好きだからこそできない事もある ①
誰しも起きてるようで起きていない時間帯を経験したことがあるものだが、この時のネージュはまさにそれだった。
気持ちいい。起きたくない。でもちゃんと出仕しないと。ああでも、布団ふわふわ……布団が、ふわふわ?
おかしい。寮のベッドと布団はお世辞にも上等とは言えない品だったはず。なのに何故天上とでも表現すべき寝心地が?
ネージュはそこでようやく目を開けた。違和感に刺激されて覚醒した頭が痺れるようだが、見覚えのある室内には取り乱さずにはいられなかった。
「えっ……え? こ、ここは……!」
独り言を言いながら飛び起きて、忙しなく首を動かして周囲を確認する。よく磨き上げられた家具と上品な壁紙は、つい半月前まで滞在していたアドラス家の客間に他ならない。
——やらかしたあ!
顔面蒼白になったネージュは全てを悟った。
いつもより多めに飲んだ自覚はある。しかし今までおよそまともに酔ったことがなかったし、自分の限界はまだまだ先だと思っていた。
ペースの速さも良くなかったのだろうが、案外ボーダーラインはすぐ近くにあったようだ。記憶が飛ぶというできれば一生踏みたくなかった経験を、よりにもよってカーティスとの食事でやってしまうとは。
頭の中がぐるぐる回るのは二日酔いのせいではない。最悪だ。いい歳をして一体何をしているんだろう。
喉がカラカラに乾いていた。ネージュはベッドサイドに水の入ったピッチャーとコップを見つけて、感謝しながら水を注いで飲み干した。
水を飲んだら少しは頭が冴えたようで、まず思いついたのはとにかく謝らなくてはということ。カーティスはもちろん、ブランドンたちにも迷惑をかけたに違いない。
ベッドから飛び降りようとしたところでノックの音が響いたので、ネージュは大きく肩を震わせて返事をした。
入室してきたのはカーティスだった。ネージュがベッドの上で上半身を起こしている姿を見るや微笑んで、ゆっくりと歩いてくる。
「おはよう、起きていたんだね。体調はどうかな」
何も言えなくなっているネージュに気を悪くした様子もなく、側に片膝を着いたカーティスが顔を覗き込んでくる。ネージュは距離の近さに顔が熱くなるのを感じた。
「顔色は良いみたいだね。気分は悪くない?」
「はい。大丈夫、です」
何とか返事をすると、カーティスは良かったと言って笑った。思わずその綺麗な笑みに見惚れそうになったネージュは、すべきことを思い出して慌てて頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした!」
「ああいや、良いんだよ。迷惑などではないし……ただ、もう飲みすぎるのは私がいる時だけにして欲しい。危ないからね」
何やら含みのある言い回しに、ネージュは恐る恐る顔を上げた。
そこにはいつもの笑みを浮かべたカーティスがいる。怖い。怖すぎるけれど、ここは勇気を出して聞かなければならない。
「大変恐れ入りますが、実は、記憶が無いのですが。……私は昨夜、何か失礼なことをしたのでしょうか」
「いいや、君が思うようなことは何も。ただ、ちょっと腕に抱きついてきて」
「え」
「自分のどこが良いのか聞いてきて」
「え」
「幸せすぎて怖いって、言っただけだよ」
——アドバイス実践してる!!?!?
ネージュは全身の血が降るのを感じた。
嘘でしょ、何してるの酔っ払いの私! 無礼講にも程ってものがあるよ!?
「わ、忘れて下さい、どうかお願いします!」
「悪いけどそれは聞けない相談だ。昨夜の君はとても可愛らしかったから」
何ということだろう、酒に関する思い出にさらなる黒歴史が加わってしまった。しかも可愛かったとは、見るに耐えないの間違いでは。
ネージュは何とか弁明しようと口を開き掛けたが、ふとカーティスの視線が真剣みを帯びたことに気付いて言葉を飲み込んだ。
何だろう。やっぱり流石に呆れられた、とか。
「ネージュ。今週末の時間も貰っていいかな。できれば丸一日」
「今週末、ですか。それは、もちろんですが……」
想像した内容と全く違っていたので、ネージュはそっと肩の力を抜いた。またどこかに出掛けるのかなと呑気に喜んでいたら、今度こそ爆弾を落とされてしまった。
「良かった、ありがとう。仕立て屋を呼ぶからウェディングドレスを作ろう」
「……え?」
「あと、両親には報告をしておいたから。会えるかわからないとは伝えたのだけど、とにかく週末こっちに来るって言うんだ。都合が合いそうなら会って貰えるかな」
「…………ええっ!?」
ネージュは不躾すぎる大声を上げた。
突如として話が展開しているのだが、これは果たして現実なのだろうか。昨日まで夢みたいだなあと考えていたし、カーティスもゆっくりやっていこうという雰囲気だったはずなのに。
「急に、どうなさったのですか」
「別に急ということもないよ。ただ君があまりに初々しかったから、慣れてもらうまでは水面下で動いていただけだ。……けど、それで不安にさせていたなら話は別だろう?」
軽い力で肩を押されたことに、抗う気持ちは起きなかった。
急速に視界が流れ、軽い音と共に背中にベッドの感触を感じる。気付いた時にはネージュは仰向けになっていて、間近に迫る空色の瞳を見上げていたのだ。
「そろそろ、覚悟を決めてもらわないと困るな」
「覚悟……?」
呆然と鸚鵡返しをしたネージュは、ベッドの上に投げ出した右手をカーティスが持ち上げて、指の中程に唇を押し当てるのをただ見つめていた。
「もちろん、私の奥さんになる覚悟だよ。私は絶対に君を手放す気なんて無いんだ。わかるかい」
この時ネージュはようやく現在の状況に思い至り、心の中で悲鳴を上げた。
顔どころか首筋まで真っ赤になったであろうことは、頬を中心に一気に熱を持ったことから容易に感じ取れた。今度は手首に口付けられてしまい、思わず小さく息を飲む。
とにかく心臓が破裂する前に一旦距離を取らなければ。ネージュは騎士としての生存本能からそんな結論を導き出したのだが、カーティスを押しのけるなどという発想が生まれるはずもなく、限界までベッドに体を押し付けて顔を横に背けた。
「あ、あ、あの……! もう、わかりましたからっ……!」
「いいや、わかっていない。本当にわかっているなら、終わりが来ることなど考えもしないはずだ」
カーティスは今まで一度だって強引なことなどしてこなかったはずなのに、今日に限ってはネージュの訴えを退けてしまう。
笑みを消した端正な顔が近づいてきて目尻に口付けが落とされた。たまらず目を閉じると、暗闇の中でも頬、額、鼻と触れていく感触があって、ネージュはますます身を固くした。
「愛しているんだ。どうしたら信じてくれる?」
——信じる? 貴方のことを信じていないわけじゃないんです。ただ、私が。
「う……わ、私の方が、よっぽどたくさん好きですよっ!」




