11 親と子
その瞬間、観客席が大きく湧いた。
イシドロの勝利が信じられていた中での番狂わせに、歓声と怒号が巻き起こる。異様な空気が競技場に充満する中、シェリーは乱れた息すら意識の外にしてただ茫然としていた。
違う、こんなのはおかしい。
イシドロは本気を出していなかったのだ。謀反を経て彼も腕が上がっているはずなのに、昨年のカーティスとの試合よりも力を抑え込んでいるように見えた。
観客には分からないだろうがシェリーには分かる。あのイシドロが本気を出す前に負けるだなんて、そんな凡百のミスをするはずがない。
「あーあ。ま、それだけあんたも強くなったってことか」
放り投げるような声。いつもの調子にも聞こえるのに、冷たく感じるのは何故だろう。
「準決勝がんばれ。じゃあな、副団長殿」
そう告げて笑ったイシドロは、手綱を繰ってどよめく会場を後にして行った。
シェリーは数秒の間その場を動けなかったのだが、すぐに衝動に従って馬を降りると、走ってきた係員に手綱を渡して走り出した。
誰かが名前を呼んだ気がしたがどうでもよかった。今すぐ事の真相を確かめなければならない。どんな状況だろうが不遜な態度を崩さない、あの男に。
「待ってよ、イシドロ!」
競技場を裏に抜けたところで見慣れた後ろ姿を見つけたシェリーは、ありったけの大声を彼の背中に叩きつけた。
馬はすでに置いてきたらしく、一人になったイシドロがこちらを向く。人気のない空間には箒やリヤカーが無造作に置かれており、いつになく冷たい色をした青灰色の瞳と調和していた。
「どうしてわざと負けたりしたの? 手加減しないでって、言ったじゃない!」
ハリエットの命日、墓地で出会ったあの時に、次に手合わせをすることがあったら手加減しないで欲しいと頼んだのに。
彼は笑ったはずだ。どちらの意味かなんてその時はわからなかったけれど、シェリーはこの二週間で肯定されたのだと思い込んでしまっていた。
胸が痛い。どうしてこんなに痛いのか、わからない。
「私が弱いから本気を出す意味がないって言いたいの? 私は、負けたって良かった。貴方が……貴方が父上と試合をした時みたいに、生き生きとしてくれたら、それで良かったのに!」
ただ衝動のままにぶちまけた瞬間、シェリーは思わず息を呑んだ。
今のは紛れもない本音だった。そう私は、イシドロの興味が自分に向かないことが悔しかった。彼が楽しんでいないであろうことが悲しかった。
そう思うのは、何故?
「……怪我なんかさせられねえだろうが」
その時、イシドロが何かを呟いた。自らの思考に囚われていたシェリーは、その内容を聞き逃してしまった。
「何?」
「うるせえよ。あんた相手に本気なんか出せるかって言ったんだよ」
低く唸った声は彼の本音である証だった。今更のように現実を突きつけられて、シェリーは大きく肩を震わせた。
「さっさと会場に戻りな。あんたの力に興味はない」
ああ、どうして。どうして私はこんなにも、弱いんだろう。
シェリーには最早返す言葉もなく、遠ざかっていく背中を見つめながらただ唇を噛み締めることしかできなかった。
近頃はイシドロのことを何だかんだで悪い人ではないのだと思っていた。幼少期の境遇から、きちんと街を見守ろうとしているのかもと。
違ったのだろうか。やはりただの戦好きで、弱い者に興味などなくて、シェリーなど取るに足らない小娘だと思っていたのだろうか。
もしそうだとしても、自身には何も困ることなど無いはずなのに。こんなにも泣きたくなるのは、どうしてなのだろう。
シェリーは競技場に戻って準決勝へと出場した。しかし一度途切れた集中力が戻ることはなく、接戦の末に敗退してしまうのだった。
馬上槍試合は無事終了した。昼間の熱狂が嘘のようにがらんとした競技場を後にしたシェリーは、マクシミリアンに辞する旨を伝えに行くことにした。
既にゴードンを始めとしたお世話になった面々への挨拶は済ませてある。皆がシェリーを労ってくれたが、同時にイシドロの様子には首を捻っていたようだった。
今回の出来事は同僚の目にも不可解な手加減だと映っていたのだ。自分が情けなくなるシェリーだが、じくじくと痛む胸が邪魔をして、それ以上の思考が生まれることはなかった。
ノックをして領主の執務室へと入る。マクシミリアンは一人で執務机に着いており、シェリーを迎えるために小さく微笑んだ。
「ブラッドリー公爵様。此度は大会運営に携わらせていただき、まことにありがとうございました」
「ご苦労様、アドラス副団長。大会の成功は貴殿を始めとした王立騎士団の力添えのお陰だ。心から感謝する」
シェリーに合わせて仕事に徹した言葉。マクシミリアンと次に会えるのは一体いつになるだろうと思ったら、このままではいけないような気がした。
