酒は飲んでも ②
ブランドンが整えたのは以前ネージュが滞在していた客間だった。
当時はほぼ出入りしたことのなかった部屋に、カーティスは足を踏み入れる。ネージュが琥珀色の瞳を開いたのは、柔らかな体をベッドに横たえようとした時のことだった。
「ごめんね、起こしたかな」
茫洋とした瞳が己の顔を映す。しばらくの間じっと見つめていたか思うと、ネージュはにっこりと微笑んで、カーティスの腕にぎゅっと抱きついてきた。
何が起きているのかわからなかった。照れ屋で恥ずかしがり屋のネージュがこの状況で抱きついてくるなんて。
見た目にこそ表れなかったものの、この時のカーティスは普段の冷静さなど見る影もないほど動揺した。それくらいの不意打ちだったし、笑みを浮かべて見上げてくるネージュが可愛すぎたこともある。
「えへへ。こういうの、やってみたかったんです」
——ああうん、そうか。酔っ払っただけか。
びっくりした。一瞬期待してしまった自分が恥ずかしい。
カーティスは甘さの隠しきれない苦笑をこぼすと、観念してネージュの好きにさせることにした。
肘のあたりには柔らかい膨らみが押し当てられているし、お互いにベッドに腰掛けているという危険極まりない状況ではあるが、酔った女性に手を出すなど外道の所業だ。相手が唯一の女性ともなれば、騎士としての覚悟はことの外強くなる。
そのはずだ。私は耐え抜くことができる。できる。
「どういう風の吹き回しだろう。君から触れてくれるのなんて、初めてだね」
「ふふ。じつは、フレッドに聞いて」
「……何?」
ネージュの口から他の男の名前が出たというだけで、カーティスは俄かに視線を険しくした。
しかしよくよくその内容を考えると、フレッドに言われてこの行動に至ったというように聞こえる。
「今日のお昼、食べた時に、もっと甘えてみたら良いって言われたんです。腕を組むくらいならできるだろって」
——イーネル副団長、君は良い仕事をした。覚えておこう。
先程までどす黒い嫉妬心を抱いていたくせに、カーティスは年若い部下の株を最大限にまで上昇させた。
ただし男友達に恋愛相談をしたらしいことには新たな嫉妬の炎を点されてしまった。シェリーにぞっこんのフレッドなら問題ないのかもしれないが、弱味に付け込もうとする輩はどこにでもいるものだ。気になることは全て恋人たるカーティスに聞くように、酔いが覚めた後でよくよく言い聞かせておかなければ。
「他には何か言っていた?」
「他に……そうだ、これを聞けって。カーティスさんは、私のどこが良いんですか?」
ネージュが可愛らしいことを言ってこてんと首を傾げるので、カーティスはだらしなく顔を緩めた。
なるほど、そう来たか。
普段のネージュなら絶対に聞いてこなかったであろう質問に悪戯心が湧き上がってきた。包み隠さず伝えたら、今の彼女はどんな反応を返してくれるだろうか。
カーティスは腕に巻きつくネージュの手に自分のそれを重ねた。指を絡め、手の甲をそっと撫でる。ランプの明かりだけが照らす空間ではよく見えないが、感触から努力の跡が読み取れる尊い手だ。
「君の良いところなんていくらでもあるけど、一番は真っ直ぐなところかな。時には危なっかしくて心配になるけれど、そのままでいて欲しいとも思う。真面目で、努力家で、働き者だ。いつだって可愛いけど、笑うと心臓が止まるんじゃないかと思うくらい可愛い。……全てが愛おしい」
まだ言い足りないくらいだが、とりあえずこの辺で止めておくことにする。
そろそろネージュの反応を見てみたい。確認しようと目を合わせると、琥珀の瞳が丸くなっている。
恥ずかしそうに慌てるいつもの反応とは違って、途方にくれた子供のような表情だった。見たことのない程儚げな佇まいに、カーティスは心臓が嫌な音を立てるのを感じた。
「……この幸せな時間は、いつまで続くのでしょうか」
ネージュが寂しそうに微笑んで首を傾げる。いつまでとはと聞き返すと、彼女は抱きつく腕の力をふと緩めたようだった。
「だってこんな、夢みたいなこと。ご存知でしょう? 私は孤児で、元平民で。貴方に釣り合うような者ではないんです」
握った手から完全に力が抜けて、砂時計の砂が落ちるようにすり抜けていく。しかしカーティスはその手を追いかけて、ベッドに押しつけるようにしてもう一度強く握った。
離さないという訴えが伝わったのかもしれない。ネージュは再び繋がれた手と手を見て、花のように微笑んでくれた。
「ふふ。こんなに幸せだと、怖くなりますね」
「……何が怖い?」
「終わりが。けど、大丈夫ですよ。わたし、迷惑かけませんから。大好きだから……困らせたく、ないんです」
二人の間にはどうしても埋まらない立場の差があれど、関係ないと伝えるために大切にしてきたつもりだった。こんなにも愛おしいと、守りたいと思っているのに、それすらもままならないとは。ネージュを前にすると年甲斐もなく空回ってばかりだ。
「私は全然大丈夫なんかじゃないよ」
細い肩に触れて引き寄せる。何の抵抗もなく腕の中に収まった愛しい人を、カーティスはきつく抱きしめた。
「ネージュ、愛してる。愛してるんだ」
笑う吐息が首筋をくすぐって、背中に腕が回された。その儚げな感触に胸の奥底が耐え難い痛みを訴える。
私もですと言ってくれたのは、果たして自分に都合のいい幻聴だったのか。
慌てて顔を覗き込むと、ネージュは穏やかな寝息を立てていた。一人残された男が再び強く抱きしめてきた事など、彼女には知る必要などない真実なのだ。




