9 猛獣の前で油断してはならない
予想外の返答に唖然とするシェリーは以降付いていくままになった。
イシドロは一番近くの食堂に入って行ったのだが、そこは昼間に通りがかって声をかけられた店だった。たしかここもイシドロ曰く「阿呆が暴れててうざかったからしょっぴいた」のだったか。
「珍しいですなあ、騎士様。中々来てくださらないのに」
「普段は食堂で足りるんでね」
嬉しそうな老店主に奥の席を案内される。煉瓦造りの店内は温かみがあって、この店の歴史を吸い込んだかのようだ。
まさかイシドロと食事を共にすることになるとは思わなかった。食べ残しをしないシェリーの場合殴られる心配はないが、突然の展開に緊張は否めない。
店主は水を置いて去って行き、シェリーはともかくメニューを眺めることにした。信じがたい状況下ではあるが、かなり腹が減っていたので城まで我慢せずに済んだことはありがたい。
それにしても量はどうするべきか。
慣れた問題に突き当たり、シェリーはちらりと対面に座るイシドロを見た。彼はメニューを眺めており、こちらを気にする様子はない。
ここへ来てまあいいかと開き直り、シェリーは俄に顔を上げた。ちょうど年若い店員がやってきた時には、イシドロも注文を決めたようだ。
「ハムサンド、単品」
適当に決めたことを隠しもしない声に続き、シェリーは尋常ではない注文を唱えることにした。
「オムライスとハンバーグに、チキンステーキ……あ、ごめんなさい、ハンバーグは二つで。それに特製サラダ、ほうれん草のソテー。パンは三人前で、飲み物はアイスティー、一番大きいサイズでお願いします」
「……あ?」
イシドロが聞き間違いをしたとばかりに眉を寄せた。店員が目を見張りながらも頷いて厨房へと帰って行ったのを見届けて、シェリーははっきりと正面を向いた。
これでも待たせたら悪いと思って控えめに注文したのだ。自身の大食いぶりに唖然とされるのは良くあることだし、今さらイシドロに引かれたところで何か思うところがあるわけでもない。
「何か?」
「すげえ注文だな。差し入れでも持って帰る気かよ」
「全部自分で食べますけど。私、大食いなので」
取り澄まして答えると、彼はしばしの間目を丸くしていたが、やがて盛大に吹き出してくれた。
実に面白そうな笑い声が店内に響き渡る。客たちが何があったのかとこちらを見やったところで、シェリーは口の前に人差し指を当てた。
「迷惑でしょ、大声で笑わないで!」
「いや、だってあんた! そんな特技持ってるって、凄すぎんだろォ……!」
腹を抱えて笑うイシドロに対して、シェリーは憮然と腕を組んで屈辱をやり過ごした。
これだから共に喫食したことがない者との食事は嫌なのだ。大爆笑されたのは流石に初めてだが、大抵の場合引かれて、酷い時は名門貴族の御令嬢なのに品がないと囁かれたりする。
カーティスは昔からこれでもかと食べさせてくれたし、ネージュは凄いと目を輝かせるばかりで少しも蔑んだりしなかった。二人のことが大好きである理由の一つだ。
「あー、久しぶりにウケたわ。いやあ、羨ましいねえ。俺もそんくらい食ってみたいもんだぜ」
イシドロは両目に滲んだ涙を拭っている。重ね重ね屈辱的な反応に、シェリーはますます機嫌を下降させた。
「食べたければ食べればいいじゃない」
「残念だがそいつは無理だ。俺は昔っから量を食ったことがねえ」
元の薄笑いを取り戻したイシドロは何でもない事のように言ったが、シェリーには妙に引っ掛かった。
量を食べたことがないとは妙な言い回しだが、少食という意味だろうか。彼は痩せてはいるが筋肉質だし、騎士というのは体力仕事なのだから、如何に細身であってもよく食べる者が多いはずなのに。
どういう意味かと問うと、イシドロは世間話でもするように飄々と頷いた。
「子供の頃は王都のスラムに住んでたんで、食うに事欠く毎日ってやつを送ってたのさ」
「……え」
