12 彼の真意は
その瞬間の衝撃は、横面を張られたという比喩など生ぬるいほどのものだった。
頭が左右に揺れているような錯覚を覚えた。何故、どうしてと、意味のない疑問符ばかりが脳内を駆け巡って、何も反応を返すことができない。
「すまない、よく話していたようだったから、てっきり聞いているものと……シェリー? どうした、大丈夫か」
知っていた? そんな、嘘。だって私は、聞いたのに。
——俺の知ったこっちゃないね。
彼の口癖が思い出された。いつも何も教えてくれないから、言われたことをそのまま受け取るしかなくて。
けれどハリエットの墓参りで出会ったあの時、シェリーは明確な主語を述べたわけではない。あまりにも重すぎる出自の秘密は、明かすことを一人で判断できるはずもなかったから。
シェリーは音を立てて立ち上がった。別れの挨拶もそこそこに走り出すと、背後から焦った声で呼び止められたが、走りながら謝るという不作法まで犯してしまった。
遥か後ろで扉が閉まる音が聞こえる。シェリーは構わず走り続け、やがて探していた人物を見つけ出した。
「ダリオ殿!」
「アドラス副団長殿⁉︎ そんなに急いで、一体」
「イシドロはどこにいますか⁉︎ お願い、教えて!」
言葉を遮るようにして詰め寄るとダリオは大きくのけぞった。どう見ても怯えた様子だが、今のシェリーに構っていられることではなかった。
「アルカンタル隊長なら、もうお帰りになられましたが」
「じゃあ住所、教えて下さい!」
「住所⁉︎ いや、それは流石に……!」
ダリオは一応は部下としての立場で断ろうとしたが、シェリーも負けてはいなかった。急用があって絶対に今会わないと困るという旨を伝え、ダリオから聞いたことは内緒にしておくと言い含めた結果、最後には助けてもらった恩との理由で折れてくれたのだった。
「……あのう、アドラス副団長殿。一つ言っておきますが、アルカンタル隊長は決してお金が無くてあの家に住んでいるわけじゃないんです」
礼を言って立ち去ろうとしたところで、ダリオが聞いてもいない説明を始めた。言いにくそうに眉を下げているのだが、彼は一体何の心配をしているのだろうか。
「あの人、完全に衣食住に興味がないんですよ。ギャンブルも煙草もやらないし、酒は強いけど嗜む程度だし。だからお金が溜まって仕方がないみたいなので、そこはご安心くださいね!」
イシドロが部下に謎のフォローをされている。
シェリーには意味がわからなかったが、親指を立てたダリオに対して曖昧に頷くにとどめておいた。
貰った住所を手に転移魔法を使い、辿り着いたのはありふれた下町だった。
ここは豊かなブラッドリー城下でもっとも庶民的な区画の一つ。狭い道を挟むようにして三階建てのアパートが立ち並び、一階には酒場や商店が軒を連ねる。夕刻の住宅街では買い物袋を片手に歩く者も多く、遊び終えた子供たちが解散していく様が象徴的に映った。
そしてイシドロの棲家があるというアパートは、まさにシェリーの目の前にあった。
古い造りではあるが、丁寧に使われていることがわかる煉瓦造りの建物だ。階段は中にあって、玄関から入って各階に上がる構造になっている。
ここまで来たら行くしかない。止まりそうになる足を叱咤して、シェリーは階段を登り始めた。
目的の201号室は想像通り登ってすぐの二階にあった。目の前に聳え立つのはこのアパートによく似合う古びた鉄製の扉だ。一度でも躊躇えば動けなくなると無意識のうちに悟ったシェリーは、間髪入れずにノックした。
金属の小気味良い音が鳴るが中々返事が返ってこない。もしや不在なのだろうか。今度は強めに、さらに回数も足して叩くと、中で何かが動く気配がした。
気怠そうな足音が聞こえてくる。次いで内側から扉が開け放たれた瞬間、石鹸の香りが風に乗って届いた。
