吉日
それから半月後、ネージュは無事に副団長の職を辞した。
同時に結婚をすることも公にしたのだが、皆特に驚くこともなく祝福してくれたようだった。泣いて喜ぶ者が何人もいたことにはこちらが驚いてしまったけれど。
各所への挨拶を済ませた時には夕刻を迎えていた。ネージュは騎士服からワンピースへと着替え、最後に残った襟章を手に騎士団長室を訪れる。
カーティスは執務机について書類を捌いていたが、入室してきたネージュを見るなり笑みを浮かべた。
「来たね。お疲れ様」
「は。失礼いたします」
六年と少し前、カーティスにこの襟章を授かった瞬間から騎士としての人生が始まった。次に班長の襟章を得て、副団長の襟章を背負って、身に余るほどの経験を積ませてもらった。
今日でこの道も一旦は終わり、また明日からは新たな道を進むのだ。
二つの襟章を手渡したネージュは騎士として最後の敬礼をした。するとカーティスも立ち上がって同じ姿勢を返し、笑みを消した二人は正面から向き合う。
「騎士団長閣下に頂いた数々のご厚情は決して忘れません。まことにありがとうございました!」
「私も君が捧げた忠義に背くことのないよう精一杯努めよう。春からも力を借りることになるが、よろしく頼む」
ネージュは少しだけ涙腺が緩むのを感じたが、それもお互いに敬礼を解くまでのこと。畏まった態度が今では違和感しか感じられずについ笑い声を上げると、カーティスもまた笑い始めたところだった。
「はは、変な感じだ」
「ふふ、本当ですね」
本当におかしなことだ。ほんの少し前まで上司部下の関係でしかなくて、会うたびに畏まって敬礼をするのが当たり前だったというのに。
この変化を心から幸せだと思う。そう思えることこそが変化であることを、ネージュはよく知っていた。
ひとしきり笑い合って鞄の中から包みを取り出す。カーティスに向かって差し出すと、空色の瞳が驚きを示して丸くなった。
「感謝の気持ちです。どうか受け取って下さい」
「……驚いたな。私にも用意してくれたのか」
「プレゼント選びのセンスに自信がないので、あまり期待しないでくださいね」
「君がプレゼントしてくれたというだけで何でも嬉しいよ。……そうか、ありがとう」
自惚れでなければ、カーティスはとても嬉しそうに微笑んでいるようだった。
開けていいかなと聞かれたのではいと答える。丁寧な手つきで包装が解かれていき、箱の中から出てきたものは。
「……ネージュ」
「はい」
「まさかとは思うけど。バルトロメイ団長の奥方様の真似をした?」
カーティスがプレゼントの万年筆を手に取って言うので、ネージュは笑みを浮かべたまま赤面した。
だからどうしてこう、この方は心の中を言い当ててしまうのだろうか。
それは初デートでのこと。真剣にプレゼントを探すカーティスの横顔を見つめながら、ネージュは思いついてしまったのだ。
テレーズと同じように万年筆を贈って、仕事中に使ってくれたら素敵だな……なんて。
しかし選んだ動機を知られたことにより、ネージュは抱えきれないほどの羞恥心に見舞われることになった。
改めて考えると何て図々しいことをしたんだろう。消えたい。テレーズがやるから素敵なのであって、自分がやってもしょうがないのでは。
「そうは言ってもその、愛用の品もおありでしょうし、無理に使って頂かなくても大丈夫ですので! 引き出しの片隅にでも置いて頂ければ、十分です!」
焦るあまりに俯いて両手を忙しなく動かしていると、突如として右手首を掴む感覚があった。見上げればそこにはカーティスが立っていて、いつの間に動いていたのかと驚いてしまった。
「また君はそんなことを言って。使うに決まっているよ。今日からこの万年筆が主戦力、今までのものは予備に降格だ」
掴まれた腕を軽く引かれる。油断した体はあっけなくよろめいて、それを予見していたらしいカーティスが難無く受け止める。
唇を奪われたのはごく一瞬のことで、ネージュは呆けた顔を晒してしまった。
「……な」
「ありがとう。大切にする」
「職場で、何をなさるのですか!?」
「はは、嬉しいなあ。みんなに自慢しよう」
全く話が噛み合っていないのにカーティスはからりと笑うばかり。ネージュは羞恥の臨界を突破して、身をよじってたくましい腕から逃れた。
「それは恥ずかしいのでやめてください! し、失礼しますっ!」
からかわれた時は逃げるに限る。逃がしてくれないこともあるけれど、この時のカーティスは案外あっさりとネージュの逃亡を許してくれた。
踵を返して小走りで扉へと向かい、取手に手を掛けたところで名前を呼ばれる。
振り返って見ればカーティスは腕を組んで執務机にもたれかかり、笑いを堪えるようにして肩を震わせていた。珍しくも行儀の悪い姿勢だが、格好良く見えるのが凄い。
「今日は我が家で君の慰労会だよ。七時に迎えに行くから、寮で待っていて」
笑顔一つでからかわれたことなど全て忘れてしまうのだから、本当に敵わないと思う。
楽しみに待っていますと言えば同じ言葉が返ってくる。幸せを滲ませた笑みを一つ置いて扉を閉めたネージュは、軽やかな足取りで一歩を踏み出した。
〈婚約編 了〉




