翡翠のまなざし ②
転移魔法というのは本当に便利な代物である。シェリーがブラッドリー城の裏手に降り立った時、周囲は既に夕日の色に包み込まれていた。
カラスの鳴き声ひとつしない、静かな墓地だった。ブラッドリーの歴代領主とその家族が眠る地は薄暗くとも不気味ではなく、温かみすら感じられるような気がした。
シェリーは騎士服を隙なく纏った姿で両手に白い花束を抱え、地面を踏みしめてゆっくりと歩く。カーティスが言うには南西の端にあるとのことだったから、この辺りか。
周囲をぐるりと見渡した時のことだった。丁度大きな木で死角になっていた場所に予想外の人物を見つけてしまい、シェリーはぴたりと足を止めた。
黒い髪に黒い騎士服の広い背中。一つの墓標に向かって祈りを捧げる後ろ姿は、馴染み深くもないのに誰なのかがすぐに判る。
「イシドロ……」
イシドロは十歩も離れた場所にいて、名を呼ぶ声は小さいはずだった。それなのに彼は特に驚いた様子もなく振り返ると、にやりと口の端を釣り上げて見せた。
「よお、シェリー。久しぶりだな」
あの日、王都で見逃されて以来の再会だ。
シェリーは危うく花束を握る手に力を込めそうになった。イシドロが祈りを捧げていた相手が誰なのか、予想がついてしまったから。
ぎゅっと表情を引き締めて彼の元へと歩いていく。そうして目の前にしたその墓標には、案の定ブラッドリー公爵夫人ハリエットと記されていた。
何本もの花束が備えられており、清涼な香りが辺りを包み込んでいる。恐らくはこの中にカーティスやイシドロの供えた物もあるのだろう。
様々な感慨や疑問が湧き上がってきて、シェリーは困惑するままに青灰色の瞳を見上げた。
「……祈っていたの?」
「まあ、ボスの奥さんだしな。当然だろ」
「私がどうしてここに来たのか、聞かないの」
イシドロは薄く笑ったまま表情を変えない。こちらはますます情けない顔をしている自覚があるのに、飄々とした動きで肩をすくめて見せる。
「俺の知ったこっちゃないね」
——違う。彼は、知っている。
知りもしない相手の命日に祈りを捧げるような、繊細な一面を持つというのならば。
きっと、この推測は当たっている。
シェリーは震えそうになる声を押さえつけるようにして、今まで感じていたことを吐露し始めた。
「貴方は……知っていたのではないの? だから死なないように、守ってくれていたのでしょう?」
最初は何て不遜な男なのだろうと思った。
一般的な礼儀すらなっていない最低な騎士。それなのに信じ難いほどに強いとは、神様はどうしてこうも不公平なのだろうと。
でも、何となく。どう考えても戦場で合間見えるたびに、窮地を救われている気がして。
決闘を申し出た時、受けたのがイシドロでなければ間違いなく殺されていた。
本部の襲撃の時、イシドロがミカを連れて行かなければ死んでいた。
王都での戦いの時にイシドロに見逃してもらえなければ、マクシミリアンと向き合うこともなかった。
どれもこれも偶然にしては出来すぎている。
気まぐれにしては、あまりにも優しすぎる。
「何言ってんのかわかんねえなあ。俺は俺のやりたいようにやってるだけだ」
それなのに。イシドロはここが戦場だとでも思っているかのように、不敵に笑うのだ。
「……本当に、それだけなの」
「あんたは本当に筋の通ったおめでたい馬鹿だな。……はーん? さてはシェリー」
イシドロが端正な笑みをぐいと近付けてくる。青灰色の奥にからかう光が潜んでいるのに気付いたシェリーは身構えたが、その努力は無駄に終わった。
「あんた、俺に惚れたな?」
「なっ……!」
シェリーは一気に沸点を突破して、白皙の美貌を赤く染め上げてしまった。
何でそういう話になるのかまったくわからない。どう考えてもふざけている。もし推測が正しければお礼を言おうと思ったのに、イシドロ相手に礼儀を全うしようとした自分が愚かだった。
ここが墓地である事実も彼方に追いやって、シェリーは精一杯の力強さで声を張り上げた。
「馬鹿言わないで! 私は真剣に話をしているのよ!?」
「へえ、そりゃ悪かったな。俺の気のせいだったみたいだわ。じゃあな」
イシドロはこれほどの剣幕を前にしても動じずに踵を返した。さくさくと土を踏みしめる音を響かせて、気の抜けたような背中が遠ざかっていく。
適当にあしらわれたのだと理解したら色々とどうでも良くなった。シェリーは思い切り息を吸い込んで、不遜な男の後ろ姿に言いたいことをぶつけることにした。
「……イシドロ! 今の私だったら、もっと貴方に食らいつけると思う。だから、今度どこかで手合わせすることがあったら……! 絶対に、手加減しないで!」
反応がないであろうことも覚悟していたのに、イシドロは歩きながらもこちらを振り返った。その口元には不敵な笑みを浮かべたまま。
再度歩き出した背中が薄闇に溶け込んでいく。
空はいつのまにか紫色に染まり、墓地の景色は夜に沈みつつあった。
シェリーはしばらくその場を動くことができなかった。冬にしては柔らかい夜風が熱くなった頬を撫で、腕に抱えた白い花弁をふわりと揺らした。




