終話 女王陛下とその臣下の計画的な祝福
馬車から降り立ったネージュはゆっくりと空を見上げた。
ベール越しに広がる空色は包み込むように優しい。初夏の日差しは柔らかく街を照らし、目の前に聳える教会を荘厳に見せている。
あの日、モンテクロ城壁を倒壊させるためにお邪魔した例の教会だ。まさかこんな形でもう一度お世話になるとは思っても見なかったけれど。
ネージュは背筋を伸ばして歩き出した。慣れないヒールに、慣れないドレス。それでも何とか歩いた先に、黒のモーニングを着たバルトロメイの姿があった。
「見違えたな」
感情を露わにすることが殆どない老騎士が感極まったように言うので、ネージュは表情を歪めないように気をつけなければならなかった。
白のレースとシルクのウェディングドレスは夏らしく半袖の仕立てになっていて、腰からゆったりと広がる優美なシルエットが印象的だ。後ろに広がるロングトレーンも、少しだけ伸びた髪を結い上げた髪型も、繊細なベールやハイヒールも、何もかもが上等すぎて夢みたいだとネージュは思う。
「本当に、良かった。幸せにしてもらえよ」
「……はい。ありがとうございます、ガルシア団長」
差し出された腕に手のひらを乗せたのを合図にして、彫刻の施された扉が開かれた。
バルトロメイに伴われて赤い絨毯の上をゆっくりと進む。遥か高いところに描かれた天井画の下、沢山の招待客の中に白い騎士服の集団がいて、見知った顔たちが笑顔で迎えてくれている。彼らの奥方もまた満面の笑顔だ。クレメインに騎士団職員の面々、教え子たる新米騎士たちに、孤児院長のパメラや子供たちの姿もある。
最前列の親族席にいるシェリーは目に涙を浮かべ、通路を挟んだ左側では藤色のドレス姿のファランディーヌが微笑んでいる。その斜め後ろにいるマクシミリアンと、少し離れた場所に座る黒豹騎士団幹部もそれは同じ。
彼らの姿があることは紛れも無い幸いだった。ここに来てくれたことが長年の軋轢を解消するきっかけになることを信じ、ネージュは前を向いて胸を張った。
そして視線の先、祭壇の前で式典用の白い騎士服を身に纏い、ネージュを待つその人は。
空色の瞳がわずかに見開かれている。衣装合わせの時に何度も見てきているのだから、今更驚くようなこともないはずなのだけれど。
祭壇の手前にたどり着いたところで、バルトロメイが自分の席へと帰っていく。ネージュは差し出された大きな掌に己の手を重ね、どくどくと鳴り始めた胸を無視してカーティスの隣に立った。
ここへ来て、ネージュは緊張によるめまいを感じ始めた。
この場に立ったことによってようやく実感が湧いたような気がする。ベールに隠れているのをいいことにそっと隣を見上げると、そこには精悍な横顔が。
全然見慣れないし、今この瞬間もどきどきする。今日のカーティスはいつもよりきっちりと髪の毛を上げており、式典用の騎士服も素晴らしく似合っていて素敵すぎるのだ。
そもそも今この時に至るまであまりにもトントン拍子過ぎなかっただろうか。絶対に反対する人がいるだろうと思っていたのにそれもなく、カーティスの両親にはあっさりと受け入れられてしまったし、騎士団で報告した時の反応も「やっぱり寿退職だったのか、おめでとう」くらいの感じだったし。
というか早い。驚くほど早かった。気持ちを通じ合わせたあの日から、まだ半年も経っていないのに。
全部が全部幸せすぎて落ち着かない。普段あれだけ剣を振り回している女がドレスを着ていることへの後ろめたさもすごい。みんな笑ってないかなこれ。
ネージュは緊張を逃すように視線を上へと向けた。
ステンドグラスが燦々と輝いている。遮るもののない初夏の日差しは、色のついたガラスを透過して教会内を静かに照らす。
パイプオルガンの向こうに設えられたステンドグラスには女神が描かれており、ネージュは美しい意匠を見つめる目を細めた。
ネージュをこの世界に呼び出した女神と、目の前で邪気のない笑みを浮かべる女神は似ても似つかない。神々は世界を管理しているだけであって、困った者に手を差し伸べるため存在しているわけではないのだ。
けれど教会にて感謝の祈りを捧げるとしたら、それだけは聞いていてくれるような気がした。
たった数回会っただけの相手を信頼するのもおかしな話だが、神の仕事は見守ることなのだ。ゲーム機片手に寝転がったまま「ああ良かったな」と微笑んでいる、そんな様子は簡単に想像がつく。
「——死が二人を分かつまで、愛し合うことを誓いますか」
神父の優しく厳粛な声に問いかけられたネージュは、ベールの中に隠れた瞳をぎくりと揺らした。
