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君には一生敵わない ①

 ネージュは現在週二日のペースで剣術講師の仕事を請け負っている。その時はカリキュラムを見てもらおうと考えて、珍しくも騎士団長執務室にやってきたところだった。

 少しドアが開いていたが勝手に開けるわけにもいかず、ノックしようと腕を持ち上げて。


「やっぱり剣術講師になんて任命するんじゃなかった……」


 その瞬間、中からため息まじりの声が聞こえてきたので、ネージュは全身を硬直させた。

 明らかにカーティスの声だ。そして剣術講師はネージュともう一人しかいないとなれば、その意味は自ずと限られてくる。


「何の話だ?」


 よく通る声で怪訝そうに聞き返したのはハンネスだろう。彼は少しの間を取って、すぐに得たりとばかりに言葉を繋いだ。


「さては奥方のことだな。大方、仕事ぶりでも見てきたか」

「まあね……」

「自分で任命したのだろう。まあ、気持ちはわからんでもないがな」


 ネージュは更なる衝撃を受けた。

 やはり自身の働きが不十分だと、仕事の様子を見た上でそう判断されたのだ。

 しかもハンネスまでもがカーティスと同じように感じていたとは。こうなると悪いことばかり思いついて、思考の渦の中に放り込まれてしまう。


 もしかしてケヴィンくんがそう言った、とか? あんなにニコニコして慕ってくれていたのに……?

 頑張ってきたつもりだったけど、足りなかったんだ。みんな解りにくいと思いながらも声には出さずに我慢していたのかな。

 え、ちょっと待って辛すぎる。良い歳して泣きそうなんだけど……!


 ネージュはよろめきながら執務室の前を離れた。あまりにも衝撃が大きすぎて、しばらくはまともにものを考えられないような気がした。




 その後も気分が晴れることはなかったが、ネージュは意識して表情を作ってから屋敷へと辿り着いた。シャワーを浴び終えた頃にカーティスも帰ってきたので、質の良い襟付きのワンピースに着替えたネージュは出迎えるために玄関に立つ。

 気をしっかり持たなければ。評価されていなかったことはとても悲しいけれど、それが事実なら仕方がない。しっかり受け止めて今後に生かすようにしよう。


 ——でも、任命するんじゃなかったとまで仰っていたんだもの。もしかして、辞めた方がいいのかな。


 そうだ、ひょっとすると侯爵夫人としての仕事が足りなかったのかもしれない。講師をしながらだと普通の貴族夫人より時間がなくなるのは確かだし、本当はもっと社交を頑張って欲しかったのかも。

 後ろ向きな考えが頭をもたげた時、騎士服姿のカーティスが玄関ホールへと入ってきた。


「ただいま、ネージュ」


 カーティスは帰ってくるなり、いつも使用人たちの前でネージュの頬に口付けをする。

 日本人的感覚のせいで最初は恥ずかしくて仕方がなかったのだが、この世界の常識においてはごく一般的な夫婦の挨拶だと言うことも知っていたから、近頃のネージュは狼狽えずに受け止めることができるようになった。使用人の皆が微笑ましげに見守っているのも知っているので、心の中では大いに照れているのだけれど。


「お帰りなさい……」


 しかし今日に限っては照れる気持ちすら湧いてこず、上手く笑えていたかどうかの自信も持てなかった。案の定カーティスはすぐに気付いて、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「何かあった? 元気がないね」

「いいえ、何も。今日は講師の日だったので……少し、疲れただけです」


 講師の日と言ったところでカーティスが眉を顰めた。見たことがないほどに厳しい表情は、やっぱりネージュの仕事が気に入らないせいだろうか。

 耐えられなくなって視線を伏せると、強い力で肩を抱かれた。突然のことに驚いて顔を上げたが、カーティスはといえばこの家の執事を見遣ったところだった。


「ブランドン、夕食は後だ。ネージュの話を聞いてくる」

「かしこまりました、旦那様」


 どうしてと問う前に、カーティスは問答無用で歩き出してしまった。肩を抱かれているのでは同じように進むしかなく、ネージュは戸惑いを隠しきれない声を上げた。


「あ、あのっ……!? お疲れでしょう? お食事は……」

「後でいい」

「そんな、私、すぐに話さなければならないようなことなんて」

「私にはある」


 カーティスが歩きながら目も合わさずに低く言うので、ネージュは肩を震わせた。その途端に肩を抱く手に力がこもり、ますます体が密着する。

 いつも優しくて愛情深くて、およそ怒ったところなんて見たことがなかった。ネージュが独断で捕虜を逃した時ですら笑って許してくれた、あの寛大なカーティスが。


 ——怒ってる……。


 仕事が足りないのを怒るにしても、そんなに? どうして。一体何がそうさせたのかわからず、ネージュは口を噤むしかない。

 辿り着いたのは夫婦の主寝室だった。部屋に入るなりすぐに扉を閉めたカーティスは、ネージュの体をくるりと反転させたかと思うと、真正面からじっと見下ろしてくる。


「一体、何があった? 疲れたくらいで君があんなに辛そうな顔をするはずがない」


 厳しく細められた空色の目で射抜かれると、何でも話すべきだと思ってしまう。

 けれど、どう説明すればいいのだろうか。講師を辞めるにしても、盗み聞きしたことを白状しなければならなくなる。怒らせてしまった悲しさも手伝って、ネージュの頭は混乱を極めつつあった。


「い、いえ、私は……本当に疲れただけで」


 意味のない嘘を連ねたところで、そっと伸びてきた腕が顔の左側を突いた。そのまま肘まで扉に密着させたことで、端正な顔が眼前まで近付いてくる。


「私に言えないこと?」

「そ、それは」

「へえ、そうか。やっぱり……」


 剣術講師になんて任命するんじゃなかった。

 続く言葉を予想して肩を縮めたネージュに、カーティスは低い吐息を震わせた。


「誰かに言い寄られでもしたんだろう。それとも、強引な手段に出た不届き者がいたのかな」


 ——ん?


 ネージュは今度は別の意味で固まった。何せまったく脈絡のないことを言われたので。


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