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遅刻はだめです、閣下

結婚後のちょっとしたお話です。

全4話予定。


 小鳥のさえずりで目を覚ますなんて、なかなかに上出来な朝だと思う。

 ネージュはゆっくりと目を開けた。視界に映るのは寝室用に控えめな造りをしたシャンデリアと繊細な意匠の天井で、この一月でようやく見慣れた風景だ。いや、新婚旅行に出かけた期間を除けば、半月ほどだろうか。

 すぐ側へと顔を向ければ、夫となった男が未だ夢の中にいた。

 孤児院にいた頃は院長の怒鳴り声で、兵士だった頃は不法入国者を報せる鐘の音で目を覚ましていた日々。過酷な思い出に比べれば、穏やかな目覚めが待っているというだけで僥倖だというのに、その上こんな。


 ——奇跡みたいに幸せ。……寝顔、貴重だな。


 ネージュは人知れず微笑んだ。いつもカーティスより先に起きられずに申し訳なく思っていたので、珍しくも先手を取れたことが嬉しい。因みに遅めの起床になってしまう原因は疲れていたせいだ。どうして疲れていたのかは察していただきたい。

 それにしてもこうして眠りにつくカーティスは、なんだか無防備なせいで色気が増しているように見える。

 ダークブロンドは朝の光に照らされて輪郭が透け、白い木綿のシャツの胸元からは筋肉の筋と鎖骨が覗いている。淡い陰影を落とした顔貌はさながら彫刻作品の如く、精悍な目元の微かな皺は彼の複雑な人生を映すかのようだ。

 朝から強すぎる刺激を浴びたネージュは、誤魔化すように視線を逸らした。

 先に起きたら起きたで、違う意味でものすごく恥ずかしい。ここはそっとベッドを出て準備を整えることにしよう。

 心の中で朝の動きを決定したネージュは上半身を起こした。しかしワンピースタイプの寝巻きを整えていると、背後で身じろぎする気配がした。


「まだ起きる時間ではないよ」


 掠れた低音が聞こえてきたのと同時、右腕を引かれてベッドに逆戻りする。気付いた時には横向きに転がる姿勢になっていて、カーティスに抱き込まれてしまっていた。


「お、起きていらしたんですか……⁉︎」

「いいや、いま起きた」


 どうやら動いたことで起こしてしまったらしい。申し訳なく思っていると、空色の瞳が至近距離から覗き込んでくる。揶揄うような調子なのに愛おしげに細めた瞳に見詰められて、ネージュはますます赤面した。


「おはよう、ネージュ」

「おはようございます……」


 穏やかな笑みを浮かべたカーティスが、ネージュの額に口付けを贈った。

 その優しい触れ方に胸の奥が痺れるような痛みを訴える。あまりにも幸せで目を合わせられないでいると、すぐ側の気配が笑みに揺れたようだった。

 伸びてきた大きな手が、頬にかかった髪をすくって耳にかけた。ネージュは乱れた髪を直してくれたのかと礼を言おうとしたのだが、その手は離れることなく髪を梳き始めた。


「髪、伸びたね」

「お分かりになりますか?」


 驚いて顔を上げればもちろんだとの返答が返ってくる。髪を伸ばそうと思い至ってそろそろ半年、親指の長さほどしか伸びていないはずなのに。


「式が終わったのに切る気配がないから、これからも伸ばすことにしたのかと思ってね」


 カーティスの言う通り式のためというのは理由の一つだ。しかしネージュが髪を伸ばし始めたのには、他にもいくつかの大きな理由がある。


「はい、伸ばすつもりです。カーティスさんがよく髪を撫でて下さるので、もしかしてお気に召して頂けたのかな、と、思い、まして……」


 言いながら何だか思い上がりのような気がしてきて、ネージュは再び真っ赤になった顔を伏せた。

 切りっぱなしの適当な髪型では、カーティスの隣に立つのに相応しくない。社交会に出るのに髪がまともに結えないだなんて、彼にとんでもない恥をかかせてしまう。

 そんな理由もあってネージュは髪を伸ばすことにしたのだが、今しがた自分が口走った内容に関しては早くも後悔し始めていた。

 髪の毛を梳く手の動きが止まっている。この髪を気に入ってくれているだなんて、どうして調子に乗った事を言ってしまったのだろう。

 少し色素が薄めであること以外別段珍しい色ではないし、あまり艶がなく柔らかくて絡まりやすい髪質だ。カーティスは優しいから、そんな事を言われたら嘘でも嬉しいと笑ってくれるのでは。