「何だようるせえなあ。うちは販売も勧誘もお断り——」
いつになく苛立ちを滲ませた声は、シェリーと目を合わせた瞬間に途切れた。
首にかけた布で頭を拭いながら登場したイシドロは、どうやら風呂上がりだったらしい。前髪からいくつかの水滴を滴らせ、黒のタンクトップに灰色のズボンという簡素な服装で玄関に立っている。
「あんた、なんで」
彼の動揺を含んだ声は初めて聞いたかもしれない。シェリーは引き締めた表情を崩すことなく、毅然とした姿勢で口を開いた。
「母のことを聞きにきたの」
ずるい言い方だとは承知の上だが、これならイシドロにもすぐに状況が伝わるはずだ。
案の状イシドロはしばしの間じっとシェリーを見つめてきたかと思えば、やがて諦めを多分に含んだため息を吐いた。
「……ボスに聞いたのかよ」
「そうよ」
「茶なんて出ねえぞ」
「構わないわ」
イシドロはシェリーがてこでも譲らないことを悟ったようだ。もう一度ため息をつくと、握ったままになっていたドアノブを押して扉を大きく開いた。
「入りな」
シェリーは少しの躊躇いの後、小さく一礼して扉をくぐった。
入った先に玄関はなく、すぐにダイニングキッチンになっていた。単身か、せいぜい二人暮らしを想定していると思われる小さな部屋。普通なら色々と工夫して使うだろうが、イシドロにその気は無かったらしい。
目の前に広がるのは色のないがらんどうだった。
ナイフや鍋などのキッチン用品は一つも置かれていない。テーブルも椅子も、食料らしい食料も、何一つとして存在しない。
あるのは半分まで減ったウイスキーの瓶と、タイル張りの流し台に逆さに置かれたグラスだけ。どうやら風呂上がりに水を飲んだのか、グラスが水滴を纏っているのが唯一の救いに見えた。
シェリーは絶句してしまったのだが、イシドロが背を向けたまま開けた扉の向こうの風景にも、更なる衝撃を受けることになる。
この部屋はどうやらメインルームで、今度は窓際にベッドが置かれていた。その上には騎士服が適当に脱ぎ捨てられ、黒が簡素な空間に彩りを添えている。他に目立つ家具といえばデスクと椅子くらいで、カーテンが存在するのが奇跡だと思えるほどに、それら以外には何もない部屋だった。
一切の生活感が存在しない空間だ。ただ仕方がなく物を置いて、自身すらも詰め込むだけ。あの人は衣食住に興味がないとはダリオの弁だが、この部屋を見せられては納得するしかない。
「おい、あんたそこ座れ」
イシドロがこの家唯一の椅子を指差した。普通なら礼を言って腰掛けるところだが、他に座る場所が無い状況では躊躇われる。
「でも……」
「俺はベッドに座る。いいから座れ」
有無を言わさぬ調子で命令すると、部屋の主は宣言通りにベッドに腰を据えた。打ち捨てられた騎士服を脇に寄せたあたり、彼にも最低限の良識はあるのかもしれない。
シェリーが最終的には諦めて椅子に座ると、がらんとした部屋の分だけイシドロとは距離が離れていた。
「んで、ボスからは何を聞いたって」
イシドロは木綿のズボンを纏った足を組んで、膝の上に片肘を預けた。シェリーなら絶対にやらない虚脱した格好が、彼にはよく似合っていた。
「貴方が、公爵夫人と面識があると」
「何だ、それだけかよ。じゃあ最初から話せってことか」
マクシミリアンとの話もそこそこに走ってきたことがバレたかもしれない。しかしイシドロは何も言わず、面倒そうに視線を横に流した。
開いた窓から風が入って、灰色のカーテンが膨らんだ。部屋には既に備え付けのランプが灯されており、夕刻の闇の中にあってもじわりと明るい。
「先に言っておくけど、つまんねえ話だからな」
こうして、シェリーは彼の過去へと束の間の旅に出た。




