君には一生敵わない ②
「相手は誰だ。新米達か、それとも昔の部下か?」
「え……? あの、ちょっと、まって」
「一体何をされた。君は何も心配せず、真実を話すだけでいいんだ」
「なにもされていませんが……?」
すみません、何を仰っているのか全然わからないのですが。
ネージュはそう続けようとしたのに、カーティスが更に顔をぐいと近づけてきたので言葉が出てこなくなった。少し背を伸ばせばキスができる距離、しかも壁ドン。こんな状況で平常心でいるのは難しい。
「どうして庇う、教え子だから情が湧いたのか。……それとも、憎からず思っているとでも?」
「……へ?」
わけがわからないなりにとんでもないことを言われたのは理解できた。そして怒りを帯びたカーティスの瞳に焦りと嘆きが浮かんでいるのに気付いて、ネージュは夫の勘違いにようやく思い至った。
「そっ……! そんなことあるわけないです! 今日は本当に、普通に仕事をしてきました! それだけです!」
一体どうして、カーティスはそんな考えに思い至ってしまったのだろうか。
前途有望な彼らがネージュみたいな既婚の女講師を好きとか無理矢理迫るとか、そんなことが現実に起こるはずがないのに。
「……本当に?」
必死に訴えたと言うのに、カーティスは表情を厳しくしたまま緩めてくれなかった。ネージュは困り果てて言い募る。
「本当です! いい子達ですよ、ご存知でしょう? それに私みたいなトウが立った女、彼らが興味あるはずないじゃないですか」
「そんなことはない!」
するとものすごく切羽詰まった表情で言い返されてしまい、ネージュはぽかんと口を開けた。カーティスは無闇に大声を出したことに気付いたのか、気まずそうに目を逸らしたが、すぐにもう一度見つめ返してきた。
「ネージュは全然わかっていない。年齢なんて関係ないし、そもそも十分に若くて魅力的だ。君は可愛らしくて朗らかで、話していると楽しくて、いつも他人のことを気遣っている。皆にとても愛されているんだ。君が恋人になってくれたらと夢見る男なんて、それこそ掃いて捨てるほどいるんだよ」
今度は一体何を言い出したのか。目を白黒させたネージュは、とんでもないと首を横に振った。
「そんな、いくらなんでも買い被りすぎです」
「重ねて言うが買い被りではなく、ただの事実なんだ。……これだけ言っても、まだ解ってもらえないのか?」
カーティスは扉に押し付けていた腕をようやく離した。近すぎる距離から解放されたことでネージュは小さく息を吐いたのだが、次の瞬間、今度は逞しい腕の中に抱き寄せられてしまった。
「やっぱり、剣術講師になんて任命するべきではなかった……」
そうして、苦しげな囁きを耳元で聞いた。
聞き覚えのある言葉だ。そう、まさに今日執務室の前で聞いてしまい、散々悩んだ言葉。それが今は違う響きを持って、頭の中に染み込んでくる。
まさか、そんなはずはない。けれど一度考えついてしまえばどうしても気になって、ネージュは躊躇いながらも口を開いた
「あの、もしかして。やきもち、ですか……?」
我ながら自惚れたことを言ったものだ。しかしカーティスは笑うどころかますます腕の力を強くして、ネージュの顔を自らの胸に押し付ける。
「……その通りだよ。ああ、くそっ」
カーティスが悪態をついたのも、これが初めてのことだった。
抱きしめられたまま体を押されて、二人してドアにもたれ掛かる。背中と頭の後ろに回された腕のおかげで痛みなど少しも感じなくて、引き締まった体の重みだけが心地いい。
「やきもちなんて可愛いものじゃない。醜い嫉妬だ。他の男なんかに笑いかけないで欲しいとすら思う。仕事なのは、わかっているのに……ああ、何を言っているんだ、私は」
低く掠れた言葉の、最後のほうは殆ど独白のようだった。
カーティスがそのまま動かなくなってしまったので、ネージュは今起きたことについて考えてみた。
嫉妬って、本当に? 自分で聞いておいて冗談半分だったから、俄には信じられない。
「でも……そんなこと、今まで一度も」
「言えるわけがない。こんなに器の小さいことを言って、君に嫌われたらどうしたらいい」
カーティスは小さな声で言って、抱きしめる腕の力を強くしたようだった。
——どうしよう。嬉しい。
自覚したら笑みが抑えられなくなって、ネージュは慌てて息を呑み込んだ。
すると肩を震わせることになってしまい、それに気付いたカーティスがようやく腕を解く。
「……何を笑っているのかな」
いつになく決まり悪そうな声だった。恨みがましい視線にもときめきを誘発されて、ネージュはますます笑み崩れた。
「だって、嬉しくて。それに」
可愛くて。
本当はそう言いたかったけれど、流石に口を噤んだ。カーティスほどの人に可愛いという形容詞は流石に失礼だから、心の中に大事にしまっておくことにする。
「それに……その、私も誤解をしていたようなので、ほっとしたんです」
「誤解?」