「……あの。頂いたクッキー、美味しかったです。ありがとうございました」
以前貰ったクッキーは仕事の合間に全て食べてしまった。どれも女性が好みそうな可愛らしい形をしていて、本当に美味しかった。
「それなら良かった。足りないかとも思ったが、同じものを何個も用意するのもどうかと思ってな」
マクシミリアンは喜びと安堵が入り混じった笑みを浮かべた。しかしこの人はどうしてこうも娘の食べる量について気にしているのだろうか。
疑問について問いかけてみると、マクシミリアンは懐かしむように目を細めた。
「妻が君と同じように、人の五倍は食べていたからな。同じくらい食べるとなると、どの程度かは想像しやすかったんだ」
初めての事実を聞かされて、シェリーは奇妙な驚きを味わった。全く知らなかった母親という存在が、今少しだけ鮮明になったような気がする。
「どんな方だったのですか……?」
思わず聞いてしまったことに、少しの後悔を覚えた。
母の存在を身近に感じることで、カーティスとの距離が開いてしまったらどうしよう。何も知りたく無いような気がするのに、やっぱり聞きたいとも思う自分のことが、どうにも軸がぶれているようで苦しくなる。
「シェリー」
恐らくは葛藤がそのまま顔に出ていたのだろう。マクシミリアンが名前を呼ぶ声には、優しく宥める響きがあった。
「大丈夫だ、君の父親はカーティスだよ。出自を知りたいと思うことは何も悪いことじゃない。何を見聞きしたって、最後に大事なのは君の心なのだから」
それは海のように穏やかで愛情に満ちた言葉だった。この人は解っていたのだ。シェリーが何を悩み、何を躊躇っているのかを。
いいのだろうか。この先もカーティスのことを父と慕っても、許されるのだろうか。
「ハリエットのことを聞いてくれて、本当に嬉しかった。こうして口をきいて貰えるだけ、俺にとってはこれ以上ないことなのにな」
マクシミリアンは応接用のソファを手で示した。少し話でもしていかないかとの提案を、シェリーは受けることにした。
それからはぽつりぽつりと、見知らぬ母についての昔話を聞いた。
シェリーとハリエットはそっくりで、同じ翡翠色の瞳だが、髪は綺麗な金髪だったこと。
嫁いできたその日から遠慮なく大量に食べるので驚いたこと。
見た目の割に大胆で、物怖じしない性格だったこと。
シェリーが産まれた時、マクシミリアンが真っ先に泣いてハリエットを困らせたこと。
そして短い時間、親子三人で過ごした幸せの日々について。
ここまで聞いた時、涙が溢れてしまったのも無理からぬことだと思う。シェリーは幸せな赤ん坊だった。そして今に至るまで、これ以上は望むべくもない程幸せな人間なのだと知ったから。
慌てて渡されたハンカチを遠慮なく受け取って、シェリーはごしごしと目元を拭いた。
会いたかった。女同士でしかできない話をしたり、買い物に行ったりして盛り上がってみたかった。
けれど時間は戻らない。そして今の自分に後悔はないと胸を張って言えるから、きっとかの人も空の上で喜んでくれる。
「私、お話が聞けて、良かったです。ありがとうございました」
「……ああ。私も、話せて良かった。ありがとう」
マクシミリアンの赤い瞳ははっきりと潤んでいた。泣くわけにはいかないと我慢していたのかもと思いつけば、シェリーは笑みを取り戻すことができた。
思えば自分は少し拘りすぎていたのかもしれない。生みの親と育ての親がいるなんて贅沢な話なのだから、自身には父が二人いるのだと胸を張ってしまえば、それで済む話だったのかも。
「あー、そういえば、今日の試合は実に見事だったな」
マクシミリアンは涙目になったのを誤魔化すためか、強引に話題を変えることにしたようだ。しかしシェリーにしてみれば頷くわけにはいかない話だったので、俯いて首を横に振った。
「いいえ、とても無様な試合をお見せしてしまいました。最後の負け方など酷かったでしょう」
「そんなことはない、立派だった。イシドロの振る舞いのせいで調子を崩したんだろう?」
「調子を崩したのは、私が未熟であるせいです」
頑なに首を縦に振らないシェリーに、マクシミリアンは苦笑を浮かべる。
「君の考え方はいかにも騎士だな。イシドロもやりにくかったのだろうし、あまり気にしないでやってくれ」
聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、シェリーは俄かに顔を上げた。
「イシドロがやりにくい、とは……? どういう意味でしょうか」
問いかけてみると、マクシミリアンもまた驚いたように目を丸くする。その表情に嫌な予感を得たシェリーだが、それは残念ながら的中した。
「聞いていないのか? イシドロはハリエットと面識があるだろう。だからそっくりなシェリーに対して全力は出せまいという意味なんだが……」