「すると不思議なもんで、いつのまにか食いもんへの興味がなくなっちまった。何故か腹も鳴らねえんだよな。オムライスだろうがハムサンドだろうが俺にとっちゃ一緒、燃料になりゃあそれでいいって訳だ」
その瞬間、大笑いされたことによる不快感が霧散していった。
飢えたガキは嫌いだと言った彼の声。食堂での騒動の時「食べ残しくらい」と口走ったシェリーへの、どこか遠い眼差し。食べ物に興味がないのに食べ残しを嫌う矛盾と、そこに潜む彼の価値観の由来。
今更のようにイシドロの背景が見えてくる。彼の持つ雰囲気を鑑みればスラム街出身だというのは納得がいく話だが、食べないことを植え付けられるほどの暮らしとは如何なるものなのか。
先々代国王の頃の王都は今とは比べるべくもないほど荒れ果てていたと聞く。犯罪が横行する街で、少年時代の彼はどのようにして生き抜いてきたのだろう。
「おいおい、まさか同情でもしてくれたのかよ?」
イシドロはいつものように揶揄う色を目の奥に纏っていた。しかしシェリーには反発する気など起こらず、弱々しく首を横に振った。
「いいえ。子供が大人になることは、当たり前じゃないって思い出しただけ」
唯一の肉親に捨てられてもなお、最も敬愛する父と出会う事のできた自分には踏み入ってはならない領域だ。
きっと彼は同情なんて欲していないだろう。それが理解できるからこそ言葉を失っていると、イシドロが呻き声を上げて頭をかいた。
「何だよ、しゅんとするんじゃねえよ。あんたは怖え顔してキレてるくらいで丁度だろうが」
「貴方のせいで怒っているだけで、いつもは普通にしてるわよ!」
つい言い返してしまってから、シェリーは彼の言う通り自分が怒っていることに気付いた。はたと動きを止めたところで、イシドロは満足げに笑ったようだった。
認めたくはないが、何だか元気付けられてしまったような気がする。
調子を狂わされたことによって何と言えばいいのか思いつかなくなり、シェリーは握った拳から力を抜いた。すると店員がやってきて、瑞々しい彩りのサラダを卓上に置く。
「お先にどーぞ」
イシドロは頬杖をついてこちらを眺めていて、促す声は意外なほど嫌味がなかった。
貴族社会であれば先に食べ始めるなど完全なマナー違反だが、イシドロはそんなこと思いもしないだろうし、そもそも自分の方が圧倒的に大量の注文をしているのだから仕方がない。
「……いただきます」
シェリーは略式の祈りを捧げてフォークを手に取った。大ぶりのトマトから口に運ぶと、想像以上の甘さが体に染み渡っていく。
これは美味しい。甘くないドレッシングが素材の味を引き立てているあたり、この店のシェフはかなりの手練れだと言えるかもしれない。
サラダをあっという間に平らげてしまったのだが、すぐにパンと二つのハンバーグ、そしてオムライスが運ばれてきた。遠慮なくそれらにも手を伸ばしていくと、どれもが美味しくて感動ものだった。
「美味しい!」
思わず感想が口から飛び出してきた。こういう如何にも食堂といったメニューは大好きだが、この店は特にこだわりを感じるような気がする。仕事の合間に外で取る食事は格別なものがあるというのもシェリーの持論だ。
その後も夢中で舌鼓を打っていたのだが、ふと気がつくとイシドロが頬杖をついた姿勢のままこちらをじっと見つめている。
「……何? 食べ過ぎだって言いたいの?」
「いいや。気持ちのいい食べっぷりで良いんじゃねえか」
絶対に小馬鹿にした台詞が返ってくるだろうと身構えていたシェリーは、想像だにしない反応を得てまたしても毒気を抜かれてしまった。
よく考えれば彼は笑っただけで蔑んだ訳ではないし、むしろ引かれるよりもよっぽど有難い反応だと言えるのかも。
そんなことを考えているうちに、今度はイシドロの注文であるハムサンドが運ばれてくる。薄切りのパンを三枚も使用しており、中の具材が溢れんばかりになった豪華な一品だ。
おやつに買って帰ろうかなとシェリーが思案していると、イシドロは特に祈りを捧げることもなく一つを手に取った。