「はい。実は、昼間にオルコット団長とお話されていたのを聞いてしまいました。ごめんなさい……」
立ち聞きを告白するのはそれなりに勇気がいったが、ネージュはきちんと目を合わせてから頭を下げた。再び顔を上げた時、カーティスは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「……もしかして、講師に任命するんじゃなかった、のくだり?」
「はい」
「……それで元気がなかった?」
「はい」
「……ああ。なるほど……」
気の抜けたように呟いて、カーティスはついに絨毯敷きの床にあぐらをかいて座り込んでしまった。見下ろすわけにもいかないので膝を着いて目線の高さを合わせたものの、残念ながら顔が片手で覆われていて表情がわからない。
「その……本当に、すまない」
「いいえ、謝られるようなことでは。私が立ち聞きしたのが良くなかったのですから」
「いや、君は本当に優秀な先生なんだ。それなのに、私ときたら……最悪だ……」
穴があったら入りたいとでも言い出しそうな掠れ声だ。こんなに落ち込んでいるカーティスは初めて見る。
「……君にはいつも格好悪いところばかり見られている気がする。いっそのことしばらく許さないでほしい」
「そんな、許すだなんて。私、嬉しいです。本当にそれだけなんです」
嫉妬して貰える日が来るだなんて夢にも思わなかった。
いつだって注目を集めるのはカーティスの方。ネージュは彼と共に街を歩いたり社交の場に出るたびに、いつもやきもきしてしまうのだ。
「私、ちゃんとやれていますか? その、侯爵夫人としても」
「十分すぎるくらいよくやってくれているよ……」
「でしたら、講師の仕事、続けてもいいですか?」
「もちろんだよ……」
良かったとネージュは笑った。カーティスは項垂れたままだけれど、そう言ってくれるのならこんなに嬉しいことはない。
「大丈夫ですよ。殺す気で襲われたって私の腕っぷしなら倒せます。万が一私のことを好きだと言う人が現れても、関係ないです」
カーティスがのろのろと顔を上げる。頬のてっぺんがすこし赤くなっているところがやっぱり可愛い、ネージュの最愛の人。
「私、カーティスさんがいいです。一生あなただけがいい。だから今、同じ気持ちなのかもしれないって思えたから……嬉しかったんです」
未来のことなんてわからないけれど、この気持ちが消えないであろうことはわかる。
何せ前世から好きだったのだから。世界を超え、手が届かないことを自覚してもなお、消すことのできなかった想いなのだから。
「本当に、敵わないな……」
カーティスはちょっと笑ったみたいだった。照れ臭そうに、幸せそうに。
誤魔化すように伸びてきた腕が、またしてもネージュを閉じ込める。優しい抱擁は幸福ばかりを呼び込んで、広い胸にそっと頬を添わせると、少し速い心音が聞こえてくる。
「私もだ。この先ずっとネージュだけがいいに決まってる」
「ふふ。嬉しいです」
「そんな当たり前のことで喜んで……君は、まるで天使みたいだ」
「またそんなことを仰って」
流石に大袈裟だしものすごく恥ずかしい。ネージュが赤くなった顔を上げると、カーティスは甘い瞳で愛しい妻を見つめていた。
「本当のことだろう。君と共に生きていけるなんて、奇跡的だよ」
二人はごく自然に顔を寄せ合って、キスをした。
触れたところから想いが伝わればいいのにと思い、ネージュはほんの少しだけ離れて、自分から口付けた。
カーティスが驚いたように息を呑んだのが伝わってくる。触れた唇が熱く感じられるのはたぶん気のせいではなくて、ネージュは夜食に変貌を遂げるであろう夕食のことを思った。
繰り返し触れて、互いの存在を確認するように指で辿り、名前を呼び合って。
カーティスは何度も愛していると囁いてくれて、ネージュも同じ数だけ想いを返した。
どこからどこまでが奇跡なのかなんてわからないけれど。
きっと共に過ごす時間のことをそう言うのだろうと、二人とも知っていた。
〈新婚編 了〉
ネージュの物語として書きたいことは書けたかなと思いますので、この物語はここで一旦終了とさせて頂きます。
この後は主役二人はもちろん、周囲の人々も平和に暮らしていくはずです。
作者としてもこのお話が終わるのは寂しい気持ちがしております。
また小話など書くこともあるかもしれません。またその時はお目にかかることができたら嬉しいです。
ここまで書き上げることができましたのも、長い間お付き合い下さった読者様のおかげです。
本当にありがとうございました!
***ここでちょっと告知をさせて下さい***
近々別ページにて、ロードリックが主人公の番外編を連載開始します。
ヒロインは完全な新キャラです。マクシミリアン帰還以降の黒豹騎士団の様子を垣間見つつ、主従の子供時代なんかも盛り込む予定です。
こちらもお付き合いいただけますと大変喜びます。どうぞよろしくお願いいたします!