いけない、どれほどの時間を呆けて過ごしていたのだろう。こんなにも大事な場面なのに、緊張をごまかすための妄想をどこまでも発展させてしまうとは。
「はい、誓います」
一応は違和感のない程度の間の後に、ネージュははっきりした声で返事をすることに成功した。
すると隣に立つ気配がふわりと揺れる。目だけで見上げると、空色の瞳が苦笑を含ませてネージュを見つめている。
どうやらカーティスには緊張の極限に達していることなどすっかりお見通しらしい。
ネージュは頬の熱を無視してもう一度目線を前へと向け、指輪交換に意識を集中することにした。
手が震えそうになるのを何とか制御しつつ、滞りなく交換を終える。薬指に篏められた指輪にはダイヤモンドがあしらわれていて、眩しいほどに輝いていた。
「それでは、誓いの口付けをして頂きます」
神父が厳かに言う。ネージュは羞恥心の限界に立たされて、震える足を叱咤しつつカーティスと向き合った。
この世界においては誓いの口付けを省略するという選択肢など存在しなかった。前世の感覚を持つネージュは親しい人の前でのキスが恥ずかしくて仕方がないのだが、嫌な顔をすることも本意ではないため必死で背筋を伸ばしてカーティスを見上げる。
騎士服の腕が伸びてきて、まるで宝物に触れるようにそっとベールを上げた。すると赤くなった顔を見てどう思ったのか、カーティスが小さく息を飲む。
「……ああ。本当に、綺麗だ」
愛しくて仕方がないという笑顔を浮かべたカーティスが、低く囁いた。
唇と唇が触れる。誓いを捧げるための口付けなのに、気恥ずかしさと同じだけの幸せが胸を満たしていく。それはほんの僅かな時間だったのだが、ネージュには永遠のように感じられた。
そっと顔を離して、カーティスが心の底から幸せそうに微笑んでいるのを見て、また胸が温かくなって。
やっぱり夢みたいだと、ネージュは思った。
実感が湧かないだなんて無責任なことを言うつもりはもうないけれど。それでも、あまりにも幸せだったから。
挙式を終えて外へと出ると、そこには見知った顔ぶれが待ち構えていた。カーティスと二人で顔を見合わせて笑い、祝福の言葉と拍手を受けながら階段を降りる。
すると一番下にファランディーヌがいて、無邪気な子供の顔をした女王陛下は目を合わせるなり藤色の瞳を煌めかせた。
「カーティス、ネージュ! 結婚、おめでとう!」
手にしていた籠から花びらを手に取ったファランディーヌが、空中へと色とりどりの花弁を放り投げていく。
まさか女王陛下が直々に祝福を授けてくださるとは考えもしなかった。歩く先が華やかに染まったことに目を丸くしたネージュは、そこから更なる驚きに見舞われることになる。
シェリーとリシャールを含めた女性陣が花びらを撒いて、その度に爽やかな風が吹いた。見ればバルトロメイとフレッドが魔法を使って花吹雪を舞い上げており、更には何本かの水柱が上がったのはライオネルの仕業らしい。
後ろの方で大きな拍手の音を響かせているのはハンネスで、彼はマクシミリアンに何事か語りかけている。
「俺たちの仕事は無かったな、マクシミリアン!」
「当たり前だ、ハンネス。雷に火なんぞ出したら辺り一面黒焦げだろう」
女王による派手な祝福と歓声で彼らの会話は聞こえるべくも無かったが、内容は簡単に想像がついたので、ネージュは声に出して笑ってしまった。
「……ふふ、あはは! カーティスさん、知ってましたか? みんながこんなことをしてくれるだなんて」
あまりのことに緊張も吹き飛んでしまった。愛しい人たちが生きていて、笑っていて、そして祝福してくれる。
今日という日を忘れることは一度として無いだろう。この世界に生まれてきて一番幸せな日のことを。
「ネージュ」
ふと穏やかな低音に名前を呼ばれて、ネージュは反射的に上を向いた。
その途端に唇を奪われるだなんて想像できたはずもない。
突然のことに目を白黒させたネージュは、そっと唇を離したカーティスの満足気な笑顔を目の当たりにすることになった。
「君はやっぱり愛されているんだなと思い知った限りだ。これくらいは見せつけておかないとね」
「なっ……なっ……!」
何も言えずに口をパクパクさせるネージュを尻目に、囃すような歓声が一段と大きくなる。ファランディーヌとシェリーが歓喜の悲鳴をあげて、誰かが指笛を吹いて、花吹雪がくるくると舞い踊る。
それは佳き日のこと。
得難い祝福を受けて一歩を踏み出した二人の、記念すべき日の出来事であった。
〈了〉