「す、すみません。忘れてくださ」


 言いかけたところで抱きしめる腕が急に力を増して、ネージュは息を詰めた。

 苦しいほどの力で硬い胸に顔を押し付けられる。一体どうしたのかと戸惑っていると、すべての息を出し尽くすようなため息が聞こえてきた。


「……どうしてこう、可愛いことばかり言うんだろう。君は私をどうしたいのかな、ネージュ」

「どっ、どうしたいのかと言われましても……⁉︎」


 ネージュは偽りのない本心を伝えただけ。恋人として過ごした短い期間の中で、カーティスが思ったことを素直に教えて欲しいと言ってくれたから。

 だからネージュはかつての部下としての敬意と共に、素直に話すことを両立させることができるようになったのだ。


「ちょっと気分を変えたいだとか、それくらいの理由だと思っていたよ。もう降参だ。ただでさえ骨抜きだというのに、私は君のことしか考えられない腑抜けになってしまった」


 カーティスが腕の力を緩めて顔を覗き込んでくる。その表情が参ったとばかりに緩んでいたので、ネージュはおかしくて笑った。相変わらず気さくな冗談を言う人だ。


「では、このまま伸ばしてみますね。似合うといいのですけど」

「似合うに決まってる。……きっと、ますます綺麗になっていくんだろうな」


 ふと絡んだ視線が真剣味を帯びていた。あ、と思った時には唇を奪われていて、ネージュは思わず瞬きをした。

 突然のことに心臓が大きく高鳴って、落ち着こうと胸の辺りを握りしめる。唇はすぐに離れていったが、今度は耳の上辺りに口付けられてぴくりと肩を揺らした。


「ネージュの髪が好きだよ。優しい色をしていて、手触りがいい。つい触りたくなってしまう」

「そ、そうですか……? ありがとうございます」

「でも髪だけじゃない。目も好きだな。いつもきらきらして、宝石みたいに綺麗だ」


 今度は目尻に口付けが降ってくる。いつの間にか仰向けに見上げる格好になっていて、肘をついたカーティスに覆い被さられていたことに、ネージュは遅まきながらに気付いた。


「額も丸くて可愛い。鼻も、頬も、全部可愛い」

「ひゃ……⁉︎ あ、あの、その」


 顔中に唇を押し当てられたネージュは真っ赤になって身を縮めた。

 人前でない限りは時と場合によらずこうした事が起こるので、この一月のネージュは赤面している時間の方が長いような有り様だ。相変わらず物慣れぬ風情なのが情けないが、それでもカーティスが楽しそうなので、近頃はそれでもいいのかもと思い始めている。


 ——いや、でも! 朝から刺激が強いよ⁉︎


 そう、心臓が爆発するかどうかは死活問題に直結する。それにものすごく大事なことが一つ。


「ち、遅刻してしまいます! そろそろ起きなければ」


 まさか騎士団長閣下を遅刻させるわけにはいかないし、今日はネージュも講師として騎士団に出勤する日なのだ。

 決死の思いで上擦った声を上げると、カーティスはぴたりと動きを止めた。


「……もうそんな時間か。残念だな」


 触れそうな距離にある顔が面白そうに笑う。ネージュは恥ずかしさを誤魔化すように寝返りを打って、温かい腕の中から素早く逃れた。

 ベッドに腰掛けて髪を整えていると背後から視線を感じた。振り返ればカーティスが寝転がった姿勢のまま微笑み、じっとこちらを見つめている。


「ネージュは講師の仕事、楽しい?」


 突如として聞かれた意味には思い至らないまま、ネージュは満面の笑みを浮かべた。


「はい、すごくやり甲斐があって楽しいです。皆優秀で熱心な者ばかりですから、助けられてばかりですけど」

「……そうか。それは、何よりだ」


 ゆったりと起き上がったカーティスにもう一度唇を奪われる。すぐに離れていった感触に、ネージュは性懲りも無く赤面してしまった。


「いつもありがとう。でも、あまり無理をしない様にね」


 空色の瞳が寝起きの気怠さを含んで甘い。

 そんな目で見つめられると動けなくなるからやめて欲しいと、真剣に思うネージュなのだった。


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