そしてたったの三口で一切れのサンドイッチが消え失せてしまったのだから、シェリーはあまりのことにチキンステーキを切り分ける手を止めた。
イシドロは数回の咀嚼で喉を上下させた。急いでいるようには見えないのにこの速さ、もはや手品のようだ。このサンドイッチはそれなりの厚みがあって、三つにしか切り分けられていないというのに。
——そうか。この人は本当に、食事を楽しむ気が無いんだわ。
先程の彼の言い分が真実だったのだと見せつけられて、シェリーは手のひらを握り込んだ。
こんなに美味しいのに。自分はこんなにも好き勝手に注文して楽しんでいるのに、イシドロは楽しんでいないということが悔しい。
シェリーは衝動的に新しいフォークを手に取った。手をつけていない方のハンバーグを大きく切り分けて、三白眼の前に差し出してやる。
「これ、美味しいから食べて」
「はぁ……?」
イシドロは突然の奇行に走った女騎士を訝しそうに見つめ返してきた。
確かにマナーとしてははしたない行為だ。食への価値観など千差万別、ましてや量についてなど他人が口を出すものではない。
けれど彼は若くて体力があるから何とかなっているのであって、これから先は栄養の偏りによってどうなるのかわからない。
シェリーは自分に言い聞かせた。こんなにも気になるのは、イシドロが自分に無頓着すぎるせい。きっと、それだけだ。
「貴方たち黒豹騎士団が守る街で、貴方に感謝を示した領民が、心を込めて作ったものよ。その分だけ美味しいはずなの。だからちゃんと、味わって食べて」
どういう角度から語りかければ理解を得られるのか考えた末に、結局の主張が感情論じみてしまったのは、自分自身が悲しいと思っていたからかもしれない。シェリーは食への興味が薄れるほどの彼の過去を思うと、胸が痛くて仕方がなかったのだ。
しかしこの後、イシドロ相手にまともな思考を働かせてはいけないということを、改めて思い知らされることになる。
「ふうん。そんなら頂くか」
さらりと言ったイシドロが、シェリーのフォークを持つ手を握って自身へと引き寄せた。
何が起きているのか把握するのに時間を要した。何せそのままハンバーグに食らいつかれてしまうだなんて、誰が想像できただろう。
「おお、確かに美味いかもな」
自身よりも少し冷たい手が離れてゆく。
にやり、としか表現しようのない笑みを前に、シェリーは瞬間的に頭が煮え立つのを自覚した。
「なっ……なっ……! なにす……!」
声が情けない程にうわずって、最後まで言葉を紡ぎ出すことができない。空になったフォークを持つ手どころか、全身が小刻みに震えている。最大限の熱を放つ頬が煩わしくて、怒りと羞恥で叫び出したいのを、シェリーは必死で我慢した。
「ち、ち、違うわよ! フォーク! フォークごと、受け取って欲しかったの!」
「ふーん、あっそお。てっきり食べさせてくれるのかと思っちまったわァ。悪い悪い」
イシドロの棒読みぶりには隠す気のない白々しさが現れていた。
間違いない、絶対にわざとだ。この男には気まぐれに他人を揶揄う悪癖があるということを、そろそろ頭に叩き込んでおくべきだった。
止まるところを知らないイシドロのニヤニヤ笑いに、シェリーは意味もなく助けを求めて店内を見渡した。当然信頼する父も親友もそこにはおらず、代わりに店員と客たちのこれまた微笑ましげな顔と出会ってしまい、羞恥心が限界を突破する。
すごく美味しかったのに、これでは二度と来られないではないか。
この後のシェリーはもうイシドロとは目を合わせないと決意して、涙目になりながらも注文の品を平らげることに集中した。イシドロは早々にサンドイッチを食べ終え、食後のコーヒーのサービスを受けてゆっくりと過ごしていたようだった。
一心不乱に料理を見つめ続けていたシェリーは知らなかった。意地の悪い男の口元に、いつになく穏やかな笑みが浮かんでいたことを。
明日の更新はお休みします。




