所があろうが、何もしないよりはマシだもの」
自分の行動を信じる者特有の輝く瞳。初めて目にするその色が眩しく映り、ハリエットが語る先が大きく広がっているように聞こえた。
けれど世界は狭い。イシドロは再び靴に視線を落として、輝く人の姿を自ら断ち切った。
「俺は死なないだけ食えりゃそれでいいし。それに兄貴が移動なんてできないからだめだ」
ニコラスの体調は日増しに悪くなっている。近頃は少し歩くだけで咳き込んで、食べる量も極端に減ってしまった。スラムに住む闇医者にも治す手立てがないと言われており、これでは移動になど耐えられる筈もない。
「……そっか。イシドロくんは、優しいのね」
ハリエットはそれ以上何も言わなかった。代金と一緒にパンを手渡して、その日は帰って行った。




